第1話 雪の下で《あなたの徳性を測ります》
オルディナの冬はとても厳しい。中でもカエレンの住むシャフル・アルク州は、雪に覆われた僻地と言えた。それはオルディナ共和国の南西部に位置し、連邦国家時代の名残りで、第7管区と呼ばれることもある。
カエレンは、ダウンコートのジップを襟元まで引き上げ裏庭に出た。クローングースの毛は、なぜか天然ガチョウのそれより暖かい。理由を突き止めた研究者は、今のところいなかった。カエレンの持つコーヒーカップに、粉雪が舞い落ちてきた。それらは立ちのぼる湯気の中で形を失い、儚く溶け去るだけだった。
カエレンの自宅は、オルディナ最大の湖であるトゥルマ湖に面していて、裏庭から伸びる小径は湖畔まで続いていた。家の中では、妻のナリアが伝統的な家庭料理であるケシャムの鍋に火を入れていた。そんな長閑な日曜日の風景を、突然聞こえ始めたモーター音の唸りがかき消す。
それは倫理価値エンジンE.V.E.によってコントロールされる、徳性調査ドローンのものだった。5年前、数万機の同型ドローンが、緑豊かなオルディナ全土に放たれた。宗派間の小競り合いが内戦へと発展し、連邦制を維持できなくなっていた当時、国民の多くがE.V.E.の登場をこの国を再び一つにする救世主のように歓迎したが、RIXの急落以降、その存在は冷たい目を持つ検閲者でしかなかった。
姿を現したドローンは、カエレンの存在を捕捉することなく、しばらくして湖の方向へ進路を取った。徳性調査ドローンによるスキャンが始まった後、身を隠すような行動を取ると、レフ・スコアが減少すると言われていた。カエレンはドローンの姿が目視できなくなったことを確認して、部屋の中へと戻った。
「少し早いですが、お昼ご飯にしますか?」
コートの袖にハンガーを通していたカエレンに向かって、ナリアが声をかけた。
「そうだね」
カエレンはそう返事をして、ハンガーを玄関の壁にかけた。
「さてさて、どんなご馳走にありつけるのかな」
カエレンはふざけた調子でそう言いながら、食卓のいつもの場所に腰を下ろした。
ナリアの料理は、どれをとっても絶品だった。これは決して夫の贔屓目ではない。事実、二人が暮らす地区の行事などがあると、周りの住民たちはいつもナリアの腕を借りに来るのだった。
ナリアが運んできたケシャムには、人参や大根、蕪の葉と、この地で採れた野菜がふんだんに使われていて、煮立てたビーンズと牛乳で作るケシャムのスープとよくからんでいた。
「今朝早く、ライリアちゃんのお母さんから電話がありましたよ」
ナリアは自身の皿を食卓の上に置き、椅子を引きながら話し始めた。
「ライリアちゃんって、ザフラーナさんのところの?」
スプーンを動かす手を止めることなく、カエレンはナリアに聞き返した。
「そうそう。ライリアちゃんが昨晩からすごい高熱で寝込んでるみたいで、この調子だと数日は安静にした方が良さそうだから、ひとまず明日の学校はお休みさせてくださいと仰ってました」
ナリアはそう言うと、一口目のケシャムをスプーンで掬った。
「そうかあ。それは心配だなあ」
カエレンは、月並みな言葉で相槌を打った。そして、食卓の真ん中に用意されていたパンを適当にちぎって、ケシャムの中へと指で浸した。パンの硬さをほぐすように皿の中で何度も動かしていると、ふとザフラーナ夫婦の顔が頭に浮かんだ。
一抹の不安がよぎる。
彼らの生活は、決して余裕があるとは言えないはずだ。
何事もなければいいが。
カエレンは、先ほどの気のない呟きを後悔して、揺れるスープの表面をぼんやりと見つめていた。