第2話 DAY TWO / 探しもの
カルミスタンの雨は、しとしとという表現が最も適切である。比較的大きな雨粒ではあるが、それが豪雨になることは決してない。昨日の空模様は、今朝になっても表情を変えていなかった。
午前8時。セットしていたアラームに起こされ、カエレンは目を開けた。一度大きく伸びをして、バイオスウェット地のベッドウェアを脱ぐ。そして薄っぺらいタオルを手に取り、小さなバスルームへと入った。カエレンは、いつもと変わらぬ少し熱めのシャワーを首の後ろにあてながら、両手で左右のこめかみを揉みほぐした。そうすると、少しずつ視界の色彩が明瞭度を増し、全ての物体の輪郭がはっきりとした線になる。ニュートラルだった意識のギアが、クラッチアップしていくのが分かった。洗面台に置いておいたタオルを使い、体の水 分をくまなく取り去ると、カエレンは自身の顔を鏡に映した。
僅かに伸びた髭に、丁寧に剃刀をあてる。この街で暮らした20年前と比べると、目尻の皺は深くなり、頬の染みも目立つようになっていた。剃り落とす髭にも白い物が目立つ。残ったシェービングオイルを先ほどのタオルで拭って、カエレンは湯気で曇ったガラス戸を開けた。
長袖のポロシャツと、着古したジーンズに着替え、キャリーバッグから取り出した鞄にタブレットを収めると、椅子にかけていたいつものダウンコートに腕を通して、カエレンは部屋を後にした。フロントで傘を借り、カエレンがホテルを出ていこうとすると
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
とスタッフの男が声をかけた。カエレンは踏み出そうとしていた足を止め、微笑みながら軽く会釈をした。
午前9時の開庁を目前に、多くの人が先を急いでいた。カエレンは当時の自分の面影を重ね合わせるように、途切れることのない人波を眺めた。そして傘を開き、カエレンはその群れの一部となった。
5分ほど歩くと、ヴァルディーン州地方法務管区裁判所が見えてきた。それは連邦時代から使われている、レンガ造りの古い建物で、外観に漂う経年が法の番人としての風格を表していた。カエレンの目指すヴァルディーン州地方法務管区公文書課は、その建物の別棟として、敷地内の脇の方にひっそりと建っていた。
開庁までまだ15分ほどあった。カエレンは三段ある階段をのぼり、屋根のある正面入口の扉の前に立って、裁判所の本棟をもう一度見上げた。数えきれないほどの人々が、この建物の下す判断によって、その行為の是非を問われてきた。法廷という場所は、誰かの人生を左右することを許された、唯一の空間である。それゆえ、番人の言葉に迷いがあっては決してならない。乱れることなく積み上げられたレンガが、その正当性を振りかざすように、揺るぎない壁となって立ちはだかっていた。
9時を知らせるチャイムと同時に、重厚な扉が観音開きに動いた。来庁者はカエレン一人だった。窓口の前へと進み、カエレンは男性職員に声をかけた。
「すいません。過去の裁判記録を拝見したいのですが」
職員はフレームのない眼鏡を指で少し上げ、カエレンを一瞥して答えた。
「閲覧規則に関してはご存知ですか?」
「はい。以前こちらの裁判所で法務官を務めていましたので、承知しています。J-CODEにも登録がありますのでお伝えしますね」
サリームとの面会のために何度も照会されていたので、カエレンは今ではすっかり自身の番号を暗記していた。名前を名乗り、10桁の数字を言い添えると
「いつの裁判の記録でしょうか?」
男はカエレンが伝えた登録番号をキーボードで打ち込みながら、顔を上げることなくそう尋ねた。
「ちょうど20年前です。被告人の名前はエルタン・トゥラル。殺人罪を問う裁判です」
カエレン自身も、その男の名前を声に出すのは20年ぶりだった。
「ああ、あの事件ですね。ちょっとお待ち下さい」
職員の男は、裁判ではなく事件という言葉を使った。それだけ灰化の儀という慣習は、当時の法曹界を揺るがせたのかも知れない。
「20年だと、まだ紙記録でも残っているかも知れませんねえ。どうされます?タブレットでも書面でも閲覧できると思いますが」
男は目線だけを上げて、カエレンに尋ねた。書かれている内容に違いはない。だが、濃淡のない光の文字では、手触りのある過去には届かない気がした。そして、それはカエレンの心の渇望を満たすものではないはずだった。
「是非、紙記録を拝見させてください」
カエレンがそう返答すると、男は物珍しそうな目線でカエレンを見つめてきた。
「それなりの量になりますよ?」
カエレンの申し出が煩わしく思われたのか、男は確認するように、カエレンに再度尋ねた。
「はい、構いません。宜しくお願いします」
カエレンの変わらぬ要望に、男は諦めたように頷き、番号の書かれた小さなプレートをカエレンに手渡した。
「それでは、三階までお上がりください。フロアの真ん中辺りにその番号の席がありますので、そちらに座ってお待ち下さい」
「ありがとうございます」
少しだけ頭を下げ、カエレンはその場を後にした。
エレベーターに乗り、三階フロアで降りると、見渡すかぎり整然と並べられた机の列が広がっていた。どれも独立して配置され、コの字のパーテーションに囲まれている。勿論、訪問者の姿はカエレン以外見当たらなかった。若い記録司書の男が、たくさんの書物を積んだワゴンを、重そうに押していた。四つの車輪が柔らかなタイルカーペットが敷かれた床を、かすれるような音を立てて転がっていた。カエレンは、升目のように並んだ閲覧席のあいだを、縫うように歩いた。すると、部屋の中心からやや窓際の位置に、案内された数字の机があった。なぜ部屋の中央に近い席を割り当てられたのか。おそらく特別な理由はないのだろうが、カエレンはなぜだかわずかに気になった。
しばらくすると、さっきの若い記録司書が、ワゴンを押してカエレンの席に近づいてきた。運ばれてきたのは、表と裏を厚紙できつく綴じてある四つの冊子だった。そのうちの三冊は厚さ3㎝ほどで、残りの一冊はその半分ほどの大きさだった。
「奥のデスクにおりますので、終わられたら私に声をかけてください」
男はそう言うと、紙記録を重ねてカエレンの前に置き、何もなかったかのようにワゴンを押して、その場から立ち去っていった。青年の所作があまりにも事務的だったことで、追い求めてきた過去が目の前にあるにも関わらず、カエレンはまるで現実に取り残されているような感覚に陥った。
心の居場所が定まらないまま、カエレンは一番上の冊子に手を伸ばした。表紙には、
裁判記録 第1冊
事件番号:2030-刑-11423
罪名:刑法典第78条 殺人罪
被告人:エルタン・トゥラル
記録範囲:第1回〜第2回公判
所管:ヴァルディーン州地方法務管区公文書課
と記載されていた。所管先であるこの建物の名前だけが、貼られたシールの上に書かれていて、インクのかすれが他の文字よりも少なかった。
ふわふわと落ち着かない感覚の中、ページをめくろうと、カエレンの指先が表紙の厚みを認識した瞬間、まるで大きな石が谷底へと滑落するように、カエレンの心は闇の中へと真っ逆さまに落ちていった。乾きとざらつきを帯びた厚紙が、20年前へと引きずり込もうとしている。それはかたく閉ざされた禁断の箱に思えた。カエレンの指は止まったままだった。ひとたびこの表紙をめくると、心も体も全て20年前に閉じ込められるような気がした。
それでも、光を失ったカエレンの心が折れてしまうことはなかった。むしろ、目をこらし手探りであったとしても、暗闇の中で箱の中身を確認してこそ、今までとは違う新たな光明が差し込むはずである。
カエレンはじわりと指先に力を込めた。1ページ目の目録に目を通すと、カエレンはもう恐くはなかった。ありとあらゆる神経を没頭させて、実際に声に出しながら一文一文読みほぐしていった。
記録によると、第1回公判において、被告人であるエルタンは起訴内容への認否を問われ、明確にその事実を認めていた。ただその後、犯行理由についての供述を求められると、エルタンはこう述べていた。
「これは、われわれの教義に基づく儀式です。それを拒む父へ、私は神から与えられた義務を果たしたにすぎません。それは、敬意であり、純化であり、背信ではありません」
カエレンはこの瞬間をはっきりと覚えていた。澄みきった瞳で判事長を見つめる彼には、迷いや戸惑いの影は一切なく、エルタンはただ適度な脱力の中で、凛として立っていた。当時のカエレンには、そんなエルタンの姿が少し不気味に思えた。教義の神秘性に酔いしれ、分別を失った狂人の気配を漂わせているように、カエレンは感じていた。そんな過去の心境すら、手に取るように思い出される。
第2回公判では、捜査にあたった巡査官や近隣住民が証人として出廷していた。被害者である父親が、いわゆる灰化の儀を拒んでいた事実を立証するために、検務官が彼らに対して執拗に尋問を行っていた。一方で、それらの証言に対して、弁護人の異議申し立てはほぼなされていなかった。
カエレンは一冊目の紙記録を閉じると、両手を左右のこめかみに押しつけた。読み終えた冊子を脇に置き、二冊目の記録を静かに開いた。目録によると、そこには第3回、第4回公判の記録が収められていた。この事件の全ての発端とも言える、ミザル教ハティブ=ナウル教義派の統主ハサン・トゥラディン氏が両公判に出廷し、弁護人からの尋問と検務官による反対尋問に対して証言をしている。この辺りから、法廷の混乱がエスカレートしていったことをカエレンも覚えていた。それまで以上に多くの信者たちが傍聴席を埋め、判事長や検務官の発言に対して野次が飛ぶようになった。それによって、審理が円滑に進まなくなり始めたのだった。
理路整然と、いかなる予断を挟むことのない検務官の法解釈は、信者たちの罵詈雑言にかき消されていた。一方で、自らも同じ宗派に属する弁護人の発言に対して、無言という賛同と時折起こる拍手によって、彼らの主張は実行された。この時の弁護人の主張は、こう記録されていた。
「被告人は確かに父親を殺害しました。弁護人も被告人と同じく、この事実に関しては争いません。ですが、彼の行為は灰化という神の徴を受けた父親の肉体を、信仰の掟に従い送り出したものであります。私たちが尊ぶ法は、その務めすらも罰するのでしょうか? 被告人の心にあったのは、殺意ではなく敬意です。殺意がない以上、あくまで弁護人といたしましては、被告人の無罪を主張いたします」
信者たちの歓喜によって、法廷が揺れたことをカエレンは記憶していた。そしてこの支離滅裂な論理を、弁護人は最後まで翻すことはなかった。
三冊目には、カエレンがここまで追い求めてきた、エルタン本人による最終陳述が残っていた。それが、カエレンの聞いたエルタンの最後の肉声だった。
「父を殺したのは事実です。ですが、それは私たちの信じる教義に従った結果であり、私の手は父を傷つけるためではなく、救うために動いたのです。恐れも迷いもありませんでした。私にとってそれは、祈りであり、敬意であり、最後の奉仕でした。どう裁かれようと悔いはありません」
エルタンは判事一人一人を見つめながら、落ち着いた口調でこう述べた。その目線がカエレンに向けられた時、心の隙間を見透かされたような気がして、カエレンは自身の動揺を必死に隠した覚えがある。祈りであり、敬意であり、最後の奉仕という表現は、法という鎧に守られているだけのカエレンの正義と、その真贋を問うような響きを持っていた。
三冊目の紙記録を読み終わると、カエレンは大きく息を吐いた。窓の外を見ると、夕暮れの中で分厚い雲だけが取り残されていた。雨はまだ静かに降り続いている。
裁判記録の内容は、カエレンが記憶していたことと、大きく違ってはいなかった。それでも、背負っていた荷物の中身を全て取り出し、一つ一つもう一度確かめられたことで、やっと過去の自分と対峙できるような気がしていた。
閉庁時間まで、あと30分をきっていた。唯一の閲覧者であるカエレンを、デスクに座る青年が視界の端で確認している。
カエレンは、残された比較的薄い冊子に手を伸ばした。表紙には附属記録と書かれていて、ページを開いていくと、事件発生時の証拠写真や、ハティブ=ナウル教義派が重要視する教典の抜粋文など、裁判に関連する様々な資料が綺麗に整理されて収められていた。
目を通していくと、冊子の中盤にハティブ=ナウル教義派の人々が集まる礼拝所の名前と、その住所が記載されていた。街の地図をまだおぼろげながら覚えていたカエレンは、その場所がどの辺りか、大体の見当がついた。
掬いきれなかった思いが、もしかしたらここにもあるかも知れない。
礼拝所の名前を脳裏に焼き付けて、カエレンは最後の冊子を脇に置いた三冊の上に重ねた。