グッドバイ
「はぁっ――ァ――はっ、あ……ッ!」
綾香は表情をきつく歪め、肩で息をしている。
地面にはヲールムガンドの血が飛び散っていた。
迷宮の白い壁にも。
しかし――
数メートル先に立つヲールムガンドの傷は、塞がっている。
「浴びた」
不意に、黙っていた白き神徒が口を開いた。
「ヒトの可能性ってやつを……心ゆくほど、浴びることができた……」
すぅ、と。
ヲールムガンドが腕を上げ、綾香を指差す。
「礼を言う、異界の勇者」
綾香は荒い息を繰り返している。
(集中力がもう……さすがに、切れて……)
もうあの音が――聴こえない。
それでも十河綾香は。
構えを、取る。
(まだ……私は、やれる……)
「心意気は買うが、さすがにもう限界だろ。やめときな。ゲラララ……かくいうオラァの方も、再生の容量をかなり使わされちまったが」
そこで何か気づいた風に、ヲールムガンドが低く笑う。
「クク……つーかよぉ。今、マジに重大な事実に気づいたんだが……」
ヲールムガンドが指先で額を、とんとん、と叩いた。
「オラァはおめぇさん――つまりアヤカ・ソゴウを”無力化しろ”と命じられちゃいるが……よく考えりゃ”殺せ”とは、命じられてねぇんだよなぁ」
「?」
「ヴィシスの望みはおめぇさんの無力化なわけで……つまり、オラァは別におめぇさんを殺さなくてもいい。要は、足止めできてりゃあ”命令通り”ってことになる……、――グッ……オ、ゲェエエエエッ!」
「……ッ!?」
嘔吐した。
ヲールムガンドが。
一瞬、綾香はこれを好機と考え攻撃に移ろうとする。
しかしあの音が聴けない今の状態では――無理。
確かな感覚が、そう告げた。
「…………」
だから綾香は、
ヲールムガンドが地面に吐き出した”それ”を見ることしか、できなかった。
何か……。
丸めた肉の、かたまりのような。
口もとを腕で拭いながらヲールムガンドが、
「こいつは圧縮して腹ん中に置いといた合成聖体ってやつなんだが……おめぇさんと戦う時に必要なら使えとヴィシスから言われてた。ただまあ……悪趣味な代物だからな。オラァも”そいつ”の背景はそれなりに想像できる。だからそいつを使うのはあんまり気が進まなかったんだが……どーもヴィシスの因子がやかましくなってきててな……殺せ、と強く命じてくる。ただ……おめぇさんを殺すのも、どーも気が進まねぇ」
綾香は。
ヲールムガンドの言葉がどこか、遠くに聞こえていた。
「だからオラァはここでおさらばして、別のやつを殺しに行くことにする」
「…………」
ヲールムガンドは身を翻し、
「じゃあな」
部屋から、姿を消した。
綾香は反射的に追おうとする。
自然と、そのように身体が動いた。
けれど……立ち塞がる”それ”に。
止めてしまった。
足を。
肉のかたまりが、開いていた。
そして……立ち上がっていた。
それは。
人の形を取ってはいるけれど。
均整とはおよそかけ離れたフォルムをしている。
たとえば一度ぐちゃぐちゃに解体された、いくつかの人体。
それらをでたらめに繋ぎ合わせ、さらに、異形へと変異させたかのような。
腕が、三本。
申し訳程度の装飾品や衣服を身につけている。
顔の半分には皮がなかった。
腐りかけの肉が剥き出しになっている。
表面には、蛆虫が湧いていた。
けれど。
残り半分の顔には。
見覚えが、あって。
確かに――あって。
でも、と思った。
「でも……そんな……なん、で……そんな……どう、して……ッ」
”魔防の白城戦で重傷を負ったのち、女神の治療を受けて故郷へ戻った”
そう、聞いていた。
聞いて、いたのに。
「ァ――」
残る半分の顔はやっぱり――知っていて。
それは異形の姿と化した、
「アギトさんッ!」
四恭聖、アギト・アングーンだった。
▽
「い、意識……」
綾香は狼狽に支配されながらも、声をかける。
「意識はあるんですかアギトさん!? 綾香です! 私……アヤカ・ソゴウですッ! ……アギトさんッ!」
「ゥ……ア゛……ウ……」
アギトの口の端から、よだれのような液体が垂れている。
剥き開かれた目は焦点が合っていない。
言葉が届いているとは、思えない。
「アギト……さ、ん……」
いや……。
アギトだけではない。
見覚えがある。
見覚えて、しまっている。
右肩から生えているあれは多分――アビス・アングーンの腕。
左肩に張り付いているあの顔の上半分は、次男のブラウン。
そして背面から伸びる触手の先にぶら下がっている、あの眼窩のない頭部は――
「ホワイト、さん……」
他にも見覚えのある四恭聖の装束や装飾品。
それらが不格好に、縫い込まれたようになっていて。
死者への敬意などない。
微塵も。
あんなものはもう……冒涜。
死者への冒涜でしか、ない。
魔防の白城戦のあとに回収されたらしい四恭聖の死骸を、
「あんな、風に……ッ」
涙が、溢れてくる。
なんて――――ひどい。
ひどすぎる。
あの人たちは、戦ってくれたのに。
みんなのために。
私たち勇者を鍛えるために。
呼びかけに応えて、来てくれたのに。
この世界を守るために。
女神の呼びかけに、応えて――
「!」
アギト――アギトだったものが、攻撃を仕掛けてきた。
右肘から右手にかけてが刃状になっている。
それを、綾香目がけて振るってきた。
綾香は固有剣でそれを防ぐ。
「…………っ」
強い。
膂力もスピードも、しっかりある。
けれど――防げる。
防げて、しまう。
ヲールムガンドと比べたらなんてことはない。
なんてことは、ないのに。
(私は……)
もうこんなに、戦えない。
あの時。
ヴィシスに治療を任せたのが、間違いだったのか。
私の――ミスだったのか。
あそこでヴィシスを信頼したのは――
……間違いだったのだ。
涙を流す綾香の顔が、後悔に歪む。
アギトの攻撃を打ち払いながら、しばらく一方的な攻防が続いた。
アギトが攻撃をひたすらに繰り出して。
綾香がその攻撃を、ひたすらに受け流す。
攻防の間、綾香は呼びかけを続けた。
けれど――求める反応はない。
どうしたらいいのか、わからない。
だから。
綾香はもう一度、呼びかけた。
「アギトさん! アギトさん私です! お願い……アギトさん! やめてください! やめて……」
殺せる――と思う。
殺せる。
殺せる、けれど……。
まだお礼も、言えていないのに。
魔防の白城戦の時。
クラスメイトのみんなを守るために人面種を引き受けてくれた。
私は。
そんな人を、斬れるの――だろうか?
「――――ッ」
違う……ッ!
ここで私が自分の手で終わらせることが。
アギトさんへの――きっと。
送る、ことが。
きっとッ!
「うっ……うぅ……」
なのに――手が、動かない。
動いて、くれない。
一縷の望み。
この戦いが終わった時。
もしかしたら。
神族のロキエラさんなら。
戻す方法を――知っているんじゃないか、とか。
希望を……。
希望を、持ってしまう。
ここで殺してしまったら、もう……。
その可能性すらも、失って――
――ヒュッ――
「……ぁ」
アギトの刃が、綾香の頬をかすめた。
薄皮がミリ単位で裂け、血が細い線となって肌に滲む。
通常なら回避できない攻撃ではない。
でもこれは――通常じゃない。
こんなの。
……無力化、と言っていた。
確かに自分を無力化するには――まったく、効果的。
(無力化……)
ふと。
アギトの攻撃が迫る中、綾香の中に”解決策”が生まれた。
そうだ。
無力化できればいいのだ。
「この決戦が終わるまでどうにか、う、動けない状態にできれば――、……?」
その時だった。
ピタッ、と。
アギトの攻撃が、止まった。
「え?」
「……ャカ」
今。
なんて――
「アヤ、カ」
「!」
アギトの目の焦点が、戻って――
「ア、アギトさん!?」
「う……りょ、領域を……自分の意識、を……ほんの少し残して、ね……少しの間だけ……しゃべれるよう、に……」
綾香は急いで駆け寄ろうとする。
しかし、アギトが止めた。
「だめだ……今は僕の意思で、どうにか動きを止められてるけど……意思に反して攻撃するかもしれない……だから、そのまま……で……」
「アギトさん……わた、し……」
ふっ、と。
アギトは原型を残した顔の半分で、微笑んだ。
「強く……なったね……わかる、よ……」
「アギトさんたちが……み――導いてくれた、から……っ」
涙が、止まらない。
綾香は涙を拭うこともせず、謝罪した。
「ごめん――ごめん、なさい! 私があの戦いのあと……ちゃんとアギトさんのこと……ヴィシスに任せずっ……確認して、たら……こん、な――ことには……ッ」
「ふ……相変わらず……真面目、だねぇ……ほんと……真面目な、子だ……」
「ま、待ってて――ください! ア、アギトさんを一時的に、動けなくするかもしれませんがっ……この決戦が終わったら、きっと――」
「そして……優しいんだな、相変わらず。ブラウンがね……少し、危惧してたよ……危ういほどだ、って……」
微笑んだまま。
アギトが、首を振ったように見えた。
「多分ヴィシスが死んだ時、僕も……消滅、する……」
「そ、それは絶対そうなるわけじゃ……必ず、何か方法が――」
「それにね、アヤカ」
綾香の言葉を優しい調子で、遮って。
ちょっと寂しそうに。
アギトはまた、別種の微笑を浮かべた。
「もうこの世界に――僕のきょうだいたちは、いない」
「あ――」
だから、とアギトは続ける。
「みんなの……アビス、ブラウン、ホワイトのところに……僕も、送ってくれないか? あいつらの忘れ物と、一緒に……」
忘れ物。
多分、アギトに合成されたアビスたちの”断片”のこと。
「もう少し、しゃべりたいところだけど……時間が、ない。もうね、意識が……薄れてきてて……ね……自我を……保てるのも……きっとあと、少し……」
どこか申し訳なさそうに、アギトは綾香に笑いかけた。
「ごめんね……こんな役を……押しつけて、しまって……好きじゃないだろ、君は……殺しは……」
「う……うぅぅ……」
綾香は目をつむり、ぎゅっ、と固有剣の柄を握りしめた。
耐えるように。
涙が――止まらなくて。
「これ、だけ……」
言わせてほしい、と。
涙ながらに綾香は、
「ア……アギトさんがみんなを……室田さんたちを守って、くれたから……ほとんどのクラスメイトが無事、合流できて……ありがどう、ござい……まず……ぐすっ……う……うぅぅう……ッ!」
よかった、とアギトは言った。
「無事、だったんだね……そして……ここにいるってことは……あの戦いは……勝ったわけ、か……よかった……実は、意識がずっと戻らなくて……意識がおぼろげに戻ったのは……この姿に”製造”されてる時、だったから……あのあとのこと……わから、なくて……」
「うぅぅ……ごめん、なさ、い゛……わた、し――」
「アヤカ」
包み込むように、アギトは言った。
「もしそう思ってくれるのなら――最後に”ありがとう”と……言わせて、ほしい」
「!」
殺してくれ、と。
そう、頼んでいるのだ。
アギトは。
「……………、――は、いッ」
綾香は――固有剣を、構える。
「切り刻み続ければ……死ぬ、はず……再生能力も……追いつかない、ほど……に……」
「……アギトさん」
「うん」
アギトさん――――四恭聖の皆さん。
さよう、なら。
――――ヒュッ――――
空を奔る刃音が、鳴って。
無数の空を切り裂く音が、乱舞する。
綾香は、アギトを細切れにした。
何度も――何度も。
涙を、宙に舞わせながら。
斬った。
斬り刻んだ。
アギトが言ったように。
何度も……何度も。
「――――――――」
浴びせ続けられる攻撃の中で、アギトが言った。
とても、優しく笑って――
” ありがとう ”
と。
「……………………」
ある時――もう、アギトの肉片が再生を行っていないことに気づく。
溶け……消滅、してゆく。
そうしてすべてが、終わったあと。
部屋の中には――最強と呼ばれた勇者の慟哭が、響き渡った。
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