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Last Update~善vs善vs善vs善vs善…~  作者: 大館敬
第3章 【モラル・キャラバン】
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第1話 #FAC7C1(シャフル・アルク州)

カエレンが開いた特設ページには、サリーム・ザフラーナの減刑を求める署名が、少しずつ集まっていた。その広がりはまだ局地的ではあったが、飛び地的に州境をまたぎ、じわじわと拡大の色を見せ始めていた。


懲役15年という、バシュカール市地方裁判所の量刑は、元判事のカエレンが見てもかなり厳しいものだった。確かに、愛娘を手にかけたサリームの犯行の残忍性に議論の余地はないが、それでも、ザフラーナ一家が当時おかれていた状況や、ライリアを苦しめていた病について、裁判所が情状を酌量することは一切なかった。当初、サリームには控訴の意志はなく、司法当局の判断を厳粛に受け入れようとしていた。しかし、カエレンと弁護人が中心となって、サリーム本人や彼の両親を説得し、シャフル・アルク州地方法務管区裁判所への申し立て手続きをとったのだった。


カエレンが学校長の職を離れてから、三ヵ月が経とうとしていた。オルディナの長い冬が終わり、木々の蕾は大きく膨らんでいる。カエレンは、バシュカールから電車で1時間ほどの距離に位置する、シャフル・アルク州の郊外の街ファルドゥーンを訪れていた。この街は古くからアーモンドの産地として知られていて、今の季節は、街中に白みがかったピンク色の花が咲き乱れる。


カエレンはそんな花霞の景色の下で、一人一人行き交う人に声をかけながら、いつものように嘆願書への署名を呼びかけていた。サリーム・ザフラーナという名前はどこかで聞いたことはあっても、事件の詳細や裁判の内容まで細かく理解している人はまだ少なく、同じ州内で起こった出来事であっても、人々にとってそれはまだ対岸の火事でしかなかった。


カエレンが手に持っていたチラシを配り終え、キャリーバッグから最後の一束を取り出そうとした時、背後に微かな人の気配を感じた。


「校長先生」


カエレンが振り返ると、そこにはユルマジーン・セフディーンが立っていた。突然視界に飛び込んできた予期せぬ人物の姿に、カエレンは瞬きを忘れて驚いた。


「セフディーン先生!どうしてここに?」


カエレンは、素直な疑問をユルマジーンに投げかけた。


「校長の開設されたページで、本日のスケジュールを確認してまいりました」


どこか寂しげで、何かに怯えているかのようなユルマジーンの様子に、カエレンの心は少しざわついた。


「でも、一体どうして」


ユルマジーンがわざわざここまで訪ねてきたのには、何か特別な理由があるのだろう。


カエレンは手に取ったばかりのチラシの束を元に戻し、ユルマジーンの顔を窺うように見つめた。


「少しで構いません。お時間をいただけないでしょうか?」


ユルマジーンは改まった口調でそう言って、深々と頭を下げた。


二人は道を渡った先に一軒のコーヒースタンドを見つけ、それぞれ一杯のエスプレッソを注文し、店先に置かれていたベンチに腰を下ろした。すると、カエレンが声をかける間もなく、ユルマジーンの体は嗚咽とともに震え始め、彼の端正な顔立ちは、流れ出る涙で跡形もなく崩れた。


それは、今までの彼からは程遠い姿だった。常に冷めた目線で全てを解釈し、彼の世界には彼しか存在しないように、カエレンには見えていた。そんな一人の教師が、今目の前で壊れるように泣いている。何をどうしていいか分からず、カエレンは少しだけ腰を寄せ、ユルマジーンの肩を抱き寄せた。


「大丈夫。大丈夫ですから」


カエレンは、ユルマジーンにだけ聞こえるように耳元で囁いた。


ユルマジーンの体が帯びた微熱を、手のひらでさすって取り除くようにして、カエレンはユルマジーンの震える体に身を寄せた。


「すいません」


なんとか僅かな理性を取り戻し、ユルマジーンは小さな声をカエレンに向けた。


「いえいえ、気にしないでください。よっぽどのことがあったんですね」


カエレンはそう言うと、ユルマジーンの肩からそっと手を離した。あと少し、ユルマジーンが落ち着きを取り戻せるまで、カエレンは何も話さず、歩道に並ぶアーモンドの街路樹をそれとなく眺めていた。


「実は⋯」


ユルマジーンは微かに目線を上げ、ぽつぽつと話し始めた。


「今年に入り新年度を迎えて、子供たちと久しぶりに顔を合わせた時、私は彼らの変化にすぐ気がつきました」


カエレンは、かつての自分の居場所を思い浮かべながら、ユルマジーンの言葉に耳を傾けた。


「徳性調査ドローンの音が聞こえると、多くの子供たちがひどく怯え、外に出ることを極端に避け始めました。体育の授業がグラウンドで行われることになると、皆保健室へと駆け込むのです」


カエレンが学校を去った後、カエレンの愛した学び舎の空気は、何やら不穏な流れを見せ始めたようだった。


「教壇の上から見る教室の景色も、ただただ異様と言う以外に表現が見当たりません。クラスにいる全ての生徒が、子供とは思えない張りつめた表情で私を見つめ、大人しく席についているのです。騒ぎ出したり、居眠りをする子供など一人もいません」


小学校長という立場にあると、全校生徒と分け隔てなく触れ合うことができた。やんちゃな性格でいつも輪の中心になっている子供もいれば、うまくクラスに溶け込めない引っ込み思案な子供もいる。学校は彼らにとって、家族以外、初めての社会集団であり、6歳から12歳という多感な時期に、血の繋がらない不特定多数の他人と秩序を保つことは、並大抵のことではない。学校だけが彼らの世界の全てと言えるほど、子供たちの神経は、その集団意識に注がれる。


にもかかわらず、ユルマジーンの伝える子供たちの様子は、集団内に向けていた意識を大きく方向転換させて、外に存在する何ものかの眼の動向だけを気にしているように、カエレンには感じられた。そして、それが何であるか。ユルマジーンは言外に伝え、カエレン自身も容易に想像がついた。


「私が、算数の簡単な問題を質問しても、誰も手を挙げようとはしません。そんなことは今までありませんでした。むしろ、正解が分からなくても、大きな声で私の注意を引こうとするだけの生徒もいたくらいです。私が仕方なく、一人の生徒を指名して答えを尋ねても、『ごめんなさい。分かりません』と、はっきりとした口調で返事をするばかりで、目の前の問いに積極的に向き合おうとしません。それが、一度ではなく、子供たちの常態的行動になってしまいました」


「もしかして、子供たちは⋯」


子供たちの心に宿った病魔は、カエレンの想像をはるかに越えるスピードで、彼らの精神を蝕んでいるのかも知れない。カエレンの胸をかすめた不安が、悲しい現実を言い当てていたことを、ユルマジーンの言葉が証明した。


「そうです。子供たちは不正解を恐れているのです。彼らにとって、不正解はもう不適切なのです。それがどんなに僅かなものであっても、リスクを冒して正解にたどり着こうとはしません。その代わり、究極なまでに模範的な、逆に言うととても無機質な受け応えで、自らの無知を詫び、その場を穏便にやり過ごそうとするのです」


そこまで話すと、ユルマジーンは両手で顔を覆った。今度は囁くような静かな声で、彼の嘆きは涙に濡れた。


「それはやはり、ライリアちゃんの事件が原因なんですか?」


カエレンは慎重に言葉を選びながら、すすり泣くユルマジーンに問いかけた。


「おそらく、そうでしょう。子供たちは少しでも多くRIXを受け取り、両親に負担をかけまいと行動しているのだと思います。ライリアちゃんに降りかかった悲劇が、自分たちの身にも起こらないように、子供たちはまだ成熟しきれていないその心で、必死にもがいているのだと思います。そんな彼らの姿を見ると⋯」


ユルマジーンにそれ以上の言葉を求めるのは、とても残酷なことのようにカエレンには思えた。けれども、子供たちの純粋で無垢な心がゆえの、いたたまれないその変容ぶりに、カエレン自身も声に託す言葉が見当たらなかった。


カップから立ちのぼっていた湯気は、いつの間にか姿を消していた。カエレンは生温かい液体を一口だけ喉に流して、風の中を踊るように流れるいくつかの花びらを、ただじっと眺めた。その軽やかな舞いは、二人の間に漂う重い沈黙を、慰めているかのようだった。


E.V.E.という存在は、人々の徳的言動を啓発するものではなかったのか。

調査という名の監視の下で、子供たちは一体何を学べというのだろう。

レフ・コデックスの誇り高き自律学習こそ、子供たちから経験という学びを奪ってしまってはいないか。


カエレンの心に、行き場のない怒りがふつふつとこみ上げてきた。E.V.E.という巨神はライリア・ザフラーナの小さな命だけでなく、周りの多くの子供たちから精神の自由すらも搾取しようとしている。"205✕520"をきっかけとして、この恐ろしいシステムが内包する黒ずんだ矛盾が、カエレンのすぐ近くではっきりと形となって現れているのだ。そう考えると、カエレンが今立ち向かっているのは、法という堅牢な壁であり、同時に、E.V.E.の目を中心とした台風だとも言えた。


「私も教師を辞めようと思います」


「え!」


ユルマジーンの突然の告白に、カエレンは思わず声を上げた。


「どうして!」


ユルマジーンの方へ向き直り、カエレンは強く尋ねた。


「もう限界です。子供たちのあんな姿をこれ以上見つめ続けることは、私にとって極刑以上の苦しみです」


「気持ちは分かりますが、教師を辞めてこれからどうするつもりなんですか?」


カエレンはさらに語気を強めて、執拗に質問を重ねた。ユルマジーンの決意の固さがどれほどのものなのか、カエレンには全く見当がつかなかった。もし彼が今、人生を大きく揺るがしかねない選択を、ただ溢れる思いのまま直情的に下しているのなら、カエレンはそれを全力で止めなければならない。


「私にできることはありませんか?」


しばらくの沈黙の後、ユルマジーンは静かに顔を上げ、カエレンの瞳に向かってこう尋ねた。


「セフディーン先生。それは、どういう意味ですか?」


ユルマジーンのただならぬ気配を感じ、カエレンは静かな口調で、言葉の真意を確かめた。


「私に、校長の活動を手伝わせてください。それをお願いするために、今日は来ました」


ユルマジーンの顔はもう壊れてはいなかった。その声色はいつもの冷静沈着なものへと変わり、取り戻した落ち着きは、彼の心が脳の動きと同調し始めていることの証左だった。そして、彼の瞳の奥で何かただならぬものがうごめいていることに、カエレンは気づいた。それは使命感のような大袈裟なものではなく、また義務感のような焦りとも違う。ただ確かなことは、彼を今突き動かしているその何かが、カエレンの説得に応じることはない。カエレンはそう直感した。


「先生の覚悟が熟慮にもとづくものだと、はっきりと分かりました。それでも、私が向き合っているのは、法律でもあり、システムでもあり、そしてその先には大海のごとき人々の心が待ち受けています。それでもいいんですか?」


カエレンの問いかけに、ユルマジーンは頷き


「この旅は、私の心の中へも針路をとるはずです。校長の嘆きを私の嘆きとさせてください。私は、もう偽善的傍観者ではいたくありません」


と、はっきりとした口調で返事をした。その言葉を聞いて、カエレンは優しく口元を緩め


「ありがとうございます。先生の言葉は、今確かに私の心の支えとなりました。どうか、お力を貸してください。それと⋯」


と、一度言葉を止めると、ふざけた素振りでこう付け足した。


「校長はやめてください。もう校長じゃありませんから」


ユルマジーンの顔にも、穏やかな笑みが広がった。


「それは私も同じです。ユルマジーンと呼んでください。カエレンさん」


「分かりましたよ。ユルマジーンさん」


二人は顔を合わせ、無邪気な声を出して笑った。その瞬間、僅かに強い風が二人の上空を吹き抜け、ささやかだったピンク色の花びらの舞いが、辺り一面吹雪となって広がった。それはまるで、何かを祝福しているかのように、いつまでも春の風に身を委ねていた。

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