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Last Update~善vs善vs善vs善vs善…~  作者: 大館敬
第2章 【儀式への追憶】
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第6話 DAY SIX / 沈む前

ナジュル・ベルナ慈善病院のイーティングエリアは、施設に入ってすぐ左側にあった。その側には、複数の精算デバイスが設置されていて、数えきれないほど多くの患者たちが長蛇の列をつくっていた。そのほとんどの人が、VIRDOMにログインした状態のモバイルを手に持っている。彼らは自身の医療費の支払いに、RIXを使おうとしているのだ。カエレンはそんな様子を、イーティングエリアの窓際の席に座り、ぼんやりと見つめていた。


昨夜カエレンは、うまく眠れなかった。ジャヒルの主張に反論を重ねていた時は、怒りだけがカエレンの心を支配していた。しかし、夜になり、読書灯だけを残してベッドに横になると、今度は底知れぬ無力感がこみ上げてきて、カエレンの瞼は何度も眠りへの誘惑に抗うのだった。


ティルマン駅からカルミスタン・セントラル駅まで出て、アゼラン線に乗り換えると、ナジュル・ベルナ駅は一つ隣の駅だった。一つしかない出口を上がり、国道から一つ路地に入ったところに、エルタンのいるナジュル・ベルナ慈善病院はあった。総合受付で問い合わせると、エルタン・トゥラルは午前中にいくつかの検査が予定されているらしく、彼が病室に戻るまで、カエレンはこのイーティングエリアで時間を潰すことにした。


医療スタッフを除くと、ほぼ全ての人が礼拝所の男たちと同じ、黄色い礼拝服を身にまとっている。おそらくこの病院は、ミザル教ハティブ=ナウル教義派の関連施設だろうとカエレンは想像していた。彼らには、灰化の儀という悪魔のような慣習がある。そのためにも、この過激な宗派の人々を、広く受け入れる医療機関が必要なのかも知れない。改めて、カエレンの心は怒りの温度で沸き立ち始めたが、それと同時に、骨の奥まで沁み入るような寒気が背中全体に走った。


隣の席では、老いた一人の男性と、その孫だろうか、幼い男の子が仲良く昼食をとっていた。自身に残された僅かな時間を、この老人は孫の無邪気な笑顔に捧げているのかも知れない。そう思うと、カエレンの胸は苦痛の果てに張り裂けそうだった。


今日のカルミスタンは、珍しく風が強かった。カエレンが窓の外に視線を移すと、雲から落ちる雨粒が、鋭い角度で地面に突き刺さっている。


ついに一度も太陽は姿を見せてくれなかったな。


カエレンは、この街の風景が少し名残り惜しくなっていた。明日の今頃は、もうヴァスティアに揺られているはずである。果たしてその車中で、自分の心は何を感じているのだろう。何に怯え、何に立ち向かうのだろう。ナリアに話さないといけないことが、カエレンの胸には溢れかえっていた。


午後1時を少し過ぎた時、カエレンの名前を呼ぶ院内アナウンスが流れた。


「カエレン・ヴォルダスさま。五階、面会受付までお越しください」


不思議と、カエレンの心は揺れていなかった。ジャヒルとの対峙によって、予断や憶測にとらわれてはならない。カエレンは、ただ無心でエルタンの心を感じたかった。エスカレーターで、一つずつフロアを通り抜けていくごとに、人々の瞳の翳りは重く濃いものへと変わっていった。


降り立った五階フロアには、はっきりと死の匂いが立ちこめていた。患者の姿は、誰一人見えない。それでも、漂う空気はただ淀みながら沈殿するだけで、まるで次の命が終わるのを静かに待っているかのようだった。この階のどこかに、あの儀式のための特別な部屋があるかも知れない。カエレンの脳裏に、孤独と狂気に侵された景色が浮かんだ。


面会受付はすぐに見つかった。カエレンが受付カウンターの前まで進み


「あの、今呼び出しのあったカエレン・ヴォルダスです」


と小さな声で名前を告げると、若い女のスタッフは


「エルタン・トゥラルさんへの面会ですよね?ご親族の方ですか?」


と、訝しそうにカエレンに尋ねた。このスタッフは、エルタンが天涯孤独であることを知っているようだった。


「いえ、そういうわけではないのですが。古い知人のようなものです。もしかしたらエルタンさんも覚えてらっしゃらないかも知れません」


「では、こちらに、分かる範囲で結構ですので、ご自身に関してご入力ください」


女はそう言って、使い古された一世代前のタブレットをカエレンの前に置いた。カルミスタンと比べると、カエレンの暮らすバシュカールは辺境の土地と言えたが、それでもカエレンが校長を務める小学校では、これより新しいタブレットを備えている。ここでも、カルミスタンの街で、ハティブ=ナウル教義派の人たちがどれだけ息をひそめて暮らしているか、彼らの境遇が垣間見えた。


「それでは、こちらに進んでいただいて、奥に扉がありますので、そちらから中にお入りください。廊下にトゥラルさんのお名前が出ていると思いますので、そちらが病室です」


カエレンがタブレットを戻すと、女はカウンターから少しだけ身を乗り出し、脇に伸びる通路を指差しながらそう言った。


「一応、お伝えしておきますけど⋯」


カエレンがその場を離れようとすると、女は最後にこう付け加えた。


「トゥラルさんはここ数ヵ月お食事を絶っておられます。ですので、あまり長くはお話しできないと思いますよ」


カエレンは、女の言葉の意味が理解できなかった。


絶っているということは、つまりエルタンは自らの意志で、食事をとることを拒絶しているに違いない。

だが、もしそうだとしたら、彼はどんな理由でそんな異常な行為を続けているのか。


カエレンの思考は、果てのない迷路の中で行き場を失った。少しずつ歩みを進め、通路を通り抜ける間も、地に足つかない感覚だけがカエレンの五感の全てだった。


女のスタッフが説明した通り、通路の先に一つの扉がひっそりと佇んでいた。おそらくその先には、入院患者たちが日々を過ごす病室が並んでいるはずである。しかし、そんな特別な空間への入口であるにもかかわらず、何の変哲もないその扉は、ただの一枚の板としての意味しか持っていなかった。


戸惑いは、まだ治まらない。けれども、カエレンは少しずつ、その戸惑いをただ戸惑いとしてだけ、ありのままに受け入れ始めていた。それは俯瞰でも諦念でもなく、揺れ動く一つの感情が、カエレンの心の一部なって、淡く溶け込んでいくような感覚だった。


カエレンは、扉の取っ手を軽く握り、ゆっくりと横に滑らせた。すると、すぐさま病院特有のアルコール臭が鼻を刺した。カエレンは、右側に一定の間隔で並ぶネームプレートを一つ一つ確認しながら、冷たい廊下を黙々と歩いていった。


50mほど進むと、病室エリアの廊下は左へ直角に折れていた。カエレンがその角を曲がると、一際明るい光の下にナースステーションが見えた。カエレンがそちらに目線を向けず、申し訳程度の会釈をして通り過ぎようとすると、中年の女性看護師が急いでカエレンを呼び止めた。


「エルタンさんに面会の方でしょ?」


看護士の言葉には、エルタンへの親しみが滲んでいた。


「はい、そうですが」


カエレンが返事をすると、女は先ほどからのカエレンの疑問を、少しだけ解きほぐしてくれた。


「エルタンさんは、もう長い間お食事を召し上がっていません。灰化の儀を5年後に控えて、エルタンさん自身、ご自分の肉体が少しずつ穢れ始めていると感じておられます。食を絶つことで、少しでも清く澄んだ状態で儀式を迎えたい。そういうお強い神への敬意からのご決断ですので、彼の禁欲に水を差すようなお話は、お控えいただけますでしょうか」


心と体、感情と理性。当時から、エルタンの全てを縛り上げていた自律の縄は、20年経った今さらに強く彼を絞めつけているのかも知れない。エルタンの信仰心は危険なほど研ぎ澄まされ、鋭利な刃物となって彼の喉元でいつも光っている。そんな風に、カエレンには感じられた。


「ええ。分かりました」


カエレンの頭の中はまた無秩序に乱れ始めたが、エルタンはもう、すぐ目の前にいる。何度も伸ばせなかった手が、今やっとエルタンまで届きそうになっているのだ。カエレンは看護士の女に返事をすると、力強く廊下を踏んで足を進めた。


エルタンのネームプレートは、なぜだか少しだけ傾いていた。カエレンはそれを、そっと両手で正しい角度になおし、病室の扉をノックした。


「どうぞ」


エルタンの声は、カエレンの記憶のままだった。徐々に鼓動がリズムを早める。返事が聞こえても、カエレンはすぐに扉を開くことができなかった。そのたった数秒が、カエレンには20年という月日よりはるかに長く、そしてどの惑星よりも重く感じられた。


「どうぞ」


もう一度、中から声が聞こえた。カエレンは取っ手を握った。さっきの扉と同じ造りであるはずなのに、エルタンの病室の扉は軋む音を立てながら、ぎこちなくレールの上を動いていた。


「えっと、どちらさんでしたかな?」


カエレンが部屋の外で立ち尽くしていると、エルタンが不思議そうな表情で尋ねてきた。カエレンは、必死の思いで両足を交互に前に出し、エルタンのベッドの側までたどり着いた。エルタンの腕には、一本の点滴が刺さっていた。カエレンは一度大きく深呼吸をし、へその辺りにぐっと力を込めると、覚悟を決めてエルタンに話しかけた。


「いきなり訪ねてしまいまして、申し訳ありません。私はカエレン・ヴォルダスと言います。覚えていらっしゃいませんよね?」


エルタンはベッドのリクライニングを起こしながら、首を傾げてこう答えた。


「すいません。どうも覚えが悪くなってしまって。どちらのヴォルダスさんでしたかな?」


口の渇きが、一瞬カエレンから声を奪ったが、カエレンはもう一度力をふりしぼり


「あなたが被告人であった裁判で、あなたから10年という年月を奪う判断をした、判事の中の一人です」


と赤裸々な表現で、二人の過去の因縁をエルタンに伝えた。


「そうでしたか。その節は、どうもお世話をかけました」


エルタンの表情や口ぶりには、カエレンに対する敵意のようなものは、微塵も感じられなかった。頭を下げるエルタンの姿は、むしろ本当にカエレンの務めを労うようで、カエレンの胸は微かな痛みを感じた。


「その後、いかがお過ごしでしたか?」


そんな質問が何の意味も持たないことを、カエレンは十分に自覚しながらも、その場を取り繕うように言葉を吐いていた。


「事件をきっかけに、銃の免許も没収されましたから、外に出てきてからは、映画を観ることが私の憩いの時間になりました。若い人たちが好む映画にも多くの学びがありますし、昔観た映画に触れるとまた違った発見があるものですね」


エルタンはとても穏やかに、そしてとても落ち着いた口調で、彼の日常をカエレンに話した。


「あの⋯」


カエレンは口ごもりながらも、頭の中に引っかかっていた疑問をエルタンに向けた。


「どうしました?」


「病院の方から伺ったのですが、今は食事を絶たれていらっしゃるとか」


カエレンの質問に、エルタンは声を出して笑った。


「ええ、そうです。ヴォルダスさんには到底ご理解いただけないでしょうね」


あっけらかんと答えるエルタンの様子は、過酷な状況に身を置いているようには少しも見えなかった。


「私も、あと5年でお仕舞いにしないといけません。その時、神のお手間を煩わせないように、少しでも多くの穢れを取り去って、その日を迎えたいのです」


彼は自らの存在すらも否定しているのではないかと、カエレンは考えた。


存在しない存在には、身を寄せる共同体などもちろん必要ない。

もしそうであるならば、エルタンは教義や法律、そして勿論レフ・スコアさえも、超越しようとしているということにならないか。

ジャヒルの最後の言葉の意味は、そういうことだったのかも知れない。


「それほどまでにご自身を厳しく戒められず、あと5年と仰るなら5年でも構いません。余生をゆっくりと過ごす訳にはいかないのですか?」


カエレンは強い絶望感を感じながら、エルタンの言葉を待った。するとエルタンは


「ヴォルダスさんは、もう私を赦してくれましたか?」


と、あどけない笑顔でカエレンに言った。


全ての時が止まった。カエレンの脳裏で、これまでの人生の全ての記憶が走馬灯のように蘇っては、次々と消えていく。全ての言葉が、カエレンの口からこぼれることに、全力で抵抗していた。


「少し意地悪が過ぎましたかな」


エルタンはまた声を出して笑い、そう付け加えた。


カエレンは、それからどのようにエルタンの病室を辞し、どうやって自身の部屋まで戻ったか全く覚えていなかった。しかし、闇の中で目をこらし、手探りで過去の荷物を取り出していたカエレンの体に、小さな光が当たり始めているのは確かだった。それはまだ、今にも消えそうな、とても細い線だったが、カエレンにとっては十分過ぎる明日への足掛かりだった。


狭い部屋で小さな椅子に座りながら、カエレンが窓の外に目をやると、夕暮れの太陽が繊細な紅でその身を包んでいた。

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