10・その後の歩み
戦後、旭皇国では丙200級の戦果が高く評価されることになった。
当時は潜水艦を攻撃する手段として爆雷がようやく登場していたが、発振探信儀の実用化には程遠く、 唯一効果的な方法として、艦隊が狙われた際は敵の襲撃行動を発見して、駆逐艦や巡洋艦を潜望鏡や魚雷発射によって噴出した気泡を発見した方角へ向かわせ、周囲を探り、爆雷をまき散らす事が行われた。
同じことを商船護衛で行う事も可能と判断され、聖暦1918年5月には旭日海において北海国から鉄鉱石を運ぶ貨物船による船団を組み実施するようになったが、停戦までに確実な潜水艦の封じ込めが出来たとは言い難かった。
大洋においては航行する商船の運航間隔も広く、出港時期を揃える事にも苦労した事から船団護衛実施を調整している間に停戦を迎えるような始末であった。
こうなった原因は、確かに潜水艦による被害は100隻に上るものの、それが旭皇国の死活問題にまで発展していなかった事。
皇桜公園砲撃事件が隠蔽され、その後の砲撃も報道管制が敷かれた事から噂話は空想小説じみた荒唐無稽なものに飛躍し、民間への危機感共有が進まなかった事などが挙げられる。
この為、ただ海軍へ不満を募らせ、或いは船団護衛の要請に反発するような動きが見られたほどである。
こうした事から戦後には法整備を進めるとともに、船団護衛を専門とする艦隊を整備する事も進められた。
そうした動きの中で潜水艦整備の考え方も当時の他の国々が歩んだ方向からは逸脱していくことになる。
旭皇国以外の国が潜水艦に求めたものは、端的にその後の真帝国が歩んだように通商破壊戦、或いは艦隊決戦後の敵艦隊襲撃に向けた能力向上であった。
とくに真は積極的にそうした潜水艦を整備していくことになる。
真帝国海軍は戊海に閉じ込められることがほぼ宿命づけられてしまい、外洋で作戦可能なものが潜水艦か仮装巡洋艦と言う状況が長く続いたのだから仕方がない。
そうした中で旭日海において猛威を振るった700トン級中型潜水艦、大洋進出を果たした2500トン級巡洋潜水艦の改良、整備を積極的に行っている。
2500t級巡洋潜水艦である巡3型も改良がくわえられ巡15型となり、よりボイラー効率を高め航続力が延されていた。
その後、内燃機関の発展に伴って巡33型では複動式内燃機関となって機関容積の縮小や燃費向上による大幅な航続距離伸長が図られることになった。
こうした発展は西方諸国でも一般的な動きであり、聖暦1926年に生じた西方大戦争では新たに航空機や戦車の活躍と相まって、潜水艦も猛威を振るう事になった。
この戦争では数百隻の貨物船が撃沈され、戦艦までがその餌食となっている。
しかし、旭皇国はそうした動きからは外れた道を歩んでいた。
西方大戦争は船団護衛の重要性を知らせる事にはつながったが、旭皇国は既に真による通商破壊戦を経験しており、再確認以上の意味は無かった。それどころか、友好関係にあった西方国家に対潜艦艇を売却していたほどである。
それら艦艇が有効に機能する事を確認できた事が、旭にとっては収穫だったと言えるだろう。
そんな旭にとって最も重要なことは、年々重要性が増す東大島で産出される合金鋼用鉱物資源を通商破壊の被害なく本土へ届ける事。北海国から良質な鉄鉱石の安定供給を維持する事であり、その為には北真海峡の先、南北海湾や西旭日諸島を真の潜水艦がすり抜けないようにする事だった。
その為に旭真戦争直後から、戦果の大きかった丙202艦長を潜水艦学校の講師に据え、さらには彼を中心とする潜水艦戦術プロジェクトも立ち上げる。
こうして他の国々より30年近く早い対潜潜水艦戦術の研究がスタートし、丙200級の改良に活かされることになった。
こうした動きは旭皇国の地理的特性、置かれた軍事環境によるところが大きかった。
旭皇国の第一の戦略は真帝国潜水艦の封じ込めであり、その舞台が北真海峡を抜けた先の南北海湾であり、大洋へ出るには必須の西旭日諸島であった。
南北海湾は真が飛行船を、後には飛行機を飛ばすことも可能な海域であり、水上艦のみで封じる事に無理があった。
必然的に西旭日諸島での封じ込めを補完するためにも、南北海湾まで進出可能な大型駆潜潜水艦、今の攻撃型潜水艦の開発を促す動機があった。
聖歴1920年には丙200級を基に船体を拡大した乙100級が開発される。
乙100級は水上排水量950トン、全長58メートル、電動機が強化されて電動機出力は1800馬力に達しており、15ノットの水中速力を満たすことが出来ていた。ただ、航続力はあまり改善されず、全力1時間半、巡航4ノットで90カイリであった。
さらに魚雷や魚雷発射管の開発も進み、聖歴1927年には深度40メートルから発射する事が可能となる。
この頃にはさらに大型で、甲212級という南北海湾での任務も可能な潜水艦が登場している。
水上排水量1400トンに対し、全長63メートルと言うのは当時の潜水艦としては小さく感じるが、幅は6メートル近くもあった。
この太さの原因は搭載したエンジンによるところが大きく、X型シリンダーを備える特異な内燃機関が採用され、短い全長の中で丙200級以来の2基直列2000馬力電動機のスペースを確保していた。
こうした他国とは一線を画した潜水艦を世に送り出したのは、造船卿の影響力も大きい。彼は潜水艦の理想形をイルカやサメに求める傾向があり、丙200級の成功以後、その姿勢がより強まっていた。
「潜水艦はイルカのように軽快に泳がなくてはいけないね。追い求める理想はサメになるのかなぁ」
と語っており、事実、航続力伸長のために水上航行能力向上を求める意見が何度も出るが、それらをすべて一蹴し、頑として受け入れようとはしなかったほどである。
サメの様な潜水艦の完成は原子力機関が実現する聖暦1966年を待たなければならなかったが、造船卿は歴代ただ一人の終身技術大将としてその開発にも携わる事になり、悲願を達成しているほどである。
聖歴1918年に真帝国巡洋潜水艦というリヴァイアサンを討伐して以来、今も旭皇国潜水艦は世界のリヴァイアサンたちと対峙し続けている。




