おとぎ話の幸福論
ヒトはいつでも、無意識でも常に何かを選択し続けているものだと、なんとはなしに気が付いたのはいつだっただろうか。
そして私は意識して何かを選択したことなんてこれまであっただろうかと、その自問はふわりと場所を選ばずに頭に浮かんではその形を明確にとらないまま沈んでいく。面白くもない結論を直視などしなくても、毎日ごはんは食べられるしそこそこきれいな服も着られるし空調の整った部屋で眠ることができる。
それなのに。
人魚姫というおとぎ話を知っているかと尋ねた彼女の姿が、いつまでも私の意識の底でゆらゆらと漂っている。
彼女の薄茶色の瞳は、時折海面のように藍や碧の光を揺らしていて。
見つめるだけでこの世のすべてを手に入れられそうにも関わらず、あまりひとつのものや人に焦点を定めることはなかったように思う。
「そりゃ、小さいころに読んだよ。絵本」
彼女がつかんで脱ぎ捨てたハイヒールを揃えながら答えた。
いつ来てもこの部屋は足の踏み場がない。壁に埋め込まれたクローゼットは開きっぱなしで空のハンガーがぶらさがっているのが見える。床を覆い隠すのは貢がれたであろうブランド物の服やらハンドバッグ。中身を出されてもいない紙袋が不安定に積み重なっている。彼女は少し足をひきずりながらもその足でわずかな隙間をつくり座り込んだ。
これだけ散らかっているのになぜこの部屋はいつも生活感がないのか。閉め切られたカーテン、整えられていないベッド、隅にはさいころみたいな冷蔵庫。キッチンのコンロがあるべきスペースには何もなくてホースがつながれていないガスの元栓がぽつんと壁から突き出ている。あまりにも生活を構成する要素が足りなさすぎるんだろう。
特に素材を確認することもなく私は床の服をかきあつめて洗濯機のある小さな脱衣所に向かう。部屋の主が気にしていないのだからどうでもいいだろう。洗濯機の横のかごにそのまま突っ込んだ。さすがにバスルーム近辺にはわずかに生活している感がある。
部屋に戻ると彼女はベッドに寄りかかり、さっき一緒に買った缶ビールを開けていた。くわえ煙草にあぐら。私も缶ビールを一本取り出し、残りをコンビニの袋にはいったまま冷蔵庫にしまう。
「あれさあ、海のもずくになっちゃうじゃん? 最後」
彼女は足をもみほぐしながら話をつづけた。別に歩き回ったわけでもないのにいつもそうしている。血管の浮き出る薄い足の甲。どんな華奢なデザインの靴だって締めつけることなどできなさそうなのに。
「藻屑でしょ……。てか、泡じゃないの」
似たようなもんよ、と意にも介さない。
「綺麗すぎるよね。むしろ幸せじゃない?」
「綺麗は綺麗だろうけど、幸せってゆうか、一応アレ、美しい悲恋の話でしょうが」
「うん。美しくなきゃ夢ないもんねぇ。おとぎ話なんだし。でも現実にはさ、綺麗綺麗な恋心だけ持ってそのまま消えちゃえるなんてことないじゃない。あんまり」
随分今夜は饒舌だ。機嫌がいいらしい。
「人魚の世界を捨てることまでした人魚姫をさ、王子を殺すだけで帰ってきてもいいよとか、随分優しいよねぇ」
「優しい……かなぁ? でも、人魚姫は殺さなかったじゃん」
「そう、自分の手を汚すことなく、自分の一番綺麗なものだけ抱え込んで消えていけたわよね。だって、王子に見捨てられて、身よりも稼ぐ術もない人魚姫がさ、仮に人間として生き残って、どうやって生活するってのよ。消えちゃったほうが楽だと思わない?」
「そんな身も蓋もない…おとぎ話にそこまでリアルさ求める? 普通」
彼女は一気にビールを飲み干す。私は冷蔵庫からビールを取り出した。といっても狭い部屋だからちょっと手を伸ばすだけで楽にとれるのだけど。
「そうよねぇ。おとぎ話、だしねぇ」
彼女は缶ビール三本でくったりと寝てしまった。この部屋は冷え込みすぎる。片手でなんとか毛布を手繰り寄せてかけてあげる。もう片方の手は彼女の細い指が私の指に絡まっている。私が来た時はいつもこう。
頬に薄い陰を落とすほどの長い睫毛の持ち主がこうやって眠ってしまっていたら、手を繋ぐだけで理性を保てる男がいるはずもない。私がいない時はどうしてるのだろうなんて考えるまでもない。
そしてその考えは私の胃を締め上げる。
昔、好きだった男がいた。今思うと本当にろくでもない男。
なのに私には彼しかいないなんて思いこんで。
そいつの甘い言葉にそのままのっかって高校の卒業も待たずに田舎から出てきて。
あっさりと捨てられて。
定番どおりに転がり落ちた。
転がり落ちるほどの自分の弱さが情けなくて、もう誰も好きになんてならないと誓いながら人肌だけを求めて。
そんな愚かな女は当然夜の店にたどり着く。
若いころはまだよかった。
景気のいい口車にのって店を転々としてもやっていけた。
けれど、四年、六年とそんな生活を続けて、今や、過去の流行を若干ひきずる服をまとった少しとうのたった女たちと、九十分三千円飲み放題の時間切れを気にする男ばかりが来るような店。
彼女が店に現れたとき、なんだってこんな店にと思った。理由は初日のうちにわかった。酒が入っていたとしても戸惑うほどにはしゃいだかと思えば、立て続けに煙草ばかり吹かして客の話に相槌すら打たない姿に、なるほどどこの店でも上手くはいかないだろうと。支配人に面倒をみてやれと頼まれてからこっち、店の女からの苦情という名の陰口がひっきりなしに私のところにくる。
なんだって私が間に挟まれなきゃいけないのか。私が説教をしても彼女は怒ることも気にすることもない。こちらを見もしない。私だって気に入らなかった。
ある閉店後、ビルの裏口のところに座り込んでる彼女がいた。声をかけてもそっぽむいたままだから、最初はほっといて帰ろうと思った。なのに角を曲がろうとして視界の隅に、まだ座り込んでる彼女が足首をさすってるのがひっかかってしまった。数秒考えて戻った。支配人に頼まれたのだ。面倒を見ろと。
「足、どうしたの」
「……別に」
その細い足首を軽く蹴ってやると、彼女はひゅぅっと息を吸い込んで私をにらみつけた。
「こけたんだ?その段差で」
「……こんな靴大嫌い」
細く高いヒールにきらきらとビーズがちりばめられている靴を脱いでそのままアスファルトにたたきつける彼女のふくれっ面に、つい笑ってしまった。
「あんたがタクシー代だすんだからね」
靴を拾い、彼女のわきに滑り込んで肩を貸した。
「いくら支配人に頼まれたからってよくやるよね。」
「……私も後がないのよ。この年だしね」
「へぇ。ばっかみたい」
このまま側溝に突き飛ばしてやる誘惑が沸いた。
「後がないなんておもってんのあんただけじゃないの」
「なんでよ」
「なにがよ。ああ、ちょっとコンビニよってさぁ、たばことビール買ってこうよ」
「あんた人の肩かりといてなにいってんの」
「だからそこでタクシー止めてさ、私待ってるから。そこの角にコンビニあんじゃん。ほら」
貸してる肩の反対の腕に自分のバッグを押し付けながら、彼女は、ほどけるように笑ったのだ。
明け方に花開く睡蓮のように。
なんだかんだとよく彼女の部屋に泊まりにいくようになった。
私の部屋よりは店から近いせいもある。
そのうち彼女は夜中うなされることがよくあるのを知った。
うわごとははっきりと聞き取れる。時には悲鳴も。
けれど、涙のひとつもこぼさない。
ほんの時々、男に連れられていくことがある。店の客だったり、声をかけてきただけの男だったりするのだけど、彼らはそんな時には抱きしめるなりするのだろうか。
私は、ただ、冷たく凍える指を握り締めてあげることしかできない。
正月には帰って来いと田舎の母からの電話を、のらりくらりとかわして切った。駆け落ち同然に家を飛び出した娘に激怒し続けている父の目を盗んで母は月に一度は連絡をよこす。全く帰ってないわけじゃない。あれから2度ほどは帰ってる。父が出張で家を空けているときに。
「帰んないの?」
「帰るとさ、やれ見合いがどうの結婚がどうのつきあってる人がいるのかどうなのかだの、うるさいのよ。いろいろ」
「ふぅん。そういえばあんた、男いないっけ」
「私のメガネにかなう男がいないのよ」
「高望み……」
「うるさいなぁ」
私は少しばかりの息苦しさをこらえて、セブンスターの空パックを投げつける。
「あんたどうなのさ。田舎の話って聞いたことあったっけ?」
「んー、あるにはあるけどさ、帰れないのよね」
その事情は聞いて欲しいのだろうか。考えあぐねて言葉を返せないでいると、まぁ帰ろうとか思わないけどさ、と彼女が呟いた。
彼女の部屋では常におしゃべりし続けているわけじゃない。お互いガールズトークなんて柄でもない。最近テレビが仲間入りしたので、つけっぱなしにしたまま眺めたりしてる。今は甘ったるい恋愛映画が流れていた。古い画質の映像は、男が女の名前を繰り返し呼びながら抱きしめているところだった。
いいなぁ、と、彼女がつぶやいた。
「意外ね。こうゆうべたべたの話好き?」
「名前をさ、呼ばれたいなぁって」
そういえば店での名前しか知らないことに気づいた。なんだか画面を無表情に見つめる彼女はいつもより更に細く見えて。
「なんてゆうのさ」
「ん?」
「名前、私が呼んであげるよ」
彼女は大きな目をもっと大きくさせて私を見つめて、それからまたあの笑顔を見せた。ほどける睡蓮。ああ、睡蓮は水上で咲く花だから、なんだか涙もはりついているように見えるのかもしれない。
「ありがとう。でも、あんたには私の名前は発音できないんだよ」
女に呼ばれてもねとか皮肉がいつもならかえってくるところなのに。
「発音? あ、もしかしてハーフとかなの?」
瞳の色に納得しつつ、英語の授業を寝てばかりいたことを後悔した。英語とは限らないのに。
彼女は小さく首を振って、そのまま私の肩に頭をこつんと預け画面に目を戻した。
「ねぇってば」
「うるさぁい。テレビみてるの」
クリスマス間近、イブ前後の客を確保するための電話攻勢に店の女たちが必死になり始めた晩。
憎々しげに顔をゆがめた女が彼女にかみついた。彼女が自分の客兼パトロンにちょっかいを出したと。彼女に向けて繰りだされた平手打ちをとっさにつかみ、そのまま引きずり倒してしまった。
そして私は店を首になった。
彼女は指名No1だから店のほうも手放したくないらしかったが、「くだらない」と一言吐き捨てて私と一緒に店を出た。
もてるだけ缶ビールを買い込んで、一晩中飲み続けた。引き倒されたときの女の顔を真似てはヒステリックに笑い転げた。彼女をひきとめるために、私のクビを撤回しようとしどろもどろになる支配人の声真似は、意外と彼女がうまかった。
「人魚姫のほんとのお話教えてあげようか」
くすくすと含み笑いしながら、缶ビールを軽く揺らしながら、彼女は話し始める。
「人魚の世界だって、人間の世界と同じでさ、シビアなわけよ。裏切り者には。声をとりあげるなんて甘いものじゃないし、王子に振られた元人魚を迎え入れたりしないの。王子の『自分に関する』記憶を取り去って自分は元人魚の人間として生きていくか。寿命は人間の何倍もある人魚のままでね。もしくは王子を殺して本物の人間として生きるか」
なんとなく。
彼女の酔いに任せた戯言だとしても。
なんとなく、笑い飛ばしちゃいけないと思った。
「恋が実れば本当の人間として王子と暮らすことはできるけど、その恋も、審査がいるのよ」
「審査?」
「そ。それを王子ができるようになれば、人魚姫が本当の愛情をもらったと証明されるの」
「難しいことなの?」
「人魚姫の名前を呼ぶだけ」
「……それだけ?」
「海の中で暮らす人魚達の言葉を、人間が発音できると思う? 聞き取ることすら困難で、発音しようとすれば声帯が引き裂かれるような痛みをともなう。それをね、こなしたのなら、人魚姫への真心が本物だと、証明されるのよ」
彼女の視線の焦点は、いつしか遠いところで結ばれていて。
「そのお話でいくと、人魚姫はどうなったの?」
「もしあんたなら、どっちを選んだ?」
自分の世界を捨ててまで愛した人に忘れられて、その人が年をとって死んでしまった後も自分は一人で生きつづけて。
殺してしまっても、もう誰も人魚姫の名を呼ぶことのできる存在はいないまま、人魚よりは短いにしろ生きつづけて。
私ならどちらを選ぶだろうか。
私に選ぶことなどできるだろうか。
答えられないでいると、彼女は「ま、おとぎ話よ」と呟いた。
「…ねぇ、あんたの名前、教えてよ」
「なに? 急に」
「うん…いや、こないだ教えてくれなかったじゃない」
彼女は、睡蓮の花びらがふわりと落ちるかのように笑った。
「もう、忘れちゃった」
その朝目覚めると、彼女の姿は見えなかった。何日待ってももう戻ってこなかった。
年が明け、私は田舎に向かう電車に乗り込んだ。なんとか小さな会社の事務員の仕事にありつけた。家に戻ることは許してもらえなかったけれど、父のコネがきいたのだとこっそり母に教えられた。実家には歩いて行ける距離に部屋も借りることができた。
持っていくものは、冷たく細い指の感触と、耳の奥ににこびりついた真夜中の悲鳴。
「愛しているの」と切り裂くような悲鳴。
彼女の名前を聞きたかった。
無理やりにでも聞き出せばよかったと、どこかで少し足をひきずりながら歩いているだろう彼女を思い出すたびに、そう思う。
BGM*Tsumi to Batsu & Kouhuku-ron by Shina Ringo