第2話 #C1E4E9(バラム州)
ユルマジーンがカエレンと行動をともにするようになり、一ヵ月が過ぎた。
「バラムに行ってみませんか?」
ある日ユルマジーンはそう言って、カエレンに署名活動に関する一つの提案をした。
ザフラーナ一家の悲劇を、ただシャフル・アルク州の中で起きた一つの事件として訴えるのではなく、”RIX貧困”とも呼べる社会システムの綻びにより焦点をあて、この国で暮らす誰しもに起こり得ることなのだと、州を越えて語るべきだと彼は主張した。元判事であるカエレンが、その意図を理解するのは簡単だった。法務官といえども、人である。世論を巻き込んだ裁判で、法廷の外から聞こえてくる人々の声を、完全に無視できるかと問われると、実践できる判事はかなり少ないだろう。カエレンは経験上それを知っていた。姑息な手段にも思えたが、ユルマジーンの強い説得に最後は首を縦にふった。
バラムとは、二人が居住するシャフル・アルク州の東側に隣接する旧第6管区、現在のバラム州のことである。ユルマジーンはそのバラム州の州都バサルクから南に下った、国境の街ザフリークの出身だった。ザフリークにはバラム州最大のマーケットがあり、彼の父親はそこの運営理事だという。多くの人が集まるその場所で、署名への呼びかけを行ってみてはどうかと、ユルマジーンが父親の協力を取りつけてくれた。
二人はバサルク・ターミナル駅で幹線列車を降りると、シャズィール高原鉄道という名の私鉄電車に乗り換えた。シャズィールとは、バラム州を縦断して流れる大きくて長い川の名前である。シャズィール高原鉄道は、その川べりをなぞるように走り、二人の目的地である終点ザフリークまで続いている。窓から見える水面は、散りばめられた宝石のように青白く輝いていた。まだ微かに雪どけ水が混じっているのか、時折鋭く光ってみせる。車内は、この壮大な景色を楽しむ多くの観光客で賑わっていた。
電車を降りると、ザフリーク駅の構内はどこもかしこも人混みでごった返し、国境の街特有の活気が駅舎全体に溢れていた。様々な民族衣装が行き交い、無数の言語が縦横無尽に飛び交う。
「カエレンさん。こっちです!」
ユルマジーンが喧噪に負けないように、声を張り上げてカエレンに呼びかけた。足を前に出す度に誰かのどこかとぶつかり、頭を下げている余裕などない。先を歩くユルマジーンが後ろに残す僅かな空白を、カエレンは見失わないように必死にたどりながら、改札口を目指して進んでいった。
無秩序な人の波をなんとかすり抜け、カエレンはモバイルを改札ゲートにかざした。すると、ゲートの外でたむろしていた数人の子供が
「循環ちょうだい!循環ちょうだい!」
と、訛りの強いオルディナ語で叫びながら、カエレンとユルマジーンに群がった。年齢は様々だったが、皆同じ奇抜な模様のはいった衣服を身につけていて、その装いが彼らが隣国からの移民であることを示唆していた。手に持ったひび割れたモバイルに、VIRDOMのトランザクションコードを表示させて、カエレンの顔の辺りに突きつけてくる。
彼らの言う循環とは、オルディナ共和国政府が徳性循環資産と定めた、RIXのことである。つまりこの子供たちは、改札ゲートから出てきた観光客にRIXをせがんでいるのだった。
VIRDOMの個人認証は、オルディア共和国の全国民が登録されている公民ネットと完全に連動していて、オルディナ国籍を保有する者しか、このウォレットを持つことはできない。しかし、どんな厳格な仕組みにも必ず抜け道がある。中古モバイルを取り扱う店が、VIRDOMがインストールされた状態の端末を秘密裏に販売するのだ。ウォレットに認証されているユーザーは、行方不明者や逃亡する犯罪者などで、足がつく可能性は極めて低い。そして、この子供たちのようにできるだけ多くのRIXをかき集めて、もう一度そのモバイルを同じ店に買い取ってもらう。15%ほどの手数料を差し引かれ、受け取るカラルが彼らの報酬というわけである。
「駄目駄目。ほら道を開けなさい」
ユルマジーンは慣れた口調で、子供たちに言い聞かせていた。
「ごめんね。また今度ね」
カエレンはいたたまれない気持ちになり、思わず無責任な言葉でその場を逃れた。
「マーケットはすぐそこですので」
ユルマジーンはそう言って、カエレンの前を歩いた。
「驚いたでしょう?」
シャズィール川を横目に見ながら、ユルマジーンは振り返らずに呟いた。
「私にとってのエルタン・トゥラルは、この街の景色かも知れません」
ユルマジーンの言葉を聞き、カエレンは寄り添うように流れるシャズィール川に目を向けた。ゆっくりと漂う広大な川面が、朝の日差しを存分に浴びて、その透明な青を誇るように揺れていた。
「私はこの街がずっと嫌いでした」
マーケットの入口まで続く幅の狭い一本道には、ぽつぽつと露天商が立ち始め、色鮮やかな果物や豊富な種類の川魚や水産物が並んでいた。
カエレンの方を振り返ることなく、ユルマジーンは静かな口調で話を続けた。
「カエレンさんがトゥラルさんに思いを寄せたのと違って、私はこの街の人々のがむしゃらな生き方を、無規律で自分勝手なものとして軽蔑しました。今では彼らの窮状に複雑な思いを感じますが、当時の私はただ、この街の常識に自らが染まっていくのが嫌だったのです。それが理由で、自らの内部に確固たる軸を持とうと、普遍的な定理や恣意性のない原理の美しさに、魅了されていったのかも知れません」
「あなたが子どもの頃から、変わらないのですね」
カエレンはユルマジーンの幼少期の姿を想像して、そっと囁くように言葉を返した。同じ年頃の子供たちが物乞いのようにして、日々の暮らしを凌いでいる。彼が冷めた目線で世界を見つめるようになったのは、そんな悲しい現実への防衛本能だったのかも知れない。彼の幼心の葛藤を思い、カエレンの胸は突き刺すような痛みを感じた。
「さあ、見えてきましたよ」
ユルマジーンは切り替えるように、後ろを歩くカエレンに顔を向けて声をかけた。
ユルマジーンの父親は息子とは対照的に、表情豊かな賑やかな人物だった。事務局の片隅に設けられた応接スペースで、カエレンが丁重に彼の厚意への感謝を伝えた後は、終始彼が会話の主導権を握り、冗談を言っては大きな声で笑うのだった。
「お父さん、もういいから。そろそろ始めてもいいかな?」
ユルマジーンはそう言って父親の饒舌を遮り、カエレンとともに立ち上がった。部屋を後にする際、カエレンはカウンターに並べられていたサザール貝の乾物を、申し訳程度に一袋だけRIXで購入した。
カエレンたちが案内された場所は、マーケットの中央に位置するイベント広場だった。背後には、歴史を感じさせる大きな時計台がそびえていて、忙しなく行き交う人たちに時の流れを伝えていた。上空では複数のドローンが雲の隙間をゆっくりと旋回していた。その瞳に宿る光は、シャズィール川に散らばる宝石とは違い、無機質で濃淡のないただ一色の水色だった。
カエレンがマイクを握り言葉を発し始めると、全ての機体が向きを変え、カエレンたちに近寄る気配を見せた。側ではユルマジーンが一人一人に声をかけながら、用意したチラシを手渡していた。
「さっきからうるせえんだよ!」
カエレンの口調が微かに熱を帯び始めた時、先ほどから度々二人に睨みつけるような目線を送っていた男が、怒声とともに近づいてきた。男はカエレンたちのいる広場から、少し離れたところに軒を出す海鮮業者だった。
「大きな声で喚きやがって。商売の邪魔すんじゃねえよ!」
男は今にも殴りかかりそうな勢いで、カエレンに詰め寄った。
「ちょっとちょっと!あなた!」
ユルマジーンがすぐさま駆けつけ、二人の間に割って入った。
「訳分かんねえ話をしやがって!俺らには関係ねえんだよ!」
男の苛立ちは尋常ではなかった。彼の叫び声は辺り一帯に響き渡っていたが、その場に居合わせた人々は冷ややかな目線を送るだけで、突然始まった騒ぎなど我関せずという態度だった。
「ほら、見てみろ!蝿が群がり始めたじゃねえか」
男はドローンのことを蝿と呼んだ。その言葉をE.V.E.がどう捉えるか、カエレンには分からない。しかし、決して品のあるとは言えない言葉がこぼれるほど、彼の怒りは蒸気のように沸き立っていた。
「是非、あなたのお話も聞かせてください!」
カエレンを睨みつける男の気迫に負けじと、カエレンは懐に飛び込むつもりで、男に向かってそう言葉をぶつけた。
「俺たちはなあ、朝早くに起きて、五感の全てでいい品を仕入れてよお、それを買っていってくれるお客さんに笑顔になってもらいたいんだ。ただそれだけなんだよ!カラルだとかRIXだとか、俺たちには関係ねえんだ。ましてや、どこの馬の骨とも知れねえやつの裁判なんて、関わりたくねえよ!」
男はカエレンから目線をそらすことなく、唾まじりの言葉で怒鳴り続けた。一機のドローンがその冷たい瞳を大きく見開き始める。そして、狙った対象物に照準を合わせるため、シャズィール川から吹く江風の中で、一切の動きを停止させた。
「やっぱり、一匹来たぞ!肩でも組んで、にっこり笑ってやろうぜ」
男はそう言うと、戸惑うカエレンの肩に腕をまわし、二人を捕捉するスキャニングレーザーに照らされながら、親指を立てて笑顔を作った。男は、立体に広がる光線が立ち消えるまで、その芝居がかったポーズを崩さなかった。あまりに突飛な男の行動に、カエレンは呆気にとられた。横にいたユルマジーンも、大きな驚嘆の中で、目を丸くしてただ立ち尽くすだけだった。
「な、これで丸くおさまんだよ。お前たちもとっとと帰れ!」
男はそう言い残して、自らの日常に帰っていった。
「すいません⋯」
僅かな沈黙の後、ユルマジーンが声をふりしぼった。やり場のない虚しさと、驚きの余韻が冷めやらず、カエレンは
「あなたが謝ることじゃないよ」
と、月並みな言葉でしかユルマジーンを慰められなかった。故郷の街がこれほどまでに歪んでしまっていることに、ユルマジーンの心が深く沈んでいるのが、カエレンには目に見えて分かった。
「今日はもう帰ろう」
カエレンはそう言って、ユルマジーンの肩を軽く叩いた。ユルマジーンの右手は、持っていたチラシの束を、破れるほど強く握り潰していた。




