女神の覚悟
◇【女神ヴィシス】◇
音玉は、ヴィシスも知る魔導具。
放たれた音がどんな合図かまでは当然わからない。
が、今の音玉の狙いが何かくらいは瞬時に理解できる。
このための、時間稼ぎだったと。
――しくじった。
別働隊が迷宮の出口を目指していたのだ。
おそらくは音が通るようにし、他の仲間を合流させるために。
ロキエラがいるなら迷宮の性質を知っていてもおかしくない。
あの蠅王とセラスは到達までの時間稼ぎ――足止め。
私は、釣り出された?
王の間の、強化術式の場から――――しかし。
別働隊が途中で私に遭遇することは考えなかったのか。
無為に仲間を死なせたかもしれないのに。
……なるほど。
仲間の安全を優先する性格と思っていたが。
アヤカと違い仲間を切り捨てる覚悟はある、と。
「ふふ、外道め……」
静かに煽る調子で口にし、ヴィシスは決断を下す。
今は敵の術中下。
そう見ていい。
ならば”この場”にも釣り出された可能性がある。
どんな手を用いたかはわからない。
が、向こうの思惑通りに運んでいる感じはある。
少なくとも――
この場に残るのは、まずい。
ヴィシスは近くの窓の方へ移動を開始した。
同時に分身もセラスと戦わせながら移動させる。
窓の硝子を粉砕し、ヴィシスは隣の城内の中庭へ飛び出した。
比較的、視界が開けた中庭。
やや遅れて分身も壁をぶち破り、同じ中庭に飛び出してくる。
セラスたちも戦闘を継続しながら、そのままついてきた。
(なんとまあ……後ろの蠅王を守りながら、器用についてくること……)
背の低い草木や花壇、小さな噴水くらいならある。
が、遮蔽物は少ない。
二階の窓や屋根の上からの奇襲は当然、想定に入る。
ただ、二階部や屋根の上は禁呪や状態異常スキルの射程外。
ゆえに、選んだ場所。
姿を隠すより、ヴィシスは完全な射程外に身を置くことを優先した。
ただ――もう一つ。
苦しかったのかもしれない。
屋内が息苦しくて。
自分は、真上に空の開けた場所で”息”をしたかったのだろうか?
ヴィシスは口もとを、自嘲の笑みに歪めた。
――そんな無意識へ気をやるのは、無意味の極み。
今は、目の前の敵を叩き潰すのに集中しろ。
(……思ったより分身は使い勝手が悪い)
一度、分身をここへ置いての撤退も頭をよぎった。
が、分身は本体と距離が離れるほど弱体化されていく性質がある。
アヤカやアサギと遭遇した分身の主な役割は偵察だった。
なのである程度、弱体化は織り込んで出していた。
戦闘は神徒に任せればいい、と。
しかし……この局面で分身との距離を空けすぎるのは悪手。
分身がセラスに倒されてしまっては、それこそ詰みだ。
せっかく時間経過で能力が上がっているのに。
離れて弱体化してはそれが”チャラ”になってしまう。
(……ちっ)
せめて分身を二つ出せたなら。
分身の難点の一つは一体しか出せない点。
ヴィシスは割れた硝子の尖った破片を拾い、蠅王に投擲した。
セラスがついでとばかりに粉砕する。
(それに……)
もどかしいのは、自身の能力が制限されていること。
この戦い――神級魔法さえ使えていれば。
(アナオロバエルの、畜生が……)
あの魔女のせいで神級魔法を使うための”器官”が閉じてしまった。
黒紫玉の過剰摂取で自らを強化しても、器官は開かなかった。
あるいは、と思う。
器官さえ閉じていなければ。
自分はもっと強力に変化――進化できていたのではないか?
(ことごとく――邪魔でしかない、虫けらども……)
あのセラス・アシュレインにしてもだ。
まさか、あれほどの戦才の持ち主だったとは。
当初は使い回す”褒美”として利用するつもりだった。
誰もが認める稀代の美貌の評判を耳にし、正しい用途はそれだと思った。
当時のヴィシスの認識ではそこまでの強者ではなかったのだ。
そこそこやる、との報告は受けていたが……。
伝わる情報からしてもそんな印象までは受けなかった。
ジョンドゥやルイン・シール。
ウルザの竜殺し。
四恭聖のアギト・アングーン。
そして――バクオスの”人類最強”シビト・ガートランド。
あれらより優れた戦士という印象は持てなかった。
とにかく巷に溢れていたのは美貌の話題。
あの狂美帝やマグナルの宝石たちを凌ぐ美しきエルフだ、と。
なのに……。
どこか恨めしい心持ちで光刃を振るうセラスを見る。
「…………」
知っていれば――洗脳して、側近にしてやったのに。
どころか。
半神化させて天界戦の供にしてもよかった。
ニャンタンなどという半端な雑魚ではなく。
心の中で舌打ちを重ねる。
(ネーアの聖王め……)
あの老いぼれた頑固ジジイが駄々をこねず素直に献上していれば。
聖王は頑として、あのエルフを手元から離そうとしなかった。
よもや――あの枯れた年齢で色に狂ったとでも?
だとしても国を捨ててまで守るほどの女か?
むかついたから、望み通りネーアは滅ぼしてやった。
聞けば亡国後の聖王はすっかり弱り、小さな屋敷に籠もっていたとか。
哀れな虜囚として。
蹂躙される母国や娘を思い、苦しみ続けたのだろう。
死の直前には正気を失っていたそうだ。
ざまぁみろ、である。
私の命令を拒んだりするからだ。
あのブスをおとなしく渡しておけば、まともに死ねたかもしれぬのに。
ヴィシスの目には……今、手中におさめ損なったその姫騎士が映っている。
(……いや)
あの強さ。
私が引き渡しを要求した時点での強さではあるまい。
おそらくミモリがあそこまで戦えるようにしたのだ。
駒として。
ヴィシスは苛ついた。
あのクソ蠅がここに至るまでの道程。
セラスがいなければ、道半ばで死んでいたのでは?
そう、あれほどの前衛が味方にいなければ――
セラス・アシュレインさえ、いなければ。
「…………」
雑魚が。
私は絶対的強者として、駒を使役する。
一方、ミモリ――おまえは雑魚ゆえに他の者を頼るしかない。
おまえは、独立独歩ではない。
一人でも十二分やれてしまう、孤高の圧倒的な強者。
一人では何もできない、小細工だけが取り柄の弱者。
これが私とおまえとの絶対的違いだ――――ミモリ。
「……?」
ヴィシスはここで一つ、気づく。
もう一つ……何か気配がある。
ただ、新しく現れたものではない。
違和感としてずっと意識の隅に滞留していたものだ。
(これは……魔物? あぁ――)
ヲールムガンド戦で使っていた、あのスライムか。
なるほど。
最初に気配を察知した時、三つか二つかで判断しかねた。
しかし一つがあまりに弱かったため、二つと思ったのだ。
(スライムは、あの後期蠅王装の中に潜んでいるわけか……)
が、
”あのスライムが一緒だから中身はミモリである”
単純にそう思い込むのは、危険だ。
……、――いや、そんなことよりだ。
さっきの音でここにやつの仲間――あるいはミモリ本人が集まってくる。
あれはそのための合図で間違いない。
「…………」
ちなみにこの時、ヴィシスの頭に撤退の二文字はなかった。
迷宮が消えたとはいえ王の間の強化術式まで消えたわけではない。
”分身と共に王の間まで撤退し、そこで戦う”
撤退が上手くいくかは未知数なものの戦略としてはアリと思える。
が、ヴィシスはこれを選ぼうとはしなかった。
なぜか?
ヴィシスの感覚では、今、この場を離れたら――
トーカ・ミモリを、取り逃がすかも知れないと思っているからだ。
あの後期蠅王装の中身がミモリだとして。
撤退する自分を素直に追ってくる確証がない。
もし中身がミモリなら、今”すぐそこ”にいるのだ。
これ以上、最大級の”不安要素”を放置しておけない。
耐えられない。
不本意極まりないが、認めよう。
私は、トーカ・ミモリを始末しない限り――
もう、安心しては生きられない。
私の安寧を脅かす要因に、ここで完全決着をつける。
どちらが勝つか。
これは、互いの全存在を賭けた完全決戦……。
「――――勝負だ、ミモリ」
さっきまでいた場所に何か仕掛けられていたとすれば。
移動したから、すでにその危険からは脱している。
待ち伏せなら”その場”に何かを仕掛けているのが常識。
場所が変われば当然、仕掛けは作動しないのが定石である。
ヴィシスは考える。
(さて……ここからどうする? 戦力的にはどうとでもなる、気はするが……)
向こうにはセラス以外まともな戦力が残っていない。
このヴィシス本体以上の戦闘能力を持つ者はいないはずだ。
分身も、このまま時間が経てばセラスを上回る……。
だから、
(純粋な戦力で押し切られる心配はない……問題は、やはり……)
禁呪と、状態異常スキル。
戦闘能力の差を無意味化する二つの要素。
しかし突き詰めれば状態異常スキルの存在だけが致命的なのだ。
万が一禁呪を食らっても、状態異常スキルがないのなら。
十中八九――否、十全に。
女神ヴィシス自身の戦闘能力で、すべてを蹂躙できる。
確かにこの戦いは相手の思惑通りに運んでいるのかもしれない。
だから一見、こちらが追い詰められた不利な状況とも思えるが……
(そう……)
まだ、不利ではない。
ふっ――と、ヴィシスは不意に微笑んだ。
……そうか。
まだ不利ではないと、感覚的にどこかで思っているからこそ。
私は。
この期に及んでまだ、未来を見ていたわけか。
敵に”勝負だ”と突きつけながらも――まだ、明日を見ていた。
しかし私は今……それを、捨てる。
またいちから始めればいい。
やり直せばいい。
このあとの、すべてのことは。
目障りに周囲を飛び回る害虫どもを、
駆除、し切ってからだ。
ヴィシスは服の裏側に手を潜り込ませた。
そして”装置”を――作動させる。
実験が不可能だったため、作動するかは運要素もあった。
が、作動した。
万が一のために、これを作っておいてよかった。
そして、
(……ようやく、理解した)
認めよう。
早めに自ら攻めに転じなかったのは、やはり失敗だった。
敵は小細工で自分を混乱させ、時間稼ぎをするのが目的だった。
つまり途中の読みは当たっていたのだ。
足りなかったのは――決断力。
それから、
(何もかも、おまえの思惑通りに進んでいるように見えるが……)
存外、
おまえも今、薄氷を踏むようなギリギリの状況なのではないか?
私は――決めねばならない。
覚悟を。
今の私に、足りなかったもの。
それは危機に至るかもしれぬ可能性を受け入れる――覚悟。
他の塵芥どもが到着する前に分身に加勢し、始末する。
この際、あの中身がどうかは関係ない。
(こんなにも……こんなにも決意したことは、なかなかありませんねぇ……ふふ……、――面白いッ)
戦略的思考へ割く出力をここで、下げる。
ヴィシスはいよいよ、本格的に戦闘状態を深化させていく。
女神の目が……完全に黒一色へと、染まる。
己の右腕を二股に分かれた禍々しい刃に変形させ――
中庭に敷かれた石畳を力強く、踏み込む。
衝撃で砕けた石畳が弾け、後方に跳ねる。
覚悟と共に――ヴィシスは、跳んだ。
そうだ。
もはやここまできたら。
やってみなくてはわからない。
これで敵が崩れるか――否か。
もしかしたらこの行動が上手くいく可能性だってある。
そう……。
動いてから、決めればいい。
決めるのだ――覚悟を。
ヴィシスの腕刃と相手の武器が、衝突。
「――――――――」
何かが跳んできて。
ヴィシスの進路上に、割り込んだ。
「 い い 加 減 に し ろ よ お ま え は 」
割り込んだその者は、神に対し、実に無礼な言葉を言い放った。
凶気で相手を射殺そうとするみたいな目つきで。
ヴィシスの覚悟へのその闖入者は。
過剰に膨張した殺意をぐちゃぐちゃなまま、でたらめに圧縮したような――
そんな殺気を、充溢させていた。
「……………………馬鹿な」
アヤカ、ソゴウ。
(なぜ……ここにいる? なぜ、ここで出てくる? しかもまるで、人が変わったみたいな……誰だ、おまえは? そしてなんだ――私を見る、その目つきは?)
ギリィッ、と苛立ちで歯を軋ませる。
「この――とことん、目障りな……ガキがぁぁッ……、――――どけ、邪魔だ」
激昂したヴィシスは哮り、刃を振るった。
「今すぐ、そこをどけぇぇぇえええええええええええ――――ッ!」
 




