史的な夜話 其の十四
私:あのぉ。
友:はいはい。
私:来年の大河ドラマ、あれですって、豊臣兄弟や言うけど、知ってました?
友:申し訳ない。全く知らんやったよ。
私:そうなんや、残念や。
友:なんか有ったんかいな。
私:今から話聞いてな、予備知識でも得ようとか思ってんけど、あかんかったかぁ……
友:ほんまに申し訳ないな。
私:なんか、知ってる事って無い?
友:そうやなぁ、今、偶然にも桑田忠親さんの「太閤豊臣秀吉」と言う本を読み返しとってんけどな、その中で幾つか興味深いことがあるから、その点についてやったら、話せるよ。
私:ほな、一つ頼むよ。
友:豊臣秀吉の子供と言うたら、秀頼と鶴松が有名やけど、実はそれ以前に二人居ったって知っとった?
私:ぃゃ、全く知らんやったよ。
友:二人居った内の一人は天正四年十月十四日に亡くなって、名前は石松丸秀勝というところまではわかっとるんやな。
私:その本、随分と薄っぺらやな。
友:昭和六十一年発売の定価三百二十円やな。
私:三百二十円で文庫本が買えた時代があったんやなぁ。
友:この時代、うちらも生きとったやんか。
私:昭和って随分と遠いように思えるよ。
友:お互い、年をとりましたなぁ。
私:それで、その、石松丸とか言う人については、他に無いんですか?
友:桑田さんが言うにはこの石松丸秀勝は六歳か七歳ぐらいで亡くなったんやないか、そないな仮説を立ててはるんやな。残っている肖像画を見たら確かに六歳か七歳ぐらいに見えるんよね。でも、こないだWikipediaを読んどったら、幼児が亡くなっても、少し年上に描くとか、そういう風習があったから、本当に六歳、七歳で亡くなったのか、その点は疑問が残って居るみたい。
私:でも、その秀勝が居たことには間違いないんやな。
友:お墓もあるし、肖像画も残ってるし、戒名も本光院朝覚居士ってあるんやな。それでも秀吉の実子では無くて養子じゃ無いかって言う人も居るみたいやし、それでも個人的には石松丸秀勝は秀吉の実子やと、信じてるよ。
私:なんか、色々大変な話やな。
友:織田信長、徳川家康って子宝に恵まれたけど、秀吉って側室が十六人居たとか言うわりに、鶴松と秀頼だけやったし、淀殿がおらんかったら、子供が居ないまま世を去ってたやもしれへんよな。
私:秀頼ってほんまに秀吉の子やったんかいな。
友:それを言い出したら、きりも無いし、疑いだしたら何も話が進まんようなるよ。
私:ほな、今の話は聞かんかったことにして。
友:そないしとくよ。
私:さっき、二人居ったって言うとったやん。
友:もう一人、天正二年に娘が生まれたとか、そないな話が有るんよね。この娘に関しては名前とか、詳細が伝わってないねんけど、桑田さんの記述を読むと「天正九年の八月三日、弥陀三尊の懸仏一面を奉納している。これは、背面の銘によると、天正二年の甲戌の年に生まれた秀吉のむすめの息災延命を祈るために奉納したものであることがわかる」って書いてあるんやな。だから天正二年に生まれた娘が天正九年の八月までは元気やったんはわかるけど、その後の消息については記録が無いとか、そういう話なんやな。
私:石松丸にはお墓まで造って戒名もわかっとるのに、娘には冷たいんやな。
友:でもさ、天正二年っていう年がちょっと気になるんよ。
私:そうなん?
友:天正二年に豪姫が生まれとって、もしかすると情報が混乱してないか、そない思うんよ。
私:豪姫?
友:正確には前田利家と正室のまつさんの間に生まれた娘で、具体的にいつ、秀吉夫婦の養子になったのかはわからへんけど、推測としては石松丸が亡くなって寂しくなったから、養子として迎えたのか、もう少し後なのか、石松丸と豪姫を結ばせるつもりだったのか、全くわからへんけど、豪姫が天正二年に生まれて、天正九年頃には既に秀吉の養女になっとったんは間違いないんやな。
私:なんかまぎらわしいな。
友:まぁ、そない言わんと、話は続くで。
私:うん、覚悟して聞くで。
友:この豪姫は後に宇喜多秀家の嫁さんになるんやな。天正十年頃に結婚の約束をしたとか、その様にも伝わってるんやな。
私:そうなんや。
友:なんにしても、石松丸秀勝と天正二年に生まれたという娘に関しては、今後の研究が待たれる言うところやろうか。
私:これで話は終わりかいな。
友:ぃゃぃゃ、今、石松丸秀勝について語ったけど、続いて於次秀勝について語るで。
私:誰やねん。
友:織田信長の四男もしくは五男と言われとる子で、石松丸が亡くなった後、信長から養子として貰った子なんやな。
私:それって凄い事やんか。
友:そうなんよね。家臣に子供が居らんからって信長が自分の子を養子として出すって、多分、他には例が無いと思うんよ。信長から秀吉が優遇されてた証拠なんかな、そないに感じてまうよね。
私:でも、秀勝っていう名前が二人続くんやな。
友:秀吉が秀勝って言う名前を気に入っていた、もしくは石松丸秀勝が実子やったからこそ、その名前を引き継いでいきたいとか、そういう思いがあった、だからこそ石松丸は実子だよって言う人が多いんやな。
私:ほな、わしも石松丸は秀吉の実子やったて言う方に一票を投じよう。
友:悪いね。それと余談やけど、織田信長の次男の信雄は北畠家の養子になって、三男信孝は神戸家の養子になってるんやな。これは由緒はあるけど傾いとる名門を乗っ取るって言う信長の策略やから、純粋に家臣である秀吉に我が子を養子として送るのとはまた意味が異なってくるよ。
私:なんか、名門に我が子を養子として送り込むってどこかで聞いたような……
友:毛利元就なんかは同じ事をしとるよね。次男の元春を吉川家、三男の隆景を小早川家へ送って、領土やら家臣団を飲み込んでいってるよね。
私:皆、似たようなことするんやね。
友:生き残るためなら、なんでもするんよ。
私:なるほど。
友:それで、どこまで話したっけ。
私:於次秀勝の話や無かったか。
友:そうそう、於次秀勝は信長の子で、この子は永禄十一年に生まれたというのははっきりしとるんやな。それで秀吉の養子になった時期についてははっきりしてないんよ。天正五年から七年の間やろうと言われてるんやな。天正八年三月には秀吉と連名の書類があるから、それ以前に養子入りしたんやろうと、言われてるんや。
私:今みたいに役所へ届け出るもんや無いから、証明する書類も無いんやな。
友:大坂城も安土城も焼けてはるからな、貴重な文書類も全部焼けてもうたんやろうな。
私:惜しい限りや。
友:そいで、於次秀勝は残念やけど亡くなるんやな。天正十三年十二月十日や。
私:永禄だの天正だの言われても、西暦で言うてくれなわからへんで。
友:永禄十一年は西暦一五六八年、天正十三年は一五八五年やな。
私:今が昭和何年かもわからへんから、昔の年号とかわからへんよ。
友:ちなみに一九二六年十二月二十五日に昭和が始まって、今年は昭和一〇〇年の記念すべき年ですよ。
私:そうなんや!知らんやったよ!
友:今年の十二月二十五日にはお祝いせなあかんよ。
私:クリスマスと被るやん。
友:知らんがな、ケーキ二つ食うときゃええやんか。それぐらいあんたの胃袋受け付けるやろ。
私:ホールケーキ、二個かぁ……
友:誰もホールケーキ二個食えとか、言うてへんし。
私:お祝い事が被るって結構大変やね。
友:知らんがな。
私:それで話は終わるんやな。
友:終わらへんよ。次に小吉秀勝が出てくるんやな。
私:三人目やな。
友:この、小吉秀勝は永禄十二年に生まれて、天正二十年九月九日に朝鮮半島で亡くなってはるんやな。
私:朝鮮半島?
友:秀吉による朝鮮出兵に参加して、現地で指揮を執った武将の一人やってん。
私:なんてこったい!
友:こうして、秀吉の実子、養子となった三人の秀勝は揃って長生きせんかったて言う話は終わるんやな。
私:一人ぐらい、長生きしても良かったやろうに。
友:余談やけど、最後の小吉秀勝の血ぃは今も残ってるんやで。
私:そうなんや。
友:小吉秀勝は淀殿の妹である江さんと結婚して、二人の間に娘が一人生まれるんやけど、この子が後に公家の九条家へ嫁いで、その九条家から大正天皇の皇后さんが選ばれて、今の天皇さんへと繋がるんやな。直接秀吉の血ぃや無いけど、広い意味で豊臣家の血が残ってるって言えるかな。
私:広い意味ってなんやねん。
友:小吉秀勝のお母さんが秀吉のお姉さんなんや。そやから、広い意味でって豊臣家の血が残った、と。
私:秀吉ってお姉さん居たんやね。
友:このお姉さん、智って言う名前で、後に出家して日秀って名乗るんやけど、まぁ、不幸な人で長男の秀次は小吉秀勝が亡くなった後に秀吉の養子となって、殺生関白なんて言われて高野山で死罪やし、小吉秀勝はさっきも言うたけど、朝鮮で病死、三男の秀保は秀長の養子になったけど若くして病死、しかも文禄四年の四月に秀保が亡くなって、七月には秀次が死罪やし、辛かったと思うで。
私:誰か一人でも残って、豊臣家の血を残すとか、秀頼を支えとったらまた違ったんやろうな。
友:そうやなぁ、結局、豊臣家って誰も残らへんかったもんなぁ。秀吉には側室が十六人居たとか、そないな話も残ってるけど、淀殿しか子供を残せへんかったんは痛いよなぁ。
私:何が原因やったんやろうな。ええもん食べてなかったんやろうか。
友:医学的なことはわからへんけど、鶴松と秀頼が生まれたんは、秀吉が比較的落ち着いてた時期となるんやな。それまで戦争、戦争の繰り返しやったし、そう言うんも影響しとるんやないか、わしは密かにそない思てるんよ。
私:そう言えば、家康なんかは男子だけでも十一人やったか、子供居ったもんな。
友:単に栄養が足らんやったんか、なんやったんやろうなぁ……
私:で、そろそろ終わりですな、この話も。
友:今一つ気になったんは、これはあくまでも余談なんですけど、智さんって天文三年、西暦で言うと一五三四年の生まれなんですよ。それで長男の秀次が永禄十一年、一五六八年の生まれなんですね。三十代半ばでようやく子供を授かったみたいなんですよ。三男の秀保に至っては天正七年、一五七九年なんですね。推して知るべし。
私:折角生まれた我が子が三人とも養子に出て、若くして亡くなったら悔しかったやろなぁ、特に秀次は……
友:実の弟に殺されたようなもんやから、悔しいでは済まんやろ。
私:今回は明るくは終われへんか。
友:もう一つ、余談を宜しいでしょうか?
私:なんでっしゃろ。
友:これはWikipediaを読んで知った説なんやけど、石松丸秀勝のお墓があるのは長浜市の妙法寺って言うお寺なんやけど、そこは日蓮宗のお寺なんやな。
私:日蓮宗が石松丸と関係が?
友:実は智さんも日蓮宗の熱心な信者で、その智さんが妙法寺にも熱心に通ってたみたいやから、あるいは石松丸秀勝も智さんの子で、自分と所縁のある妙法寺へ葬ったんやないか、そないな説もあるんよ。
私:それでも、若くしてわが子を亡くしたことには違いないやん。
友:智さんは寛永二年四月まで生きはるんやな。西暦で言うと一六二五年、世は将軍家光の時代やな。
私:なんか、寂しい話やなぁ。秀吉が有名で栄耀栄華を誇っただけに、没落というか、転落の仕方が非道いよな。
友:大河ドラマにすんねやったら、豊臣兄弟や無うて、豊臣姉妹の方が受けそうな、気ぃするんはわしだけやろうか。
私:お昼のメロドラマとかで扱うたら、案外いけそうな気するけど。
友:あぁ、なるほど、なぁ……