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Last Update~善vs善vs善vs善vs善…~  作者: 大館敬
第2章 【儀式への追憶】
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第5話 DAY FIVE / 帰属

カエレンは指定された時間に、サファ・ミフラーブ礼拝所を訪れた。一昨日降った雪は敷地内を凍結させていて、昨日カエレンに応対した信者が、スコップを片手に地面にこびりつく氷を剥ぎ取っていた。


「おはようございます」


玄関ゲートはすでに開かれていたが、招かれざる客であろうカエレンは、中には入らずゲートの外から男に声をかけた。顔を上げた男は、あからさまに迷惑そうな表情を浮かべ、カエレンの元へ近づいてきた。


「会えるかどうかは分かりませんからね」


信者の男は改めて、カエレンにそう忠告した。


「分かっています」


カエレンが返事をすると、男は


「では、私についてきてください」


そう言って、カエレンを礼拝所の中へと案内した。


扉を抜けると、そこは荘厳な造りの礼拝堂だった。部屋全体がそこはかとなく薄暗く、四方を囲む石壁からは、ほのかに冷気が滲み出ていた。中央には円形の青い絨毯が敷かれ、その真ん中に設置された礼拝台の上には、ハティブ=ナウル教義派の象徴である、一本の細い枝を象った小さな彫刻が祀られていた。天井からは、細工入りの真鍮ランプが柔らかい光を投げかけている。石の床に響く二人の足音が、神聖なる静寂をより強調していた。礼拝台を中心とした礼拝スペースは、十字に走る通路で四分割され、それぞれの区画には、扇形を描く礼拝者用の三列の長椅子が、外側に向かって連なっていた。


礼拝台の前まで進むと、男は一列目の席を手のひらで指し示し


「こちらで、しばらくお待ちください」


とカエレンに伝えた。


「ところで」


男は動き始めていた足を止めて、カエレンの方に向き直り、事務的な口調で統主への面会理由を尋ねてきた。


「カエレン・ヴォルダスさんと仰いましたね。どんなご用件で統主とお会いになりたいのですか?」


「はい。カエレン・ヴォルダスです。昔、こちらの信者の方が被疑者となった事件に関するお話を、統主の方から伺いたいと思いまして」


何かを感じ取ったのか、男の目元が僅かに震え、カエレンを警戒する猜疑心の影が、瞳の奥でうっすらと立ちこめた。


「事件と言いますと?」


男は心の動揺を必死に隠しているようだった。


「20年前に起こった、いわゆる灰化の儀事件です。私はこの事件の高等審で、判事の一人でした」


カエレンがそう答えると、二人の間に流れる空気が一気に張りつめたものへと変わった。男の目つきは防衛本能からくる緊張を宿し、全身の筋肉が何かを守るかのように強く硬直したのが、カエレンの目にも分かった。


「分かりました」


男はそう一言だけ言い残して、礼拝堂の奥へと消えていった。


やはりあの事件は、20年経った今でも、彼らの胸に深く刻まれているのかも知れな

い。


カエレンは、目の前の彫刻にそっと目を向けた。その一本の細い枝は、カエレンが初めてサリームと面会した時、枯れ木のように見えた彼の姿と、どことなく重なり合って見えた。


ここには、確かに掬いきれなかった思いが落ちている。


紙記録でこの礼拝所の名前を見つけた時、カエレンが感じた予感が、少しだけ確信めいたものに変わっていくのが分かった。


しばらくすると、奥の部屋から、信者の男が一人の男とともに姿を現した。カエレンより一回りほど年長だろうか。信者の男と変わらぬ黄色い礼拝服に身を包み、顔半分に立派な髭をたくわえている。胸にはきらびやかな赤い光沢を帯びた、ペンダントのようなものが光っていた。若い信者の様子から、この男がミザル教ハティブ=ナウル教義派の統主だと思われた。


カエレンはなぜかこの男の顔に見覚えがあった。だがどう考えても、面識があるとは思えない。はっきりとしているのは、その見覚えが遠い昔の出来事だということだけだった。


「統主がお会いになるそうです」


カエレンはそっと立ち上がり、目の前まで来た男にお辞儀をした。


「お会いいただき、ありがとうございます」


というカエレンの言葉に


「こちらこそ、わざわざご足労いただきまして」


統主の男はそう応えて、ゆっくりと頭を下げた。


「今日は信者の方もいらっしゃらないようなので、こちらでいいでしょう」


統主はそう言って、カエレンが座っていた長椅子の端に腰を下ろした。カエレンにも隣に座るように促し、若い信者に向かって


「もういいですよ」


と声をかけた。統主の言葉を受け、若い信者は深々と頭を下げて、礼拝堂の外へと席を外した。


「初めまして。ジャヒル・トゥラディンと言います」


“トゥラディン”


カエレンは確かにその名前を知っていた。カエレンが判事を務めた裁判で、統主として出廷していた男の名前も、トゥラディンだったはずである。


過去の記憶を激しく掘り起こすばかりで、カエレンが挨拶を返しそびれていると


「お気づきになられましたか。私は、事件の時統主だったハサン・トゥラディンの息子です」


男はそう言って、からかうようにカエレンの顔を覗き込んだ。


「そうでしたか。それで合点がいきました。失礼しました。カエレン・ヴォルダスと言います」


カエレンは慌てて、自身の名前を統主の男に告げた。


「私はヴォルダスさんのことを覚えていますよ」


「え、どうしてですか?」


統主の言葉に、カエレンは素直に驚いた。


「当時私は、確か42歳でしたかね。全ての審理を傍聴しましたから。あなたのお顔は今でもはっきりと覚えております」


「そうでしたか⋯」


あの無数の野次の中に、ジャヒルの声も混ざっていたのかと思うと、この20年ぶりの再会がどんな意味を持つのだろうかと、一抹の不安がカエレンの胸をよぎった。


「それで、エルタン・トゥラルさんのことですね」


「はい。彼は今どうされているんですか?」


「トゥラルさんは、現在入院生活を送られています。それでも、詳しくはお話しできませんが、今でも素晴らしい信仰心をお持ちの、皆の手本になるような信者の一人ですよ」


素晴らしい信仰心というジャヒルの表現は、過激とも言えるエルタンの敬虔さが、今も変わっていないことを示唆していた。困惑、怒り、動揺、悲しみ。それら全てが胸の奥で渦巻いて、カエレンから言葉を奪った。しかし、そんなカエレンの様子を気にも留めず、ジャヒルは話を続けた。


「上告審が終わってトゥラルさんが収監されてすぐ、お母さまもこの世を去られましてね。それでも、彼の教義への忠節は揺らぐことはありませんでした」


カエレンは、当時エルタンの瞳が醸し出していた不気味さと同じものを、目の前のジャヒルの口ぶりにも感じざるを得なかった。


カエレンは気持ちの整理がつかないまま、どうしても尋ねなければならない、もう一つの疑問を、意を決してジャヒルにぶつけた。


「やはり、あの儀式は今でも続いているんですか?」


ジャヒルは何かを隠す様子もなく、淡々と答えた。


「はい、粛々と。中央治安省の取り締まりが厳しくなって、肉親や他の信者が儀式に関わることは難しくなりましたが、トゥラルさんの事件以降も、誰一人この教義を破った者はおりません」


当然のように話すジャヒルの言葉に、入り乱れていたカエレンの感情の中から、怒りの熱がバランスを強めた。カエレンは、昂る感情を抑えきれなくなってきていた。


「あなたはあの儀式が、さも清い行いであるかのように話されている。それは、社会の常識から大きく乖離していると、私は考えざるを得ません。それでは、あなたたちの宗派に属さない、例えば私のような者の肉体が80歳を迎えた時、あなたたちはどうお考えになるのですか?」


カエレンは迫るように、ジャヒルを問い質した。ガラスでできたドーム型の天井から、降り始めた雨の音がぽつぽつと聞こえてきた。その旋律を狂わすように、徳性調査ドローンのモーターが不協和音として遠くから唸る。


「灰化した肉体を引きずりながら生きているということは、腐体を晒す、とても恥ずべき行為です。ですが、それは私たちの信仰の外の出来事ですので、私どもがとやかく言うべきことではありません」


身勝手な暴論に、カエレンはすぐさま反論することができなかった。それでも、カエレンは両手を強く握りしめ、ジャヒルの両目を睨みつけながら、断固とした口調でこう言った。


「その考えは、到底承諾できません!あなたたちの考え方は、自我を形成するために絶対的に必要である他者の存在を、完全に否定しているではありませんか!」


ジャヒルの達観が揺るぎないものであることを、彼の微笑みが裏付けていた。カエレンだけが、一人舞台上で踊らされているピエロのようだった。


「いいえ、そんなことはありません。存在は認めますが、露知らぬことだと申しているのです」


ただ四肢をばたつかせるだけのピエロ。例えそうであったとしても、カエレンはジャヒルの主張に対する強い拒絶の意志を、うやむやにすることはできなかった。カエレンは思わず立ち上がった。


「それは詭弁だ!あなたたちは、極めて自分勝手な論理を掲げている!共同体の仲間をまるで無視し、あたかも自分たちの教義だけが、共同体の一般意志かのように話されている。そこには、違和への受容というものが欠片もない」


叫びにも似たカエレンの声に驚いた先ほどの若い信者が、扉の外から顔を出した。その姿が目に入り、ジャヒルは軽く頷くと、右手で信者を制して、さらなる主張をカエレンにぶつけた。


「それでは、あなたの言う共同体とは何を指している言葉なのですか?宗教ですか?それとも、我々のようなさらに細分化された宗派のことですか?街ですか?州ですか?オルディア共和国という国家ですか?それとも、言語ですか?肌の色ですか?」


「それは議論のすり替えじゃないか!」


カエレンの怒号は、礼拝堂の静寂の中で虚しくこだました。しばらくの間、二人の間には沈黙だけが漂った。まさしくカエレンだけが、この空間の異物だった。冷たい石壁が、その異物を押し出そうと迫ってくるように感じた。


すると、ジャヒルが礼拝服の胸元から、黒い小さな手帳を取り出した。ページの端に何かを走り書き、その部分だけを破り取ってカエレンに手渡した。


「分かりました。そこまで仰るなら、この住所にお行きなさい。エルタン・トゥラルさんが入院している病院です。自分の目で確かめてみればよろしいでしょう。今の彼は、もうどの共同体にも属していませんよ」


そして、ジャヒルは立ち上がり


「それでは、私はこれで」


と言い残して、礼拝堂の奥へと消えていった。その足音は、強くなり始めた雨音と反比例するように徐々に小さくなり、そして聞こえなくなった。ジャヒルの微笑は、ついに最後まで崩れなかった。カエレンの昂った感情は、まだ治まりそうになかった。


恩師の言葉が脳裏に浮かんだ。拾い上げたジャヒルの思いは棘だらけだったが、それでもカエレンがテーブルに並べると、際どいバランスの上で重心を保っている。揺れたり、転がる気配はない。それがやはり、カエレンには恐ろしかった。


受け取ったメモに、カエレンはそっと瞳を落とした。


明後日には帰路につかなければならない。

この旅に決着をつけるには、明日しかないんだ。


カエレンは強く心に言い聞かせて、メモをコートのポケットに押し込んだ。

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