6・通商破壊
聖暦1917年夏、ヒゲの主を長とする件の潜水艦は北真海峡を抜け、南東へとひた走っていた。
真の影響域を離れる頃に日暮れを迎える。
「速力上げ!25」
側の男が時計を見てそう命令を出す
「夏の夜は短いですね。出来るだけ諸島に近づいて偵察出来る時間を稼ぎましょう」
ヒゲの主はそう告げると部屋へと足を向けた。
それから9時間後、空は白み出し、東が明るくなっていた。
「ボイラー落とせ、機関転換」
艦橋から艦内に対しそう命令を飛ばす男。
後ろを振り向けばモクモクと上がっていた煙が消え、速度も落ちていく。
しばらくすれば煙突が倒され、煙路に蓋がされ、倒した煙突も整流カバーに隠れていった。
「どうですか?」
ヒゲの主が男に問いかける。
「今のところ、飛行船は見当たりません。警戒範囲に艦船もありません」
「やはり、諸島を越えて大洋へ抜ける事は想定されていない様ですね」
ヒゲの主は納得したように頷き、自らも周囲を見回した。
「しかし、そろそろ警戒していきましょう。見つかっては困ります」
こうして潜水艦は波間に姿を消していった。
その10日後、旭は東岸の港が砲撃され、更に3日後にも同じ様に砲撃を受けた。
更に20日後、諸島東側に件の潜水艦が居た。
「諸島に警戒の様子なし」
見張りからの報告を聞くヒゲの主と側の男。
「やはり、我が国が諸島を抜けて大洋から仕掛ける事は想定すらしていなかった様子です」
男はヒゲの主にそう口にした。
「ええ、出来ないでしょう。まさか、潜水艦が25ノットなどという速度を出すなど考えも付きませんよ」
ヒゲの主は満足そうにそう頷いて潜航を指示した。
この頃になると戊海だけでなく、旭日海でも貨物船遭難が相次ぎ、真の潜水艦による襲撃が確実視される様になる。
旭日海における最初の潜水艦撃沈はちょうど、件の潜水艦が大洋から西へと抜けて行く頃だった。
旭では春に予言された東岸への攻撃が現実に起きた事を受け、水中造兵局の出した駆潜潜水艦計画を承認し、西旭日諸島への飛行船、潜水艦基地建設を命じた。
それから月に一度のペースで東岸への攻撃が続き、海軍は多数の巡洋艦を大洋へと出し、哨戒を強化する事となった
軽薄そうな男が予言したとおり、旭は多数の巡洋艦を何隻居るかも分からない襲撃者の為に割く事になり、戊海への圧迫は減じられ、冬を迎える頃には真の北海侵攻部隊は不安なく半島で戦える様になっていた。
「当たって欲しくなかった推測が当たっちゃったよ」
「言葉の割に、顔はニヤけているようですが」
壮年の男が軽薄そうな呟きに指摘を加える。
「仕方がないでしょ、だってほら」
軽薄そうな男が指さす先には3隻の潜水艦があった。
まだ船渠に身を横たえるそれは作業が続いているが、外観は完成しているようであった。
「命令は8月22日、発注は9月4日のはずですが?」
発注からまだ3ヶ月しか経たないはずの駆潜潜水艦は既にその姿を船渠に3隻も横たえていたのである。
もちろん、僅か3ヶ月で建造する能力などない。
実は過去の試験結果から設計を行っていた軽薄そうな男は、5月末には局長権限によって試験艦建造を茶太海軍造船所へ指示していた。
正式な命令を受けた時には耐圧殻の製造は佳境を迎え、もし命令が無くとも試験艦として水中造兵局の予算で賄うつもりだったのである。
そうした事情から、年末には早くもタイプシップが進水し、聖暦1918年2月には海軍へと引き渡される事になる。
その外観は当時主流となっていた船型船体ではなく、最初の実用潜水艦であるブラニャー型によく似た紡錘型を成し、艦首上部は聴音機材を収納する外殻により成形されていた。
丙級潜水艦でありながら乙級潜水艦の機関を搭載したが、内燃機関は配置の関係から1基に減らされ、電動機は1軸に2台が直列に繋げられていた。
水上排水量450トン、全長52メートル、幅5.4メートルという数値は特に特筆すべき点はなく、図面や写真を見なければその特徴に気づけもしなかった。
当時は公表されていなかった出力や速力を知れば、各国関係者も目を剥く事になっただろう。
電動機は2基合計1450馬力となり、乙級としては標準的だが、丙級の場合、電動機は720馬力であった。
つまり、既存の丙級潜水艦の倍の電動機出力を誇っていたのである。
ただ、容積の関係から内燃機関を2基搭載することが出来ず、水上での出力は半減して620馬力でしかなかった。
これによって水上速力は船体が水上航行に不適な事もあって通常の丙級よりはるかに遅い10ノットに対し、水中速力は実に1.5倍強の15.2ノットを引き出す事が出来た。
ただ、小型船体に乙級用の機関を搭載した関係から、水雷装備に必要な容積と重量が足らず、標準的な55センチ魚雷発射管6門から小型水雷艇用42センチ魚雷発射管6門へと変更されてしまった。
さらに、水中抵抗を軽減する為に一般化していた備砲は無くなり、水上戦闘能力は有していなかった。
今日から見れば画期的な潜水艦に見えるが、当時の旭皇国海軍の軍人、技官からの評価は芳しくなく、「造船狂の道楽」と見る向き多数であった。
これが海外ともなれば、長らく正確な機関出力や速力が公表されず、局地防衛用の小型潜水艦としか見られない時間が30年近く続く事になる。
昨今では「もし、初葛亮孔盟があと10年生きていれば真も実用化した」と主張する人達が居るが、残念ながら創作上の話に留めた方が良いだろう。
初葛亮孔盟は聖暦1922年に没するが、旭真戦争中から体調を崩しており、後10年生きたとは思えない。
仮に病に冒されず、あと10年生きたとしても、結果は変わらなかったと私なら断言する。
当時の真に必要な潜水艦とは、西旭日諸島を突破して大洋で通商破壊や偵察を行う艦であり、電池の性能から潜航時間が限られる水中高速艦を保有する利点が真にはない。
真に限らず、西方諸国も聖暦1925年までには丙200級の写真を手にしているが、レーダーが実用化される頃まで、紡錘型船体を採用する潜水艦の計画や建造は行われていない。
旭皇国が旭真戦争以降も丙200級の建造、配備、改良を続けた背景には、真がとるであろう潜水艦による西旭日諸島突破への対抗手段を必要としたからに他ならず、その様な事情を持たない諸外国には、レーダーや哨戒機の性能に対応を迫られる聖暦1940年頃まで水中高速潜水艦を必要とする動機が生じなかったのである。
特に真の場合、しばらくは局地防衛用にしか使えない駆潜潜水艦を整備する理由や目的が生じていないのだから、いくら天才孔盟であれ、採用する理由がなかったはずである。