第一話:妖刀〈モノ斬り〉
この道場に帰ってくるのは何年振りだろう。
十数年ぶりに道着に袖を通した。洗っても落ちない汗と埃の匂いが懐かしい。道場とは言っても私が自衛官になる数年前から門下生は取っていない。同僚からは剣術で食っていけると言われたこともあったが、守るような流派もない自分に先生はできないと返していた。
さび付いた蛇口をひねり、持ち手の取れた金バケツに水をくむ。雑巾掛けなんて本当に久しぶりだ。この国にいた頃ならまだしも、向こうに渡ってからは、雑巾掛けできるような床でさえ珍しかった。
「おい、鉄斎。こんな朝から雑巾掛けとはえれぇ元気じゃねぇか。自衛隊ってのは大変だそうだな」
鉄斎とは私の名で、この男は道場の隣の鍛冶場で鉄を打つ道具鍛冶の千代竹是吉だ。
「ああ、千代竹か。俺は今は自衛官じゃないし、ここが祖国でもない。故郷には変わりないがな。お前は元気そうだな。師匠は達者か」
私が属するのは、もはやこの国ではない。世界の平和を守る影を自称する大仰な組織にスカウトされたのだ。そして、私はその組織から暇を言い渡されて故郷に帰ってきた。
「達者も達者さ。火を覗き片目を失ってまでも尽きぬ鋼への執着、だそうだ」
「それは何より。そう言えば、ここを出る前に頼んでおいたアレはもう打てたか」
「師匠が10作目の遺作にご執心で弟子には無関心だからな。打てたさ。道具鍛冶、千代竹是吉、最初で最後の一振り。今日はそんためにこんなクセェ道場まで出向いてやったのさ」
千代竹是吉は江戸時代から脈々と受け継がれる道具鍛冶の一番弟子だ。太平洋戦争の頃に先々代が軍刀製造を強制された時にはカンナで首を斬って自害しようとしたらしい。そんな筋金入りの道具鍛冶の系譜の最初で最後の一振り。正直今の私には重すぎる。
「すまないが――」
「てやんでぃ。この千代竹是吉、ただで渡すわけにはいかねぇ。おめぇが鉄斎を名乗る前、俺に言った、世界を平和にしてやるって大層な覚悟、濁っちゃいねぇだろうな」
そうか。私はそんなことを言っていたのか。もうそんな恥ずかしい覚悟、微塵も残っていなかった。
殺戮の先に平和などなかった。殺戮の先にあるのはまた次の殺戮だ。計画、工作、作戦、ミッション、オペレーション。どんな名で呼ばれようとそれは誰かの死を指す言葉だった。
「そうか。まあ、そうか。でもな、井原鉄斎、男だろ。道具一筋のこの俺に、刀を一振打ってやると言わしめた、日の本最後の侍だろうよ」
「俺が侍? 人斬りの間違いだ」
「いいや、てめぇは侍さ。そこまで言うならこの刀に呪いをかけてやる。妖刀さ。この刀の銘は〈モノ斬り〉だ」
「ものきり……か」
「おうよ。初めはどんな物でも者でも斬れぬモノなし、最上の斬れ味という意味だったが、止めだ」
「うまいこと掛けたな」
「も一つ俺が掛けてやる。てめぇの覚悟が決まらねぇ内は、どんな物でも斬れるがどんな者も斬れねぇ。半端な覚悟で人を斬ればその刃が向かうはてめぇ自身だ。これは道具鍛冶の意地と侍の友を持った男の願いさ」
その言葉は、まさに実直だった。そして誠実だった。覚悟であり期待だった。
手が震え、頬を汗が伝う。この想い、不意にしては、私は、私は、本当に人間でなくなってしまう。だが今の私に背負いきれるだろうか。瀬戸際だった。
「妖刀モノ斬り。確かに受け取った」
重い。まだ私には重すぎる。だが、私はもう一人ではない。呪いが、願いが、暖かな刀傷となって刻まれた。
「すまん、厠へ行っても構わんか」
「おうよ、お代をごまかそうって訳じゃねぇだろうしな」
「それはまた今度だ」
そうして、道具鍛冶千代竹是吉は笑って道場を後にした。
私はそのあと厠へは行かなかった。
無骨な桐箱に納められた白鞘の妖刀を引き抜くと、刃は鋼に薄い生水の膜が張っているようで、まさに妖艶に輝いていた。
「目測2尺5寸、こういう時愛好家は何と言うのだろうか」
私は刀を観賞用としてみたことはなかった。それは武器であって、愛でるものでもなかったからだ。だが、この刀には妖を引き付けるような何かがあるような気がした。
一度納刀し立ち上がって、抜刀、空を袈裟に切りつけた。
白鞘だが良く手になじむ。重心の取り方が見事だからだろうか。まるであの男に刀を通して心を読まれていると感じるほどの出来だった。
「まさに斬れぬモノなし……か」
「その剣、その立ち振る舞い。あなたを稀代の剣士・英雄と見込んでお願いがあります。我々魔族を人間の魔の手からお救いください」
正面、透き通った声のする方へ目線を上げる。
そこにいたのは高校生ほどの歳の、銀髪の、頭に獣の耳を生やした全裸の少女だった。