タピオカは殖えたりしない
タピオカは南米原産の芋の澱粉で、タピオカという名称も現地語らしい。ただし、タピオカミルクティーは台湾発祥だ。この辺がややこしい。ピザまんくらいには厄介だ。あれはイタリア人に食わせても諸葛孔明に見せても怒り出すだろう。中華饅頭はピザまんでござい、食して御覧じろ。私は好きだけどね。あとはあれか、名古屋名物台湾ラーメンアメリカン。イタリアンやアフリカンもあるらしいが、これはふざけているんだろうから問題外として、たぶん、ピザまんは真剣だ。名古屋名物台湾ラーメンも、名古屋名物台湾ラーメンまでは真面目にやっていたのだろう。アメリカンで置きに行った。完全にやらかしに走っている。
「ねぇー、このタピオカ、飲んでも飲んでも減らないんだけどぉー」
ここで問題がひとつ。タピオカは飲み物だろうか。南米原産の芋の澱粉が、飲み物であろうか。もちろん、タピオカを飲む、これ自体に文法的な誤りもなければ、国語学的な誤謬も認められない。嚥下しているのは確かだし、咀嚼せずに鵜呑みにすることも十分に考えられる。しかし、相手はタピオカである。もちもちしているなどと食感を売り物にする、あのタピオカである。問題は、タピオカ入りのミルクティーを飲む際に、同時にもぐもぐしているあれを、食べると表現するべきなのか、飲むと表現するべきかなのである。
「ねぇー、地の文が五月蝿いんだけどぉー。タピオカ減らないしぃー。マジありえなくなぁーい?」
眼前で今まさに起こり得ている事態に対して、ありえないとは如何なものか。ありうべからざる事象であると言うべきだ。
「地の文マジ五月蝿ぁーい。大体、ピザまんの話とか本筋と何の関係もないじゃなぁーい。地の文とか滅んじゃえばいいのにぃ」
「ミキ、地の文は滅んだりしないよ。地の文は世界そのものだから。天地創造のその時、そこにあったのはまさに地の文だったんだよ。それに、そこは五月蝿いというより、むしろ煩いといったほうが適当なんじゃないかな」
「マサキまでそんなこと言うー。なんで会話文なのに漢字表記が分かるのよぉー。だから小説ってきらーい」
「ははっ、実に純文学的な会話じゃないか。まさか、こんなキャラクターを登場させることに、作者は抵抗を感じなかったのかな。ちなみに分かるって言葉も、この作者なら解ると表記するところだよ。そんなことより、どうするんだい、そのタピオカ」
危うく会話体で物語が進行するところだったが、ミキと呼ばれた天理妙我作品におよそ相応しくない女の手には、タピオカミルクティーの入ったプラスチック容器が握られている。否、正確には、タピオカミルクティーの入っていたプラスチック容器だ。現在進行形では、タピオカミルクティーのミルクティーだけが消費され、固形物としてのタピオカだけが残された容器だ。
「どうするって、どうしようもないじゃない。ミルクティーのないタピオカだけなんて。おかしいの。減らないのよ。飲んでも飲んでも。タピオカだけが。気味が悪いから、このまま置いていっちゃうわ」
「おやおや、置いていっちゃうワと来たね。そんな喋り方をする女、小説の中くらいにしかいないぜ。それに、これじゃあまるで、中身入りのタピオカミルクティーの容器をところ構わず捨てていく女を悪く言うための小説みたいで、インバランスじゃないか。僕も男として、火の点いたタバコの吸い殻をポイ捨てしていくとしようか」
先ほどマサキと呼ばれた男は、ここではじめてタバコを吸いながら会話していたことになり、人差し指と中指に挟んだ火の点いたタバコを、手首のスナップを効かせて公園の緑地へと放り投げた。あくまで小説の表現上のことであり、決して真似をしないでください。中身の入ったタピオカミルクティーの容器を置いていったりしてはいけません。地球環境にもよろしくないし、第一、行儀が悪いと思わないのか。
「マジ煩いよねー。地の文とか死ねばいいのにぃー」
「地の文は死んだりしないさ……」
*
「あ、タピオカだ。貰っていっていいかな」
「貰っていくって、本気? 誰かの飲み残しでしょ? 汚いよ」
「昔、飯野佐太郎って人はね、お便所に落ちた米粒を食べるような生活をして立派な人になったんだよ」
「誰だよそれ。やめときなって。置いてあるだけかもしれないし。占有離脱物だよ」
「廃棄物だよ。ミルクティーのないタピオカだけなんて」
「だから、廃棄物を拾うなって。特に食品は。ストリートチルドレンかよ」
「あ、ストリートチルドレンを揶揄したな。感想欄が荒れても知らないぞ。食品だから捨ててあっても頂くんですー。キャッサバだって、捨てられるために掘り起こされたんじゃないでしょ」
「おいおい、本気かよ。まさか人生で、捨ててあるタピオカを拾って食す人間を目撃することになるとはなー」
「いいの。私、タピオカミルクティー大好きだし。捨てられた憐れなタピオカを放ってはおけないわ」
「また変な女語になってるし。違う人物なんでしょ。書き分けなさいよ。それと……」
「どうしたの」
「地の文は死んだの?」
*
「あれ?」
築二十年のワンルームマンションのキッチンに響く甲高い独り言。
この現象をどう説明したものだろうか。大きめのプラスチック容器に入ったタピオカをスプーンですくってティーカップに移す。そこに一リットル税別八八円で買った紙パック入りのミルクティーを注ぐだけの、簡単な作業。
「タピオカが、増えてる?」
いや、タピオカは増えたりしない。タピオカは南米原産の芋の澱粉だ。無暗に増えたりしたら、それはもうタピオカではない。黒くて丸くてもちもちした何かだ。いや、待ってくれ。タピオカは本来黒くない。あれは着色だ。初めにタピオカを黒くした人、何を考えていたのだろう。
「このタピオカ、全然減らない……」
そう、タピオカは増えたりしない。このタピオカは、減らないタピオカなのだ。純文学だから、そういったものが登場する。
プラスチック容器からティーカップにタピオカを移しても、元の容器からタピオカが減らないというアイデア一発の小説だ。下らないと思ったでしょう。でも、ここまで二千文字以上読んでるし、もう終わるから、こんなものに当たっちゃったのを身の因果と諦めて、最後まで読んでいってください。
「減らないタピオカかぁ」
そう、減らないタピオカ。増えたりしたらそれはもうタピオカじゃないけど、増えるのと減らないのとでは本質的な意味が全く異なる。ここに文学的な才能が煌めいていることに注目だ。
「よし、もっとミルクティーを買ってきて、タピオカ好きの友達もみんな呼んじゃおう。今日はタピオカパーティーだ」
語尾に音符マークを付けながら、名前も与えられなかった女はマンションの自室を出て行く。手の平サイズの小さな機械で友達に呼びかけるのも忘れない。
部屋に残されたティーカップには、薄気味悪い黒い粒々が奇妙な存在感を放っていた。
もちろん、消化器官に移されたタピオカは、消化吸収されようと排泄されようと、その量を減らさない。そのカロリーは無限である。