第3話 DAY THREE / 一度きり
降り続いていた雨は、夜の間に雪へと変わっていた。舞い落ちた雪は、空へと戻ることを許されず、静かに輪郭を溶かしてしまうだけだった。
カエレンは、フロントの脇に設けられた朝食スペースに入ると、いくつか用意されていた四人がけのテーブルの一つに、腰を下ろした。壁一面の窓の下には、複数のラジエーターが所狭しと並んでいる。それでも、床を這うように流れる冷気は、ためらうことなく部屋中に広がっていた。朝食をとるには少し遅い時間だったこともあり、カエレン以外の宿泊客は三人の男性だけだった。皆一様に、もくもくとフォークを口に運んでいた。
エプロンをつけた配膳スタッフが、一枚のプレートを大事そうに両手で持ちながら、カエレンの元へと近づいてきた。おそらくカエレンと同じくらいの年齢だろうが、首から下げた老眼鏡が、彼の見た目に実年齢以上の印象を与えていた。抱えていたプレートをそっとカエレンの前に置くと、男性スタッフは
「お飲み物はあちらにご用意しておりますので、ご自由にお取りください」
と言って、中央にあるドリンクビュッフェを、手のひらで指し示した。そして最後に
「それでは、ごゆっくり」
と、深々とお辞儀をしながら言い残して、カエレンのテーブルから離れていった。
プレートには、こんがりと焦げ目のついたトーストが二切れと、今にも脂が飛び出してきそうなソーセージが二本。その横には、スクランブルエッグを上にのせたベーコンが四枚に、ベイクドビーンズが添えられていた。
カエレンは食事を始める前に、右手の親指と人差し指で、閉じた瞼を上から強く揉み込んだ。昨日の疲労が、瞳の奥にこびりついていた。二本の指で円を描くように圧力をかけると、重い鈍痛がこめかみまで届く。カエレンはテーブルに肘をつき、さらに力をこめて両目を圧迫した。痛みに疼く筋肉が刺激され、目の周りの不快な緊張が少しだけ緩んでいくのが分かった。カエレンは少しずつ瞼を開き、フォークでスクランブルエッグを掬った。
朝食を食べ終え支度を済ませると、カエレンは昨日と同じ、地方法務管区裁判所の別棟に向かった。微かに雪の積もる石畳の地面に、ブーツの底模様がくっきりと刻まれていく。この時間になると、登庁する職員の姿はもう見られない。かき消されることなく残る足跡が、カエレンのこれまでの人生の記録のように見えた。
3日目のカエレンの目的は、灰化の儀事件の上告審記録の閲覧だった。カエレンが判事団の末席を務めた、ヴァルディーン州、当時の第2管区地方法務管区裁判所における結審の数日後、判決内容を不服として、エルタンの弁護人が上告手続きをとった。これにより灰化の儀事件に関する法的判断は、この国の最上級裁判所である、中央大法廷に委ねられることになった。
各州の地方法務管区裁判所には、中央大法廷の裁判記録を保管する、中央司法文書保管局の出張所が併設されている。ヴァルディーン州における出張所も、昨日カエレンが訪れた裁判所別棟の地下フロアに入っていた。
すでに、開庁から1時間ほど経っていたが、やはり来庁者の姿は誰一人見当たらなかった。一階窓口には昨日と同じ職員が立っていた。男は不思議そうな表情で、正面入口を抜けるカエレンを見つめている。カエレンは表情を変えず、少しだけ会釈をしてエレベーターに乗り込んだ。
地下一階フロアで扉が開くと、フロア全体に重く淀んだ湿気が隙間なく広がっていた。それは、最先端技術を凝縮した未来的装置が立ち並ぶ室内の景色と、相容れない空気の停滞だった。
カエレンが受付窓口に目をやると、一階の職員とよく似た風貌の男が、何やら忙しそうに右へ左へと体を動かしていた。そして、近づいてくるカエレンの姿が視界に入ると、男は
「おはようございます」
と、含みのない笑顔で声をかけてきた。カエレンも微笑みながら足を進め、男の前で
「おはようございます」
と言いながら、お辞儀をして男の挨拶に応えた。
「すいません。中央大法廷の過去の裁判記録を再生閲覧したいのですが」
と、カエレンは自身の来庁理由を男に伝えた。
「失礼ですが、認証法務者の方ですか?」
職員の男は笑顔を崩すことなく、カエレンに尋ねた。
中央大法廷の裁判記録の閲覧は、J-CODEに登録された認証法務者にのみ許されている。被告人エルタンの上告審も例外ではなく、公判資料は厳重な制限下で保管されていた。その理由は、中央大法廷で行われる全ての審理が、ホログラフィックカメラによって立体記録されているためである。閲覧希望者は、このカメラが捉えたその場の温度や振動にいたるまで、空間のあらゆる要素を3Dホログラムとして、体験的に再現閲覧することができた。
勿論、下級審と同様に、中央大法廷の公判にも一般傍聴席が設けられている。司法制度の頂点に位置するこの法廷も、そういった意味では一定の公開性を備えていると言える。しかし、ホログラフィックカメラによって収録された立体記録は、現実との境界を曖昧にするほどの臨場感を備えていて、しかも何万回と再生可能な性質を持つ。そのため、法廷という空間に対する耐性のない一般閲覧者にとっては、心理的な負荷や錯覚を引き起こす恐れがあると考えられていた。よって、最終審である中央大法廷の裁判記録は、認証法務者だけに公開されていた。
「はい。過去に法務官を務めておりました」
カエレンはそう答え、さらに昨日と同様、自らの名前とJ-CODEの登録番号を男に告げた。
「ああ、ヴォルダスさんでしたか!覚えております。こちらにお勤めされたのは、5年ほどでしたよね」
「これは大変失礼いたしました。なにせ20年も昔のことですので。私の記憶力も錆びついてきていますね。どちらでお会いしましたでしょうか?」
「いえいえ、私が一方的に存じ上げていただけですよ。将来を嘱望される若手判事の筆頭として、輝かしい姿を時折拝見しておりました」
過去を懐かしむ、心地良い会話が続いた。
「当時からこちらでお勤めでしたか?」
カエレンがそう尋ねると
「いえいえ、当時私も判事でした。ヴォルダスさんのような、出世街道にはのっておりませんでしたけどね」
男は、少しはにかんだ表情でそう答えた。
「私は、どうも人を裁くということが性に合わなかったみたいで。早々に退官して、それ以来、ここで他人の下した判決を、ただ整理するだけの人生になりました」
彼は自身が選んだ選択に、後悔していないようだった。法に携わる者にも、それぞれ色んな道がある。人を断ずることだけが、秩序を維持する行為ではない。男の晴れ晴れとした笑顔が、その事実を証明していた。
「どの裁判をご希望ですか?」
男は与えられた職務に戻った。
「灰化の儀裁判の上告審です」
カエレンがそう答えると、男の顔に陰鬱の色が微かに滲んだ。
「あの裁判ですか⋯」
口ぶりも僅かにトーンを落とし、キーボードを叩く彼の指先は、呪いをかけられたように重くなった。目の前のモニターを慎重に確認しながら、誰に語るでもなく、独り言のように男は言葉を連ねた。
「とても悲惨な事件でした⋯あの事件だけではありません。それぞれの判決が、大なり小なり誰かの人生を狂わせたはずです。それなのに、私はこうして指先一つでそれらをスクロールしている。お気楽なものですね。他人の生涯を、上へ下へと物凄いスピードで眺めているのですから」
男の表現は、判決というものをただ一つの点として捉えるのではなく、その空間に関与した全ての人間の人生が、点の前後に線となって伸びていることを、驚くほど的確に言い表していた。
「それだけが、唯一の罰かも知れません。人の心と向き合うことから逃げた、私への罰」
男は最後にそう付け加えて、カエレンに名刺サイズのアクリルカードを差し出した。カエレンはかけるべき言葉が見当たらず、カードを黙って受け取ることしかできなかった。そんなカエレンの様子に気がついたのか、男はさっきまでの溌剌とした口調に戻り、カエレンが手に持つカードの説明を始めた。
「このカードにご要望の裁判、2030-刑-11423号の上告審記録が収められています。右手奥に、半球体のブースが並んでいるのが見えますか?あれが再構記録閲覧室です。一列目の最後の5番にお入りください。中に入ると、天頂部の装置からカードリーダーが下りてきていますので、そこにこちらのカードをはめ込んでください。自動的にホログラム再生が始まります。分からないことがございましたら、備えつけられているタッチパネルでお尋ねください」
アクリルカードの右上にも、5という数字が半透明の赤い色で記されていた。
「ご親切に、ありがとうございます」
カエレンは肩にかけていた鞄のストラップの位置を直し、丁寧にお辞儀をして謝意を伝えた。
男の前を離れ、カエレンは再構記録閲覧室のスペースの前まで進んでいった。二つの列をなして並ぶ10個の半球体は、まるで薄い灰色のキャンピングテントのようで、中の様子は窺えない造りになっていた。
この設備が登場したのは、カエレンが司法修習生の頃だった。ありとあらゆる公文書がアーカイブ化され、司法行政においてもデジタル化が叫ばれていた。そんな中で、当時の最新技術であったホログラフィックカメラによる立体記録が、まずは中央大法廷の裁判から、試験的に開始されたのだった。しかし結果的に、このシステムが下級裁判所にまで導入されることはなかった。
司法試験に合格したカエレンは、法務官としての研修を受けていた際、一度だけこのブースに触れたことがあった。けれども、それは使用方法の説明に重点が置かれたものであったため、カエレンが実際の法廷の様子を再現閲覧するのは、今日が初めてだった。
カエレンは5番ブースの扉に手をかけた。軽々と開いた先は、透過パネルでできた半球状の空間だった。比較的狭い空間ではあったが、外の景色が透けていることで、特に圧迫感を感じることはない。カエレンは中央の椅子に座り、天井から伸びていたホログラフィック粒子投射装置のアームにカードを置いた。すると、二本のアームは格納されながらすぐに上昇を始め、装置本体の底にアクリルカードを閉じ込めた。
突然カエレンの視界は、漆黒とも呼べる闇へと変わった。しかし、それは一瞬のことで、アクリルカードから強い光が放たれると、カエレンはすでに中央大法廷の傍聴席に座っていた。5人の判事をはじめ、検務官や弁護人など、すべての関係者がすでに出廷している。判事席の前に設けられた被告人席には、エルタン・トゥラルの姿があった。
あまりに鮮明な景色に、カエレンは思わず息を飲んだ。現実と見紛うほどの立体感と、法廷の張りつめた空気が全身に伝わり、カエレンは慌てて辺りを見渡した。傍聴席に座っているのは、カエレン一人だった。これから始まる審理の行方を、ただ一人で受け止めなければならないと、荘厳な空間がカエレンに迫っているようだった。検務官が資料をめくる音や、弁護人の足が床を小刻みに擦る微かな音だけが、法廷内に響いていた。
「ただいまより、2030-刑-11423号事件、被告人エルタン・トゥラルの上告審を開始する」
判事長が低い声で開廷を告げた。そして
「被告人、検務官、弁護人。三名全ての出廷を確認したので、これより審理を始める」
と判事長が発言を続けると、エルタンの顔が少し強ばった。それは、カエレンが判事を務めた下級審では見られなかった表情だった。
「それではまず、弁護人は上告理由を簡潔に述べてください」
そう促され、弁護人は弁論台の前に立つと、急ぐように一礼をして話し始めた。
「弁護側は、原審の法律の解釈と適用に、重大な誤りがあると考えております。被告人は教義に基づき、父親に対して敬意と奉仕をもって行為に及んだのであり、その行為は背信や害意に基づくものではありません。さらに付言すれば、原審は終末措置特別法典の解釈を十分に考慮しておらず、この特別法典に基づく、安楽死的要件の存在を無視して、判断がなされております」
弁護人は、新たな法律を持ち出し、自らの主張に理論武装を試みていた。弁護人の言葉を受けて、判事長は検務官に視線を移した。
「検務官、意見を述べてください」
検務官の反論はとても簡潔なものだった。
「検務官側は、原審の判決に誤りはないと考えます。被告人の行為は安楽死や終末措置の要件を欠き、刑法典第78条が適用され、有罪であることは明白だと考えます」
中央大法廷では、被告人に発言の機会はない。あくまで検務官と弁護人が、各々の法律の解釈の違いを戦わせるだけである。エルタンの緊張は徐々に顔全体に広がり、彼の体は悶えるように震え始めていた。それでも、そんなエルタンの様子を無視するかのように、審理は粛々と進められていく。
「それでは、これから判事による評議に入る。被告人、検務官、弁護人の三名は各自の席で待機するように」
判事長の言葉を合図に、5人の判事が奥の扉から姿を消した。気がつくと、エルタンは顔を伏せ、震えながら被告人席に座っていた。検務官の言葉は勿論、エルタンの立場を擁護するための弁護人の言葉さえも、父を殺害するという行為が持っていたはずの熱を、すっかり削ぎ落としていた。被告人エルタン以外の全ての人が、法という氷をそれぞれの視座から見つめ、その結晶の構造をただ表現しているに過ぎなかった。
エルタンの思いは、どこに行ってしまったのだろうか。
それが善であろうが悪であろうが、エルタンの下した決断の裏には、父親に対する敬意と、それに比例する形で生まれた失望、抗いきれない悲しみや、教義を全うしようとする信念が、入り乱れるように存在したはずである。それなのに、この場所は、そのうねりに光を当てようとしない。これが、自らの信じてきた正義なのかと、カエレンの瞳は涙で溢れた。エルタンのすすり泣く声に、カエレンの涙腺は同調した。エルタンの涙は、悔しさの涙なんだ。カエレンは、はっきりとそれが分かった。
しばらくして、判事たちが法廷に戻ってきた。全員が席につくと、判事長がゆっくりと話し始めた。
「それでは、評議の結果を伝える」
エルタンが顔を上げた。この空間から解放される安堵が、顔全体に広がっていた。
「主文。被告人エルタン・トゥラルの上告を棄却し、原判決を維持する。これにより、本件は確定する。以上をもって、本裁判を終了する」
エルタンの体は、もう震えてはいなかった。係員に連れられて、エルタンが法廷を後にする。全ての光が消え、辺り一面が元の暗闇に戻っても、その後ろ姿だけは残像となってカエレンの視界にこびりついたままだった。