第十一話:初めて
アリスは逃げようとはしなかった。たとえその目が恐怖に耐えきれず涙し、表情が踏みしめた落ち葉のようにくしゃくしゃになろうとも。
私が着せた道着を引っぺがし押し倒しても、悲鳴の一つも上げなかった。そのくせ局部を隠す手は震えている。
そしてその生暖かい手で私の手を握りこう言ったのだ。
「お願いします」と。
私は馬鹿だ。大馬鹿だ。戦争を知った気になって思い上がっていた。
誰かを救えなかった人間の思考なんて知り尽くしているつもりだった。最後に一人生き残った者の、呪いにも似た破滅願望を私は知っているつもりだった。
幾百の戦場を終わらせ、幾千の人間を殺そうと私は何も知らなかったのだ。戦争の、死の先にあるものを。
私が救ったと思っていたものはただ、終わらせていただけだったのだ。決して救いなどではなかった。虐殺を終わらせた後に残るのは死体だけだと思い込んでいた。
結局、人なのだ。人が死んだ後に残るのも人なのだ。私はそれを任務外の事象としてNPOやらなんやらのお人よしの仕事として押し付けてきたのだ。
今、目の前にいる彼女を放っておけば、彼女はいつか消えてなくなってしまう。そんな気がしてならなかった。
「どうしたんですか。魔王のくせに怖いんですか」
彼女の声は震えている。彼女にかかった呪いを妖刀モノ斬りで断ち切ることができれば、どんなに楽だったろうか。心は心でないと斬れないのだ。
「怖いさ。私は一人の少女を犯すのだ。怖くないわけがあるか」
「私も怖いです。でも、このまま生きて、幸せになるのがもっと怖いんです」
アリスは握った私の手を自分の胸に押し当てた。
「子供の体じゃダメですか」
「ああ、ダメだ。てんで興奮しない」
「もう、大人なんですけどね」
「冗談は笑って言うものだ」
「私今どんな顔してますか」
「今度見せてやりたいほど不細工だ」
「あなたは自分に正直過ぎます」
「お前も正直になったらどうだ」
「痛いのはいやです。でも、痛くないと、苦しくないと意味ないじゃないですか」
「そうか」
「そうです」
私が腰に手を当て、力を込めると、アリスはその目をぎゅっとつぶった。
ああ、自由とはなぜにこうも重いのだろう。
私は殺人の後処理も責任感もすべて私に命令を下す名も知らぬ誰かに擦り付けてきた。自分勝手に、世界はどうやっても平和にならない、なぞとほざいて、そのくせ他人に操られるだけの虐殺機械となるのが怖くてここへ逃げてきたのだ。
そうして手にした自由の結果がこれだ。
誰かを生かした責任も、誰かを助けなかった罪も、誰かを助けた因縁も、全て自分に帰ってくる。
だから私は終わらせなければならない。どんなに情けなくとも助け切らないといけない。それが現実から逃げた男が男でいられる瀬戸際だ。
私は世界を平和にするのが夢だった。だが、千代竹、私を笑ってくれ。私についぞこの手で人を助けたという記憶はないのだ。私にとってアリスが初めてだ。男の初めてである。不器用なのは堪忍願いたい。
私は仰向けにこわばったままのアリスをひっくり返した。そしてその白く膨らんだケツを何発か叩いた。
「い、痛い、痛い。痛いですって。やめてください」
「お前、本当に痛くされたいなんて思っているのか」
「な、何てこと言うんですか、私変態みたいじゃないですか。あ、いや思ってますよ。あの時に戻れたら誰かの盾になっています」
「ケツ叩かれて喚いてるくせにか」
「それとこれとは、べ、別問題です」
「アリス。私はお前を望み通り不幸にしてやる。だからついて来い」
「あ、あなたは無茶苦茶です」
「そうだ、お前の人生を滅茶苦茶にしてやる。私は魔王だからな。従えぬなら斬ってみよ」
「アリスちゃん。今度私と一緒にこの魔王様に復讐しませんか」
ミーナが落ちたサーベルを拾ってこっちに歩いてくる。
「ミーナ、あの程度でやられるとは情けない。魔王の側近だろう」
「初めて使った武器なんです。もう鉄さんのお揃いとか訳分からない理由で武器選んだりしません」
「そうしてくれ。あれが私じゃなかったら二人ともやられてたぞ」
「鉄さんがいるじゃないですか」
「馬鹿言え」
「ミ、ミーナさん。だ、大丈夫なんですか」
のそのそと起き上がるアリスに、地面に落ちた道着を手渡した。
「殴られるときに「任せろ」って言われたんで、魔王様には逆らえないですよ」
「そんなこと言ったか」
「言いました。女の子を腹パンしながら言うセリフじゃないですよ。装備越しでも結構効きましたから」
ミーナは革鎧の上からお腹のあたりをさすっている。カッコいいのに安かった鎧は効果もいまひとつのようだ。
「ミーナ、アリスを負ぶってやれ。私では嫌だろう」
「はい、嫌です。命の危険を感じましたから」
「死にたがっていたのは誰だ」
「ミーナさんはよくこんな人と一緒にいられますね」
「だって魔王様ですから。ね、鉄さん」




