別れ、夕闇
前回更新から大分間が空いてしまい、申し訳ございません。
活動報告にも書きましたが、原因不明の頭痛で倒れてしまい療養しておりました。
お医者様に処方していただいた薬を服用してしばらく休んでいたおかげか、まだたまに深夜に頭痛で目が覚めるものの(目が覚めても頭痛薬が効けばまた眠れるので、そこは大丈夫そうです)、今は普通に執筆できる程度には回復しております。
とりあえず元々の予定の隔週更新を目標にと考えていますが、次話は早めにひと区切りつけたいので(まだ一文字も書いていませんが……)、ひとまず次話については8月30日(水)21:00頃、無理そうなら9月1日(金)21:00頃の更新を考えております。
休んでいる時”健康の問題で執筆ができないのはそれはそれでしんどいなぁ”と強く感じたので、書けるうちに書けるものは書いておきたいと思います。
そういった状態ですが、ともあれ終章第二節スタートでございます。
お楽しみいただけましたら、幸いでございます。
◇【安智弘】◇
途中、立ち寄った小さな村。
といっても元々の村民の姿はない。
廃れ具合からして少なくとも半年は人が住みついていない。
安智弘が身を寄せる北のヨナト公国を目指す一行。
彼らは廃村で休息を取っていた。
一行はまだミラ帝国の領内にいた。
が、ようやくヨナトとの国境が近づいてきている。
廃村には安たちの他にも十数名の旅人たちが集まっていた。
彼らによると、
”北へ向かう街道に金眼の魔物が集まっている”
彼らはそれで一度、引き返してきたのだという。
つまり足止めを食らっている状態である。
そんな中でのことだった――
旅人の中の数名から、十河綾香の話が入ってきたのは。
優勢だったミラ軍の戦況を一変させたアライオンの勇者。
たった一人で戦局をがらりと変えてしまった女勇者。
アヤカ・ソゴウ。
旅人の一人はウルザで繰り広げられた戦いについて話した。
相手がミラ帝国なら勇者率いる軍はそのまま西へ向かうかもしれない。
安の目的の一つは綾香に会う――謝ること。
今は北回りでヨナト、マグナル、アライオンのルートをとる予定だ。
これは、綾香たちが北のマグナルへ向かっていると思っていたから。
しかし肝心の綾香は、今は出発地点だったミラ方面にいるらしい。
当初の予定ルートをとると、会えるのは相当先の話になってしまいかねない。
悩んだ末――安は、引き返すことにした。
▽
馬車をとめてある村の外れで、安はリンジに声をかけた。
一行のまとめ役である彼に事情を多少ぼかして話す。
「ふーむ、なるほどなぁ。尋ね人がミラの方にいるのがわかった、か」
「すみません……」
バシッ!
リンジに背中を叩かれる。
「おいおい、なんで謝んだよっ。尋ね人の居場所がわかってよかったじゃねぇか。よし、あんたとの旅はここまでだな――おい」
リンジが呼びかけると彼の仲間のオウルが頷き、場を離れた。
ほどなく、オウルは馬を引いて戻ってきた。
鞍が載せてある。
他に、手綱や足掛けが少し普通と違っているのがわかった。
「兄ちゃん、片手が不自由なんだろ?」
リンジが腕組みし、指で馬の方を示す。
「ちょいと手を加えて、片手でも操りやすくしてみた。あれなら片手しか使えなくてもそれなりに操れるはずだ。乗馬する時も、けっこうやりやすいはずだぜ。兄ちゃん、馬には乗れるんだろ?」
「あ――」
「気にしなくていいさ。まーこういうこともあるだろうと思って、馬は最初から二頭ほど余裕をもたせてあったからな」
「ですけど……」
声を潜めるリンジ。
「いや、あの馬は白人間が攻めてきた時のどさくさで拾ったモンだからよ……実は、元手はかかってねぇんだ。これ、秘密な?」
リンジがウインクする。
「――――」
タダで馬を貰うことへの躊躇いもあった。
でも――違う。
この感情はまた、違う。
「ありがとう……ございます」
自分は、こっちの事情でこの一行から離れる。
そんな自分のために。
馬を用意してくれた。
それだけじゃない。
片手でも乗りやすいよう、気を遣ってくれた。
安の戸惑い。
理由の大半は、この溢れんばかりの気遣いへのものだった。
どうして。
どうして――自分なんかのために。
「おにいちゃん、行っちゃうの?」
おずおずと近づいてきたのは、ユーリだった。
馬車の中でパンをもらって以来、なんだか懐かれてしまった。
ユーリの肩に母親が優しく手を置き、
「おにいちゃんの大事な人が、ミラにいるのがわかったんですって」
「だいじな人?」
くりっとした目で、無邪気に見上げてくるユーリ。
(……大事な人、か)
安は苦笑し、
「そうだね……僕にとっては大事な人、だと思う……」
ユーリは、
「そっか」
言って、母親を見上げる。
彼女は母親と何かを確認するように、目を合わせる。
そうして自分の中で何か納得したみたいに、
「じゃ、仕方ないね」
頷いた。
そして――とてとて、と。
ユーリが近づいてきて、両手を伸ばしてくる。
「おにいちゃん」
彼女はつま先立ちになっていた。
何を求めているかがわかった。
安は、小さな両手を優しく握った。
「短い間だったけど……ユーリちゃんと一緒に旅ができてよかった。ありがとう」
ひひっ、と。
健康的な白い歯を剥き、ユーリは笑顔を浮かべた。
「ゆーりも、ありがとっ、です。ありがと、ありがと」
見ると、他の人たちもほとんど馬車の外に出てきていた。
皆、優しい顔をしている。
まあ、純真なユーリの微笑ましさによるあの表情なのだろうけれど。
が、安が一行を離れることへのネガティブな空気はなかった。
むしろ心配や気遣いが窺える。
それは。
優しさ。
いずれにせよ――救われた。
そう、思えた。
よかった。
出会えたのが、この人たちで。
安は数秒、目を閉じる。
胸に芽生えたその感情を噛みしめるように。
(この人たちに出会えて、よかった……)
ユーリの母親が微笑み、
「お話はうかがいました。どうか、お気をつけて。あと……ユーリと遊んでくれて、ありがとうございました」
「あ……いえ。こちらこそ、ありがとうございました」
感謝の言葉を返す。
真っ直ぐ。
目を逸らさず。
できた、と思った。
――できる。
次いで安は全員に向かって、
「ありがとうございました、皆さん」
深々と、一礼した。
こうして――安智弘は十河綾香に会うため、南へ引き返すことにした。
◇【夕闇――――闇刻の中で】◇
ヨナトを目指すリンジら一行は、廃村を離れた。
廃村に、北のヨナトから来たという旅人たちが訪れたのがきっかけとなった。
彼らは白人間の騒ぎを聞きつけ、逆に、ミラに住む親族が心配で来たそうだ。
”少し西に行ったところに林道がある。そこを通ってきた”
彼らはそう話した。
馬車が通れるくらいの道幅は十分あるという。
ただし当然ながら街道のように整備は行き届いていない。
ゆえに、道の状態はそこまでよくない。
が、これなら北の街道に集まった金眼を避けてヨナトへ行ける。
この廃村でモタモタしているのも危ないかもしれない。
街道で群れている金眼がこっちへ来る可能性だってある。
南のミラ方面へ引き返すか。
このまま北のヨナトを目指すか。
すると、また別の旅人たちが村を訪れた。
街道に集った金眼の一部が南へ移動を始めている。
そいつらを避けて引き返した結果、この村に辿り着いたという。
南へ向かえば、その”一部”と鉢合わせするかもしれない。
”あの別れた若者が巻き込まれていなければいいが”
リンジらはそう懸念を口にした。
しかしこちらものんびりしてはいられない。
リンジら一行は話し合いの結果、予定通りヨナトへ向かうことにした。
また、足止めを食らっていた他の旅人も同行することになった。
旅人たちの中にも傭兵が少しいたため、結果として戦力の補強にもなった。
こうして一行は、話に聞いた林道に入った。
道は想像よりは悪路ではなさそうだ。
背の高い樹木が密生している。
薄い葉が枝に連なっていた。
折り重なる葉の隙間から漏れ出る細々とした陽光。
思ったより周囲の視界は悪い。
とはいえ、森ほどの深さはない。
ただ、背の高い茂みが多いのはある種の圧迫感を生んでいる。
しかし逆の考え方もある。
この茂みも、林の外側から自分たちの姿を隠す意味ではいいかもしれない。
――夕刻が、近づいてきていた――
闇。
ひたひたと。
夕闇の足音が、聞こえてくるような時刻。
静けさに包まれている。
鳥の声もなく。
風も、吹いていない。
この長い林道を抜けて一日半も行けば、いよいよヨナト領に入る。
皆、願った。
”どうかこの旅路が、無事に終わりますように”
▽
決死の様相で速度を上げた二台の馬車が、林道を走る。
時おり車輪が出っ張りに乗り上げ、嫌な角度で跳ねた。
跳ねるたびユーリは怖がり、目をきつく瞑って母親にしがみつく。
馬車は、激しく速度を上げていた。
まるで心臓に無理をさせて走ってでもいるかのように。
数刻前――
『行け! おれたちは、あとで追いつく!』
リンジら数名の傭兵はそう言って、馬車を先に行かせた。
少し前、彼らは金眼の襲撃を受けた。
どうやら林道の茂みの中で金眼たちが息を潜めていたらしい。
入る前はまったく気づかなかった。
気配を消し、獲物が来るのをジッと待っていたのだろう。
”金眼の群れは林道から離れた東の街道の方に集まっている”
こう聞いていた。
事実、ヨナトから来た者たちは無事にミラへ辿り着いている。
ならば林道の方は安全なはず。
しかし――ヨナトから来た者たちの話は半日以上前のものだった。
リンジらは半日かけてこの林道に辿り着いた。
ヨナトから来た者たちが無事ミラへ抜けてから、約一日という時が経過している。
”その間に街道方面にいた金眼の一部がこちらへ来てしまった”
これが、考えられる現実であった。
迫る金眼たち。
足が速い。
馬車の速度では逃げ切れない。
リンジは、
『こっちに金眼どもを引きつける――大丈夫だ。あのくらいならおれたちでやれるはずだ。しかし、馬車を守りながらじゃちと厳しい』
安心しろ、とリンジは言った。
『必ず、戻る』
彼の妻と子は決意を汲み、涙を堪えて夫とその仲間を送り出した。
リンジらは元々名のある傭兵団に属していた者たち。
その傭兵団の中でも特に手練れだった男たちである。
年齢的に全盛期は過ぎているが、相当に腕は立つ。
大丈夫。
きっと。
先を行く二台の馬車の方には四人、戦える者が残った。
小さな石つぶてを弾き、馬車が連なり、疾走を続け――
ドガァッ!
「きゃあぁぁああああ――――ッ!」
前を走っていた馬車が、横転。
続き、衝突音。
後続の馬車が、横転した前の馬車に追突したのだ。
横転した馬車はその衝撃で側面と上部が一部破損してしまった。
破損した箇所から数名が外へ投げ出される。
外に放り出された出た者の中にはユーリと、その母親もいた。
「大丈夫、ユーリっ!?」
「……ぅん」
膝をつく母親に、へたり込むユーリが小さく答える。
動揺のせいか、ユーリはまだ状況が掴めていないようだ。
傭兵が、慌てて様子を確認しに来る。
「大丈夫か!? あ――車輪が……」
傭兵の視線が”それ”を捉えた。
そばに転がっていたのは――人の頭部の三倍はあろうかという岩。
おそらく横合いから投げ込まれたのだ。
この岩が車輪を破壊し、均衡を失った前方の馬車が横転したのである。
大きめな、葉擦れの音。
「!」
茂みから現れたのは、灰色の体毛に覆われた人型の魔物だった。
耳が巨大に発達した猿――そんな印象。
筋肉質で巨躯。
体長は馬車より少し高いくらいか。
巨大耳の猿が、ボリボリと灰色の胸を掻く。
金眼。
「オぼゥあ」
「ひ、ぃ――」
猿の首もとから肉厚の胸にかけて。
人の頭蓋骨が、垂れている。
どうやら首飾りの装飾らしい。
猿は耳輪もしていた。
その耳輪に飾りのごとく連なっているもの、それは――
おそらく、干からびた人間の舌。
馬車から投げ出されたユーリたちを認めた猿の金眼が、
ニヤリ、と。
弧を――描く。
「あぁ、ぁ……」
地面に投げ出された老婆がガタガタ震え、顔面蒼白になっている。
すでに剣を構えていた傭兵の一人が素早く、その猿と相対した。
「この野郎、待ち伏せしてやがったのか……このっ――――、……うっ!?」
……ガサガサ……ガササ……
葉擦れの音が、立て続けに鳴って。
茂みから、ぞろぞろと別の金眼猿が姿を現す。
傭兵は状況を把握すべく素早く視線を巡らせ、
「数は……四……六……、――いける!」
剣を構えた傭兵が、他の傭兵に呼びかけ指示を出す。
一人が魔術杖を手に、横転していない方の馬車の上に飛び乗った。
他の者は、馬車を守るように展開する。
「みんなは倒れた馬車を背にして、集まってくれ!」
慌てて集合する一行の者たち。
彼らは傭兵たちを信頼していた。
足が竦んでいる者もいたが、他の者の手を借りてなんとか集まる。
傭兵が剣を構える。
彼と相対する金眼猿は石斧を手にしていた。
猿は、へらへら笑っている。
見くびった顔をしていた。
「舐めるなよ……おれたちがこっちを任された理由を、教えてやる」
足捌きに騙しを入れつつ、機を測り素早く踏み込む傭兵。
金眼猿へ肉薄。
脳天から勢いよく石斧を振り下ろす金眼猿。
傭兵は石斧を危なげなく躱す。
金眼猿が、
”おや?”
という顔をした。
傭兵は回避の姿勢のまま同時に剣を振る。
狙うは――石斧を振り下ろし、やや下がった首筋。
「ぎャ!」
刃が奔り、金眼猿が首筋から出血した。
血が宙に細い弧を描く。
「おぉ! さすがはモイル!」
馬車の上の傭兵が喝采を送った。
その傭兵は、魔術杖から攻撃術式を放つ。
「ぎェ!」
別の金眼猿の肩に攻撃術式が直撃。
躱す方向を先読みし、見事、攻撃術式を当てた。
モイルはとどめの機をうかがいつつ、構えを取り直す。
「冷静に対応すれば、いける……ふぅぅぅ……」
呼吸を整え、集中力を高めるモイル。
事実、冷静に相手の動きを見れば対応できそうだった。
体格差も絶望的なほどではない。
「ぎギぎ、ギ……」
出血した首筋に手をあてる金眼猿。
こめかみに血管を浮かべ、モイルを睨みつけてくる。
そして――
「ぎィぃヤゃァあアあアあア――――ッ!」
猿が、吠えた。
金切り声にも似た雄叫び。
ビリビリと、肌を打つような感覚。
すると……茂みのあちこちから、
葉擦れの合奏が、近づいてきた。
動けぬ馬車を――取り囲むように。
瞠目するモイル。
「なっ……」
「ひっ」
馬車を背に集まった人たちの中から短い悲鳴が上がった。
恐怖で色づけされた声。
金眼猿が、増えた。
数は――30近い。
しかも、
「う」
ひときわ巨大な大猿が、いる。
寝ぼけまなこ。
多分、横になって眠っていたのだ。
立つと、最も高い木のてっぺんに近いくらいある。
大猿の背後では、たくさんの葉がヒラヒラと宙を舞っていた。
ブンッ!
「あ――ぐぁ!?」
大猿が投げた人の頭部ほどの石。
それが、馬車の上にいた傭兵を直撃した。
濁ったうめき声をあげ、傭兵が地面に落下する。
落下を待ちかねていたように二匹の金眼猿が群がった。
恐怖に満ちた吐血まじりの悲鳴が上がる。
モイルがそちらへ駆けつけようとした時――
ぞくり、と。
背筋から後頭部まで一筋の寒気が奔った。
振るわれた筋肉質な腕に――モイルが、吹き飛ばされる。
速い。
振り返りざまの防御も、間に合わなかった。
視界の端には他とは違う黒い体毛を持つ金眼猿がいた。
今、この猿の攻撃でやられたのをモイルは理解した。
強い。
その黒猿の傍らには先ほど首筋を斬りつけた猿がいて、こちらを見ている。
ニヤニヤして、モイルを見ていた。
「ギぎギぎ♪」
ざまぁみろ――そんな目で。
吹き飛ばされ馬車に衝突したモイルは、立ち上がろうとする。
ガクガクと震える膝。
今の衝撃の影響で膝にきている。
しかし震える膝を叩き、モイルは立ち上がろうとする。
と、モイルの前に立ちはだかる――首をおさえた金眼猿。
猿は夕日を背に受け、逆光気味になっていた。
出血はもう、止まっているように見える。
その手には――石斧。
すかさず、石斧の、一撃。
「ぐ、ぅあ!?」
「ギぎ♪」
「ひっ――」
猿の腕が体勢を崩したモイルの腕を掴み――
自分の方へ、引きずり込んだ。
「うわぁぁあ――――ッ」
「ぁ――モイルさん! だ、誰か!」
▽
モイルの叫び声は次第に、嗚咽へと変わっていった。
彼の腕は、見るも無惨な状態になっていた。
金眼猿の首筋を斬った剣を手にしていた方の腕……。
その腕は今や、石斧でぐしゃぐしゃにされてしまっていた。
徹底的に、粉砕された。
最初は激しい悲鳴を上げていたモイルも、今は力ない表情になっている。
不満そうな猿がふにゃふにゃの腕を両手で引っ張った。
モイルが、なりふり構わぬ悲鳴を上げる。
猿が満足そうに、きゃっきゃと嗤った。
一方――
「ぎゃぁぁあああああ!」
馬車上にいた傭兵が、耳を引きちぎられた。
人間の誰かが悲鳴を上げるたび、猿たちは頭上で両手を叩いた。
歓喜の拍手。
他の傭兵もねじ伏せられ、生きる玩具になっていた。
生かさず、殺さず――弄ばれている。
馬車の方に集まっていた者たちは、動けずにいた。
本当はこんな場所から今すぐにでも逃げ出したい。
けれど囲まれていて、身動きが取れない。
彼らは項垂れ、また、一時的に恐怖を和らげるように抱き合うしかない。
腕に覚えのある戦士たちでああならば、自分たちにはなすすべなどない。
一斉に逃げても逃げ切れるとは思えない。
もし。
一縷の望みがあるとすれば。
リンジたちが、追いついてくれること。
彼らに残された希望は、リンジたちだった。
リンジたちは、強い。
戦っていた金眼たちを片づけ、すぐに追いついて助けてくれる。
きっと。
そう。
きっと、リンジたちなら。
しかし――
「……あ」
暇を持て余していた他の猿たちの興味。
それが、いよいよ”彼ら”に向いた。
その時だった。
ユーリと、猿の目が合った。
「ひっ――うぇぇえええ……」
ユーリの泣き顔が、さらに強くゆがむ。
母親はユーリを自らの胸の内に抱き締め、猿の方を確かめた。
「…………」
母親は。
腰の袋に入った短剣に、手を、のばす。
鞘から刃を出し……
柄を、握り締める。
血の気が引いていく思いがした。
手に力が……入らない。
指が、震えているのがわかる。
震えを抑えるように、彼女は、必死に柄を握り込んだ。
怖い。
けれど。
この子を――ユーリを、守らなくては。
救わなくては。
殺して、あげなければ。
この手で。
理解、できている。
あの金眼たちは、生きたまま人間を痛めつける。
楽しいのだ、それが。
ならばいっそ――長く苦しみを味わい続けるよりは。
ひと思いに。
この子を、逝かせてあげるべきではないか。
できれば。
そのあとすぐに自分も……間に合えば。
わんわん泣きじゃくり、母親の胸に顔をうずめるユーリ。
「怖いよぅおかーさぁぁん……っ」
「……大丈夫――大丈夫よ、ユーリ……」
母親は柄を一度離し、優しくユーリの両肩に手をやった。
ゆっくりと、自分の胸もとからユーリを離していく。
互いの顔が、よく見えるように。
「おか――ぁ……さ」
「いつも、言ってるでしょう? ね?」
「え?」
「怖い時は、誰の顔を見ればよかった?」
「……ぐす。いつ、もの?」
「そう、いつものよ」
笑顔の、
「笑顔の、魔法」
「あ――」
「ね? おかあさん、笑ってるでしょ?」
「…………うん」
「だからユーリも笑顔で……ね? そう――」
大丈夫だから。
「大丈夫だから」
大丈夫。
「大丈夫」
怖くない。
「怖くない」
怖くないのよ、ユーリ。
「怖くないのよ、ユーリ」
笑顔を、崩しちゃだめだ。
絶対に。
どんなに、怖くても。
苦しくても。
この魔法を、解いてはだめ。
最後まで。
この子のために。
足音が、迫る。
金眼の魔物が、近づいてこようと、している。
怖い。
怖いよ。
とても、怖い。
でも。
やらないと。
やらなくちゃ。
母親は再び、懐の袋に、手を入れる。
逆手に――短刀の柄を、握り込む。
苦しませないように。
一度で。
確実に。
さようなら、ユーリ。
そして……ごめんなさい、ユーリ。
――ごめんね。
「ユーリ、大丈夫よ……大丈夫。ちゃんとお母さんだけを、見ていてね?」
失敗は、許されない。
「……おかーさん?」
「ん? どうしたの?」
「魔法……」
「ふふ。そう、魔法よ?」
「……でも」
「ん?」
「どおして……?」
「え?」
くしゃりと。
ユーリの顔が、ゆがんで。
その目尻に、涙が、溢れ出した。
「どおしておかーさん、泣いてるのぉぉおおお……ッ」
「――【剣眼ノ、黒炎】――」
暗黒の炎が。
夕闇を、切り裂いた。
▽
「ギぃィぇェえエえエえエえ――――ッ!?」
背の向こうで何かが燃え盛っている。
馬のいななきが迫り、そして、飛び込んできた。
横転した馬車の前に馬が来て、何かが飛び降り――着地する。
母親はようやく、そちらを見た。
「あな、たは……」
猿と自分たちの間に、割り込むようにして――――
黒い炎に上半身を包まれもだえ苦しむ猿の前に、立ちはだかるようにして。
廃村で一度別れたはずの彼が、
そこに、立っていた。
黒い火柱が上がり、さらには列を為し――馬車を取り囲んでいく。
「この人たち、に――これ以上……手は出させ、ない……」
振り絞ったような声。
わずかながら、震えがある気がした。
けれど――
決意と覚悟に満ちた声。
「指の一本も……触れ、させないッ……」
どこからともなく、黒炎が発生。
漆黒の炎が。
大蛇のように、彼の腕にまとわりついている。
彼が腕を振る。
まるで、見えない何かを振り払うかのように。
――ボォオゥッ――
黒炎が腕の動きに追従し――波を、描く。
「ただの、一本もだ……ッ」




