プロローグ.B
耳元で連続的に鳴り響くけたたましい電子音。
この騒音がAm5:30になるように設定した張本人である少年の腕が、薄い夏用布団の中から伸び出し、絶妙な位置で上下左右と空かしたあと、この音を発生させている媒体の頂点にあるボタンを叩いた。
間を置かず音は止み、室内には少年と布団が擦れる音だけが流れる。
しかしそれも長くは続かず、蹴飛ばされるようにかけ布団が宙を舞い、その下から半袖パンイチというだらけ切った少年の姿が顕となった。
約4時間の睡眠という硬直から解き放たれた体を思い切り引き伸ばし、少年――――│鈍祈 紡《 なまえば つむぐ》は全身を勢いよく跳躍させて布団から飛び上がった。
「はっ! くそほど眠い!!」
起床数分で――機嫌が悪いわけでも無いにも関わらず――特に意味の無い悪態をつきながら、言葉とは裏腹に紡の思考は既に冴えきっている。
それもその筈、紡は人一倍寝起きが良いのだ。
具体的には、十数年前学業を習う身になってからこれまで、一度たりとも、紡は寝坊と言うものをした事がなかった。
……いや、実際は寝坊をしたこともあったのだが、それ以前に寝坊が問題にならない程、そもそもの紡の起床時間自体が早いのだ。
紡の平均起床時間はAm5:00、過去の紡と比べてみれば、今日はむしろ遅い起床という事になってしまう。
その分就寝時刻が早いのかと言われるとそうでもなく、紡の平均就寝時間がAm1:00より以前になった事も、同様に一度もない。
紡の一日あたりの平均睡眠時間は、ほぼずっと約4時間をキープし続けている。
一般的に見ればこれは寝不足の域だ。
にも関わらず、紡の身長は174cmと、高身長とまでは行かずとも決して低いとは言えない高さを獲得していた。
つまり、元々そう言うタイプの人間なのである。
しかし紡には早起きせざる負えない事情もあった。
「さて…朝食と、あと弁当作るか…洗濯物も干さないとな…。」
紡は一人暮らしだった。
両親共に海外への転勤を命じられており、当時15歳で、高校受験を終えた紡は、共に海外へと行くか、日本でこれを機に一人暮らしを始めるかの選択肢を与えられ、今に至る。
中学生まで気分でしていた早起きが、高校生になってせざるおえない状況となったのだ。
しかしそれは紡にとって苦とはならず、むしろ紡の天性の器用さを駆った両親による『なんでも経験させてみる』と言う教育方針に救われる形で、紡の一人暮らしは圧倒的に充実したものとなっていた。
バタートーストとそれにそぐわない味噌汁という微妙な組み合わせの朝食を済ませ、コーヒーを入れるためのお湯を沸かす数分の間に、洗濯物を洗濯機の中から引きずり出し、コップと弁当箱を用意する。
やがてコンロから煮えたぎる沸騰音が聞こえ始め、紡はガスを止めてヤカンのお湯をコップに用意したパックへと注ぐ。
特に味にこだわるわけでもなかったが、紡はこのコーヒーを入れる朝の数分の時間が好きだった。
まだ登りきらない朝日を背中に感じながら、ゆっくりとお湯をパックに流し込んでいくこの瞬間が、早起きを楽しめる最もな時間であった。
そんな趣ある時間の使い方も、Tシャツにパンツ1枚と言う残念な格好でさえなければ完璧であったと、最初のうちは紡も考えた。
しかし早朝が比較的暖高いこの時期に入ってから暫くしてからは、
――――いや、この格好だからこそ、涼しさが明る様にわかるこの服装だからこそ、この時間の素晴らしさは保たれているんだ。
と、謎の解釈で場をごまかし、自分以外誰もいない部屋で1人コーヒーを淹れるという行動を窘めるようになっていた。
やがて差程大きい訳でもないコーヒーカップは直ぐにいっぱいになり、パックは役目を終えてゴミ袋へと投げ込まれた。
そして芳醇な香りを沸き立たせる黒い液体を、紡は少しずつ口の中に流し込んで行った。
* * * *
「さて…そろそろ行こうかな」
Am7:15、登校にかかる時間を考えると、紡にとってそろそろ出発したい時間である。
そこからの紡の動きは早く、玄関の扉を開け、自分の臀部に馴染んだ自転車のサドルへと跨るまでに数分とかからなかった。
勢いおくペダルを漕ぎ出し、自分の体が風を切るのを感じながら、学校へと続く道を辿って行く。
数年間続く自転車登校と自主的なトレーニングにより、紡の足腰は一般帰宅部生よりはるかに堅牢なものとなっており、そこらの学生は追いつくことも出来ない速度を――残念ながら安全運転を強いられるため速度に限りはあるが――自転車で出すことが出来る。
そうして10分程も走り続けているうちに、紡の視界の端には、小さいながらも学校の校舎の一部が入りだした。
「うしっ今日も無遅刻無欠席継続できそうだな」
余裕を持って到着できそうなことに安堵し、それとは裏腹にペダルを漕ぐ足に込められる力を増やし、本日トップクラスの速度が自転車で発揮される。
しかし次の瞬間その加速は、突如現れた木に衝突するという不可思議な事故により完全に停止させられることとなる。