第4話 DAY FOUR / 倒錯
カエレンの休暇も、残すところあと4日となった。旅の予定はあえて細かく立てず、成り行きにまかせて、ただ心が求めるままに歩みを進めようと、カエレンは考えていた。過去の自分と向き合うのにどれだけの時間が必要か、カエレンには分からなかったが
「せっかくですから、昔よく行ったお店やシティー・タワーの公園なんかも、久しぶりに訪ねてみたら?」
というナリアの言葉に、カエレンはクリスマスまでの7日間を旅に費やすことに決めたのだった。
4日目の昼下がり、カエレンは寂れた礼拝所の前で佇んでいた。それはサファ・ミフラーブという名前で、カルミスタンの街の北東部、旧市街地のはずれにひっそりと建っていた。この辺りの景色は、カエレンの暮らしていた20年前と何一つ変わらなかった。そのお陰で、カエレンの記憶はおぼろげなものであったが、ここまでたどり着くのは難しいことではなかった。
細い路地に面した玄関はかたく閉ざされ、人の気配は全くなかった。来訪を知らせる手段も見当たらず、カエレンは玄関ゲートの隙間から、さりげなく様子を窺うしかなかった。カエレンが中に入ることを諦めその場を立ち去ろうとした時、黄色い礼拝服に身を包んだ、信者らしき若い男が礼拝所の中から出てきた。不審そうな目つきでカエレンを見ながら、男が少しずつ近づいてきた。
「あの、今日は休拝日ですが」
面識のない突然の来訪者に、男は戸惑いの色を隠さなかった。
「お約束もなしに、申し訳ございません」
カエレンは一言お詫びを添え、礼拝所を訪れた理由を、取り繕うことなく率直に言葉にした。
「私はカエレン・ヴォルダスと言います。不躾なお願いなのですが、ハティブ=ナウル教義派の統主である導師の方に、是非お会いしたいのです」
すると男は、はっきりと眉間に皺を寄せ、カエレンをあしらうように厳しい口調でこう答えた。
「どんなご用件で統主に会われたいのか存じませんが、とにかく今日はここには誰もおりません。どうしてもと仰るなら、明日の朝9時にもう一度お越しください。その時間なら、おそらくお見えになっていると思います。ですが、あなたに会われるかどうかは、あくまで統主がお決めになります。その点、誤解なきよう」
そして、男は踵を返して立ち去って行った。男の応対には取り付く島が全くなく、カエレンは仕方なく、もと来た道を下り始めた。
空から落ちてくるものはなかったが、昨日の雪が名残り惜しそうに街全体を白く覆っている。日差しを遮る雲は、鉄の板のように今日も上空に貼りついていた。
カエレンは足元に気を配りながら、蛇行する下り坂をゆっくりと歩いていった。積もる雪を見つめていると、その白いキャンバスの上に、昨日のエルタンの残像が浮かび上がってくる。あの時、もう少しで手の届く距離にエルタンはいた。それでも、カエレンが手を伸ばせなかったのは、それがホログラムによる立体記録だからだけではなかった。
あれから20年。満期で出所していたとしても、かれこれ10年は経っているはずである。年齢も75歳。あと5年で、彼自身も灰化の儀を迎える歳である。その前に一度、カエレンはエルタンに会いたかった。いや、会わずにはいられなかった。
儀式を控えて、彼はどう生きているのだろうか。
少しでもエルタンの現在に触れられないかと、カエレンはサファ・ミフラーブ礼拝所を訪れたのだった。
坂道を下りきり、つき当たった旧道を左に折れると、眼下にカルミスタン・セントラル駅の駅舎が見えてきた。伝統的なヴァル=ディナリス調であるこの建物は、石と金属、特に銅や真鍮を組み合わせることで、煌びやかな光の反射を演出する。ヴァル=ディナリスとは、17世紀にカルミスタン一帯を治めていた王朝の名前で、ヴァルディーンという州名の語源でもあった。古くから、カルミスタンは交易の街として栄え、世界中の名産品が集まる場所であった。この駅舎も、巨大マーケットだった当時の造りをそのままに、今では街の顔として人々に親しまれていた。
ナリアの言ったシティ・タワーは、この駅のちょうど正面に立っている。駅の入口からシティー・タワーの下までは、手入れの行き届いた芝生が広がる大きな公園になっていた。週末になると、カエレンはナリアとともに度々この公園を訪れ、元気に走り回るバルシュの姿を眺めるのだった。
噴水近くのベンチに腰かけ、カエレンが空を見上げると、ドローンが数機、善なる瞳を光らせていた。この公園の緑あふれる景色を収めた、カエレンの当時の写真のどの一枚にも、ドローンの姿は写っていない。今では、空を飛ぶのは、蝶や鳥たちだけではなくなっていた。
昼休みも終わり、皆それぞれの居場所に戻ったのか、人影はそう多くなかった。カエレンが、音を立てて噴き出す水の飛沫をぼんやりと見つめていると、背後から見知らぬ男が声をかけてきた。
「こんにちは」
カエレンが振り返ると、30代半ばくらいだろうか、長い髪を後ろで束ねた長身の男が立っていた。手には大きなボストンバッグを持っている。
「こんにちは」
カエレンがそう応じると、首に巻いたマフラーに顔を埋めるようにして、カエレンの座るベンチの前へと歩み寄った。
「お隣、失礼してもいいですか?」
遠慮のない申し出にカエレンは少し驚いたが、断る理由も特段見当たらず、腰を少し横にずらして男のためにスペースをつくった。
「ありがとうございます」
男はポケットからモバイルを取り出し、持っていた鞄をカエレンとの間に置いて、ゆっくりと腰を下ろした。
「今、どれくらいRIXあります?」
顔を近づけ、囁くように男が問いかけた。
「はい?」
意味不明な男の質問に、カエレンは少し体を離して男の顔を見つめた。
「お好きなだけ、RIXを現金で買いますよ?」
カエレンは、この男がカラル屋なのだと気がついた。
徳性循環資産と位置づけられているRef Index Exchange、通称RIXは、オルディア共和国政府によって発行される公式の仮想通貨である。”205✕520”以降、価値が暴落したとは言え、法定通貨のカラル同様、通貨としての機能を果たすものである。飲料水から時には土地の売買まで、多くの取り引きに使用することができる。そのため、倫理資産管理局が所管の循環資産管理法典という厳格な法律が存在し、免許を持たない個人、または法人によるRIXの現金化は、明確に違法と定められていた。つまりこの男は、その法律に抵触する闇の交換業者なのである。
カラル屋は、主に辺境地域に出没していた。特に、カラルが飛び交う富の街カルミスタンでは、RIXの増減は人々にとってさほど重要なことではない。そんなカルミスタンにも”205✕520”の余波が広がっていることに、カエレンは微かな驚きを覚えた。
「いえ、必要ありません」
カエレンはきっぱりとした口調で、そう男に伝えた。
「そんなこと言わずに。今日はこれだけ用意してるんですから」
男は食い下がるようにそう言うと、二人の間に置かれていたボストンバッグのジッパーを開いた。僅かな隙間から見えたのは、数え切れないほどのカラル紙幣だった。男はすぐに鞄を閉じ、微笑を浮かべてこう言った。
「まあ、この辺りうろうろしてるんで、気が変わったら声かけてください。VIRDOMアドレス教えるんで」
男は立ち上がり辺りを見渡すと、別のベンチに向かって歩いていった。
カエレンの心に、言い様のない虚無感が立ち込めてきた。徳とは人を善へと導くものであるはずである。しかし今、徳が数字という形を得たことで、人を悪の道へと引き込む原因にさえなってしまっている。
豊かさとは一体何なんだろうか。
徳力なのか財力なのか。
はたまた、人智を超えた別の何かなのか。
カエレンには分からなかった。思い返せば、サリームもエルタンも豊かな生活は送っていなかった。そんな境遇が、彼らが犯行に至った要因の一端であることも、紛れもない事実だった。カエレンは、かじかむ右手でモバイルを取り出し、理由もなくRefrayにログインした。表示されたレフ・スコアは、心電図のように小さく波打っていた。