第7話 DAY SEVEN / 明日へ
カエレンの心には、一つの葛藤がうまれていた。窓の外では、カルミスタンの街が、流れ星のような速さで通り過ぎていく。ヴァスティアの車中で、カエレンは昨日のエルタンの顔を思い返していた。自らが携わった下級審の紙記録、中央大法廷でのホログラム記録、またジャヒルの傲慢な主張も、全てがエルタンの穏やかな表情に繋がっているように、カエレンは感じていた。
エルタンは、これまでの命の営みの上で実行された数え切れない選択と、そしてその選択によって導かれた結果の全てを、柔らかな心の中に受け入れていた。
彼の信仰における無垢さは、濁りのない滝水のように鮮明になっていたが、同時にそれは、目に見えない微細な細菌の侵入だけでも、一気に鮮度を崩してしまうだろう。エルタンの達観は、言わば純粋培養された、美しくて脆い善だと言えた。
一方で、愛すべき娘に手をかけたサリーム・ザフラーナには、狂気の気配など皆無である。今、法による裁きの場にいる彼は、自らの行為の悪を認め、諦念の中で罰を受け入れようとしている。エルタンの達観とサリームの諦念は、その点で大きく違っていた。サリームの無垢さは、その清純性の風を受け、舞いながら彷徨う善だった。
エルタンは教義に導かれる形で、サリームはE.V.E.というシステムに押し出されて、法の一線を踏み越えてしまった。
しかし、教義もE.V.E.も、徳を語るものであるはずである。エルタンは父を穢れから、サリームは娘を苦痛から、それぞれ救おうとしたのだ。カエレンはこれまで、二人の選択に漠然と通底するものを感じていたが、今ははっきりとその二つを区別することができた。それによって、さらに正確に、共通する部分と相容れない相違を、同時に理解していた。
山岳地帯に入り、車窓は断続的な暗闇となった。トンネルから走り出る度に、強い陽光がカエレンの両目を刺激する。カエレンはいつもの癖で、閉じた瞼に指先を押し当てた。瞳の緊張が微かに緩み、頭部で淀んでいた血液が流れを取り戻す。カエレンは力を込めていた指を離すと、そのまま目を閉じることにした。リクライニングを少し倒し、頭の重さを背もたれに預けた。
先ほどからの思索を通して、カエレンの頭に一つのイメージが浮かび上がった。それは大きな円で、直径線の左右の対極に教義とE.V.E.が座っている。それはつまり、エルタンとサリームを表していた。大きな円の中心にはもう一つの小さな円が存在し、それはカエレンの古い武器であった法という概念だった。そして、外周円と法の円の間の空間に、霧のように立ち込め揺蕩う、生身の徳が溢れる。
その霧は、時に視界を遮り、方向感覚を奪って、選択を誤らせる。人は、そんな徳を捨て去りたい衝動に駆られることがあるが、掴もうとしても掴めない。常に心の周りにまとわりついて、縛るようでもあり、包んでいるとも言えた。
エルタンの姿に手を伸ばすには、20年という歳月を要した。しかし、今サリームはまだ近くにいる。そして彼は、怯え、嘆き、悲しみの中で、膝を抱えてうずくまっている。
カエレンの葛藤は、徐々に意志という形を持ち始めた。目を開けると、窓の景色は懐かしいシャフル・アルクの緑に変わっていた。
ヴァスティアが静かに停車した。今日12月24日は、古いオルディン暦で冬還の日と呼ばれる祝祭日であり、この日からオルディナでは年末年始の休暇が始まる。降車を急ぐ男たちは、家族との時間が待ち遠しそうだった。それはカエレンも同じだった。はやる気持ちを抑えられず、カエレンが駆け足で歩道橋を渡っていると、遠くの方でナリアが笑顔で手を振っているのが見えた。
質素ではあったが、たくさんの料理が食卓に並べられた。冬還の日は、一晩だけ子孫の家に、彼らの先祖が戻ってくる日である。現世の家族の健康を確かめに来ると信じられていて、オルディナではいくつかの野菜を供えて、先祖の冬還を祝うのだった。それは蓮根、ほうれん草、南瓜、そら豆、アマルナの五種である。それぞれの形状や味わいが特別な縁起を担っていて、特にオルディナ原産のアマルナは、強い酸味が悪を祓うと言われていた。多くの子供が苦手にする食べ物である。スープやサラダ、燻製など、それぞれに適した調理が施され、野菜たちは皿の上で大地の香りを振りまいていた。
「私には電話の一本もよこさないで、心配してたんですから。それで、カルミスタンではどんな7日間でしたか?」
ナリアは二人のグラスにワインを注ぎながら、からかうような笑みを浮かべてカエレンに尋ねた。
「すまない、すまない。考えさせられることばかりで、頭の中がパンクしちゃってたんだよ」
カエレンは言い訳がましくそう答え、ナリアとグラスをぶつけた。
ナリアと囲む久しぶりの食卓の上は、終始カエレンの言葉で溢れていた。紙記録の持つ佇まいや、ホログラム記録の圧倒的な没入感。礼拝所で会うことのできた統主ジャヒルや、カエレンが彼の言葉に激昂してしまったこと。そして、そのジャヒルからエルタンとの再会の機会を与えられ、カエレンが目の当たりにした現在のエルタンの様子など、ヴァスティアで出会った老婦人や公園で声をかけてきたカラル屋の男にいたるまで、カエレンの口は吐き出すばかりで、飲み込む作業を時折忘れた。
ナリアは、静かにカエレンの話に耳を傾けていた。時に驚き、時に涙を浮かべながら、ただじっとカエレンの言葉を心の中に納めていた。
カエレンの言葉が区切りを迎えると、ナリアはカエレンの瞳を真っ直ぐに見つめながら、優しく微笑んでこう言った。
「それで、あなたはどうしたいの?」
カエレンの心を見透かすように、彼女の声には覚悟のようなものが滲んでいた。
「校長を辞めようと思う」
カエレンもナリアの瞳を強く見つめて、自らの決断を言葉にした。
「僕に何ができるか分からないが、サリームさんの力になりたいんだ。彼がエルタン・トゥラルのように過去になってしまう前に」
ナリアは立ち上がり、カエレンの空いたグラスにワインを注ぎ足した。そしてワインボトルを食卓に置くと、椅子に座るカエレンを後ろから強く抱きしめた。
「これはこの前のお返しです」
と、おどけた口調で呟いた。
「あなたの思う通りになさってください。あなたの正義が求めるままに」
「君には苦労をかけることになると思うが」
カエレンの視界は涙で滲んだ。胸の辺りでかたく重なるナリアの両腕を握りしめ、カエレンは言葉では語りつくせない感謝の思いを、手のひらにこめた。