第1話 DAY ONE / 隔たり
カエレンはSEYO Q2eに揺られながら、バシュカール・ターミナル駅へと向かっていた。隣ではナリアがぎこちない手つきでハンドルを握っている。
「私もたまには運転しないと」
YARAの自動運転に任せようというカエレンの提案を退け、ナリアは意気揚々と運転席に乗り込んだのだった。道中何度かアクセルとブレーキを踏み間違え、YARAに厳しく注意されていた。その度に彼女は一瞬目を丸くして驚くのだが、YARAの心配などどこ吹く風と、すぐさま前傾姿勢で進行方向を睨んでいた。
バシュカール・ターミナル駅は、シャフル・アルク州における重要な拠点駅である。オルディナ全土を網の目状に繋ぐ中央連絡幹線は、各州都のターミナル駅を基点としていて、この国の人々にとっては、空の旅と並ぶ重要な長距離移動インフラである。玄関口とも言えるこのハブステーションの構内は、それぞれの旅路の始まりと終わりが交錯するように、多くの家族連れで埋め尽くされていた。
カルミスタンへの7日間の旅である。過去の街へ赴き、灰化の儀事件ともう一度向き合うことがその目的だった。
「それじゃ、気をつけていってらっしゃい。あ、それとお弁当は早めに召し上がってね」
ナリアはカエレンを改札口まで見送り、微笑みながらそう声をかけた。
「ありがとう。いつも、すまないね」
カエレンは短く返事をし、何気なくナリアの肩を抱きしめた。
「どうしたんですか、珍しい」
カエレンの耳元で、ナリアはくすっと笑った。少女のようにおどける様子は、こぼれる嬉しさをうまく隠しきれていなかった。ナリアから体を離すと、カエレンも小さく笑った。
「何かあれば、すぐ電話するように」
カエレンはそう言い残して、取り出したモバイルを改札ゲートにかざした。なかなか立ち去ろうとしないナリアに、カエレンは歩きながら何度も振り返って、大きく手を振った。その姿は徐々に人混みの中に埋もれていき、小さくなって見えなくなった。
プラットフォームには、幹線列車が規則正しく整列していた。急いで駆け込む中年男性や、大きな荷物を下ろしている老夫婦など、人々の様子は様々だった。カエレンはモバイルに表示されたチケットと、構内に掲げられた発着案内板を見比べ、自身の列車が待つ3番線へと向かった。
そこには、ヴァスティア161号がすでに待ち構えていた。まるで自らの美しさを誇示するかのように、その滑らかな曲線を陽光に輝かせている。ヴァスティアは中央連絡幹線の中でも最速の幹線列車であり、最高時速240km/hでオルディナ各州の州都を結ぶ。ここから目的地であるヴァルディーン州カルミスタン・ターミナル駅まで、およそ4時間半の旅であった。
小さなキャリーバッグを転がし、座席番号を確認しながら、カエレンは自らの席についた。八割ほどの座席が埋まっており、乗客のほとんどが男性だった。モバイルやタブレットなど、それぞれの端末の画面に没頭しながら、皆難しい表情を浮かべていた。
ほどなくして、発車を知らせるアナウンスが流れ、ヴァスティアは低く柔らかな駆動音を立てながら動き出した。みるみる加速度を上げ、弾丸のように風をきる。ほんの数分の走行で市街地を抜けると、車窓の奥にトゥルマ湖の青い湖面がぼんやりと見えてきた。カエレンのいつもの日常が、今は遠くの営みのように感じられた。
日曜日の今日は、小学校にとっても貴重な休息の時間である。けれども、もしかすると、7日間の校長の不在を埋め合わせるように、タミールは今日も一人事務室で机に向かっているのかも知れない。この旅は、あくまでカエレン自身の私情に過ぎない。それでも、タミールはカエレンの休暇を快く承諾した。几帳面で心配性の彼だったが、一度決断すると梃子でも動かない。そんなタミールの仕事ぶりが、カエレンには心強かった。
カエレンは、座席の前に取り付けられた机を開き、ナリアから持たされたポータパックをその上に置いた。包んでいたオルディン布を解き蓋を開けると、カエレンの好物であるメルカベリージャムをふんだんに使ったサンドイッチが詰まっていた。
「あら、美味しそうね」
それを見た隣の老婦人が話しかけてきた。
「私の大好物なんです。妻が作ったものですが、お一つどうですか?」
カエレンは少し照れくさい心持ちで、ポータパックを差し出した。
「それでは、お言葉に甘えて」
婦人はそう答えて、皺めいた右手を伸ばし、サンドイッチを一切れ取り上げた。小さな口でその角を頬張ると、彼女はにっこりと笑った。
「お味は見た目以上ですね。とても美味しいわ」
「妻は料理が得意なんです。あ、ちょっと自慢めいて聞こえますかね」
カエレンは頭を掻き、はにかみながらそう答えた。
「それはそれは。今度は、お味以上にご馳走さまだこと」
婦人は上品な笑い声をあげて、そっと口元に手をそえた。カエレンも同じように声を出して笑った。
「ご家族と離れて、お仕事にお戻りですか?」
婦人はサンドイッチを少しずつ口に運びながら、会話を続けた。カエレンもサンドイッチを一切れ手に取り、メルカベリーの甘味が口いっぱいに広がるのを感じながら、ゆっくりと答えた。
「いえ、そういう訳ではないんです」
婦人は、カエレンを他の乗客と同じく、カルミスタンで単身赴任をしているビジネスマンだと勘違いしたようだった。週末の僅かな時間を家族とともに過ごし、再び富の戦場へと戻る男たちには、この時間帯の列車が都合が良いのだろう。心なしか、彼らの顔には物悲しい影が差しているように見えた。
「昔、カルミスタンに住んでいたことがありまして。久しぶりに当時の思い出をたどってみたくなったんです」
「あら、そうでしたか。詮索するように聞いてしまって、ごめんなさいね」
婦人の口ぶりは終始気品をまとい、とても落ち着いたものだった。
「私の息子も、カルミスタンで不動産業を営んでいましてね。それが”205×520”があったでしょう。私はよく分からないんですが、カラルの値段がどうだとか、銀行からの借入金がどうだとか、会社が立ち行かなくなってしまったみたいで。ついに彼も体を壊して入院してしまったんです」
心配そうな眼差しで流れる車窓をぼんやりと眺めながら、彼女の事情をぽつぽつと話し始めた。
「まだ孫も小さいものですから、お嫁さん一人では、息子の世話から孫の面倒まで手いっぱいで。たまに私が、こうして手伝いに行くようにしているんです」
母は強しと言えども、彼女も彼女なりの不安を抱えて旅をしているのだろう。誰にでも見せられる訳ではないちょっとした弱気を、ただ隣り合っただけのカエレンに話すことで、安心したかったのかも知れない。
”205×520”は様々な形で、人々の生活の歯車を狂わせた。RIXの大暴落に反応して、ドル建て為替ではオルディナカラルが急騰。すると、今度は共和国政府への不信を抱いた外国人投資家がカラル売りに転じ、法定通貨は前代未聞の乱高下を記録した。国債の長期金利は上昇し、RIXステーク型融資を受けていた業者は追加保証金を求められた。婦人の息子もこの信用不信の渦に飲み込まれたのだろう。多くの経済学者やアナリストが日夜討論番組に出演し、独自の見解を展開していた。それでも、現時点でオルディナ共和国政府からは、緊急措置的対策は出ていない。政府の無策に批判の声は高まるばかりで、その中心地は経済の街であるカルミスタンだった。
「そうですか。それは心配ですね」
カエレンはどう返事をしていいか分からず、無難な言葉でその場を繕った。二人の会話がそれきりで立ち消えてしまったので、カエレンはしばらくの間目を閉じることにした。
微睡んだのは僅かな時間だと思ったが、目を覚ますとカルミスタンまで残り30分となっていた。隣の婦人も、静かに寝息を立てていた。流れる景色はすっかり大都会の喧噪に変わっていた。街から立ちこめる殺伐とした空気は、20年前と変わらないどころか、以前にも増して刺々しいことが、窓越しにも容易に感じられた。
到着を知らせるアナウンスとともに、老婦人も目を覚ましたようだった。
「それじゃ」
「さようなら。奥さまによろしく」
先に席を離れようとするカエレンに向かって、老婦人は小さく頭を下げて、そう挨拶をした。彼女は満面の笑みを浮かべていた。そこにはもう、息子のことを案じる母の眼差しは残っていなかった。
カルミスタン・ターミナル駅のプラットフォームに、ヴァスティア161号が静かにその車体を滑り込ませた。扉が開くと、この街特有の湿気がまとわりついてくる。懐かしい匂いだった。懐かしい人々、懐かしいビル群、懐かしい空の色だった。列車から流れ出た男たちは、まるで競うかのような足並みで改札口へと急いでいる。
この流れについていけるのだろうか。
先ほどの老婦人が少しだけ気にかかり、カエレンが歩きながら後ろを振り返ると、まるで濁流の中にできた窪みのように、小さな体が揺れていた。その足取りがゆっくりではあるが揺るぎないものだったことで、カエレンはそっと胸を撫で下ろし自らの歩みを速めた。
カエレンは、モバイルにチケットコードを表示させ、改札ゲートを抜けた。カルミスタンはいつも通りの雨だった。鉛色の厚い雲が空を覆い、細かい雨粒がぱらぱらと石畳の道路に落ちてきていた。この街の太陽は、週に一度顔を覗かせれば良い方だった。
正面口は全面ガラス張りで、その上を幾何学的な光の模様がめまぐるしく走っていた。まるで選ばれた者だけに開かれる都市の入口のように、旅人たちを煌びやかに迎え入れていた。カエレンはその正面口を出ると、雨避けのアーケードに沿って、地下鉄の駅への階段を下りていった。キャリーバッグのキャスターが、石畳を跳ねて乾いた音を立てる。地下鉄の改札口は、人々が縦横無尽に行き交う混雑の中にあり、ぬめるような空気の中でカエレンは無意識に息を浅くした。
カエレンは、カルミスタン・ターミナル駅からバルケル線に乗り、ティルマン駅を目指した。そこは州の官公庁が集まる地区で、かつてカエレンが法務官として過ごした場所でもあった。今回の旅の目的地である、ヴァルディーン州地方法務管区公文書課もそこにある。
暗闇の中をひた走る電車に揺られていると、当時の記憶が走馬灯のようによみがえってきた。その大半が、カエレンの裁きを受けた人々の顔だった。20年という年月が経った今でも、彼らの表情は色褪せることなく脳裏に浮かび上がる。隣の家に強盗に入り、隣人を刺殺した男。自らの子供を、虐待の末死に追いやった母親。酩酊状態で車を運転し、休日のマーケットで多くの人をひき殺した青年。全ての犯罪者の顔が、まるでアルバムのページをめくるように順々に現れては、言葉なき眼差しでこちらを見つめてきた。カエレンの意識は、あの男のページで止まった。大きく見開いた瞳孔がカエレンの心に迫ってくる。
お前の正義はどこにある。
もう逃げるわけにはいかない。
カエレンも男の瞳を見つめ返した。そして、その瞳に映る自らの姿を睨みつけた。
これから向き合うのはあの男ではない、自分自身なのだ。
そう言い聞かせると、男の角膜が白く光を放ち、まるでその中に吸い込まれるように視界が反転した。気がつくと、カエレンは再び地下鉄の揺れに身を預けていた。
電車がティルマン駅に到着した。階段をのぼり外に出ると、日曜日の今日はさすがに人気も少ない。カエレンは、駅からほど近いビジネスホテルに、部屋を予約していた。ホテルの裏には、20年前にはなかった高層ビルが建っていた。三日月状に曇った空を突き刺すような構造に、巻きつく形でエレベーターが設置されていた。
いまさら何を探しに来たんだ?
その歪な佇まいは、かつての住民であるカエレンを揶揄っているように見えた。
カエレンはチェックインを済ませ、部屋に入った。濡れたコートを椅子にかけ、キャリーバッグを机の下にしまった。旅の疲れがじわりと体全身に広がる。雨粒が滴る小さな窓からは、空の欠片はほとんど見えない。上へ上へとそびえたつビルたちは、”絶対”という頂への道を、我先にと競い合っているようにカエレンには見えた。先を行く者は、下に目をやり嘲笑う。後の行く者は、上を見上げて嫉妬する。それが、カエレンの知るカルミスタンという街だった。
行きつけだった店は今も残っているだろうか。
カエレンはベッドに横になり、ぼんやりと今日の夕食のことを考え始めた。