カトレア・シュトラミウス
◇【カトレア・シュトラミウス】◇
カトレア・シュトラミウスは、幕舎で書状を開いた。
先ほどミラからの使者が持参したものである。
カトレアは書状を見ながらくすくす微笑んでいた。
今、幕舎内は人払いしている。
カトレアの他には現聖騎士団長のマキア・ルノーフィアのみ。
幕舎の出入り口あたりで報告を受けていたマキアが戻ってきて、
「女王陛下、ご報告が」
「ですから二人の時はカトレアでいいと言っているでしょうに。女王陛下呼びは堅苦しくて、血の巡りが悪くなりそうですわ。地位が変わろうと、人間の中身は変わりませんのに」
「あ、はい……カトレア様」
「よろしい。さて、何か新たな動きが?」
「いえ……アヤカ・ソゴウが戻ってくる様子は、まだないようです」
「ふむ。期限が迫っておりますわね」
アヤカの指定した期限。
期限までは進軍を停止せよ、となっている。
「アヤカさんを抜いたこの混成軍がどこまでやれるかは頭を悩ませるところですが――まあ、いいですわ」
「と、言いますと?」
「近くにお寄りなさい」
カトレアが手招きし、そのまま書状を指差す。
マキアは「失礼いたします」と断り、文面を覗き込んだ。
「何が書いてあるか、貴方の口からお聞かせて願っても?」
「? 降伏を切々と促す文章……のように、読めますが」
あっ、とマキア。
「セラス様の筆跡」
ほほほ、と微笑するカトレア。
「そうですわ。ところでこの文字、セラスの筆跡なのは間違いないですけど……文字に妙な癖があると思いませんこと?」
「言われてみれば……」
そう。
文字の線が一部膨らんでいたり。
妙な”ハネ”があったり。
「これは”文字拾い”と言いますの」
「文字拾い?」
「この特徴のついた文字を拾っていくと、別の文章が浮かび上がってくるというちょっとした暗号的お遊びですわ。セラスも、よく覚えていたこと」
筆跡のみならず。
これを使っているのなら。
セラスが書いたもので、間違いあるまい。
「つまり、セラス様がカトレア様に降伏を促す文章ではないと?」
「ええ。何か、書くものを」
別の紙に”拾った文字”を記載していく……。
次第にカトレアの表情から遊び心が消えていった。
ペン先を紙上で止めたまま、
「わたくしが捕まってネーア軍が撤退する案は、破棄かもしれませんわね」
「カトレア様が――捕まる、ですかっ?」
マキアが驚く。
その案を知るのはカトレアとセラスの二人のみ。
いや、セラスならあの蠅王には明かしたかもしれない。
カトレアはペンを置き、椅子の背もたれに座り直した。
「ふふ……セラスにも、信用されたものですわねぇ」
「…………」
「あの子は、わたくしが裏切るなどとは夢にも思っていない」
カトレアは自分の揃えた膝に視線を落とし、
「セラスは……どこまでも根が純粋ですわ。そして――」
共に姉妹のように育ったハイエルフの元姫君。
あの極めて優れた美貌に人の目は向きがちである。
しかし彼女の最大の美点は、あの純粋さにある。
出会った頃からセラスは純粋で、とても真っ直ぐだった。
逆に。
自分は純粋さを失い、卑劣さを獲得していった。
けれどそれが自分の武器。
カトレアはそう思っている。
ネーアの聖王の娘として必要な資質だろう、とも。
事実、宮廷内が不穏であった時もこの資質は役に立った。
セラスにも裏世界の作法などは教えた。
それでも、セラスの核の部分は純粋なままだった。
「わたくしはそんなセラスの純粋さに、救われていた部分があるのでしょう」
微苦笑するカトレア。
「とはいえ、あの子の純粋さは諸刃の剣ですけれど。でも、だからこそわたくしはセラスを守りたいと思ったのですわ。あの子のような純粋さを保った者がこの世界に存在する事実が、わたくしにとってはかけがえのない希望となってくれた」
いささか過保護が過ぎたきらいはありますけれど、とカトレアは言い添えた。
するとマキアが、
「私たちもセラス様には、救われていた気がします」
そう言って眉尻を下げ、苦笑した。
「私たち聖騎士は外面こそ立派ですが、決して清廉潔白ではありません。もちろん険悪ではありませんが、あれだけの人数が集まれば時には同性同士ゆえの嫌な部分も出てきますし……カトレア様は、互いにそういった嫌な部分を隠さず出していくのも、時には必要とおっしゃっていましたけど……」
カトレアは微笑みを湛え、無言で先を促す。
マキアは転じて過去に思いを馳せる微笑みを湛え、
「しかしセラス様がいらっしゃると皆どうにも、やはり態度が違うのですね。この人の前では悪印象の残りそうな態度は見せたくない――そんな風になるのです。いえ……私もそうでした。なんなのでしょうね? カトレア様がおっしゃったように、そう、セラス様と一緒にいると……救われているような、そんな気分になっていたのだと思います」
カトレアは目もとを和らげると、深い笑みを浮かべた。
ドキッとした表情をするマキア。
サッ、と彼女の頬に熱が差したのがわかった。
「純粋さ――あるいは高潔さとは、そういう力を持つものなのですわ。周りへの浄化作用をもたらすもの、といってもいいでしょう」
だからこそ穢したくなる。
そんな不届き者がいるのも、また事実ではあるが。
カトレアは笑みをいつもの微笑に戻し、背もたれに寄りかかった。
脚を組み、膝上で両手を絡め合わせる。
「あの子がそこまで言うのなら……賭けてみても、よいのかもしれませんわね」
カトレアの目的はネーアを守ることであり。
ネーアの民を守ること。
国はこの手に――民の手に、取り戻した。
今もカトレアは取り戻した国を守るため戦っている。
ネーアのために。
先のバクオスのネーア侵攻は元々ヴィシスが抑えていた。
ヴィシスの機嫌を損ねたため、その抑えが消えた。
魔防の白城で再会した時、セラスからもそう聞いている。
女神に媚びへつらい機嫌を取り続ければ、国は守れるだろう。
だが。
この先、あの気まぐれな女神の顔色をずっと窺い続けなければならないのも――
いささか、癪に障る。
「ですが、セラスだけではこの賭けには乗れませんわ」
「?」
「ただし、今もセラスの隣にいるであろう――」
あの男。
「あの男が勝算を見出している……そう言っているのなら、乗ってみてもよいのかもしれません」
「確証まであっての、発言なのでしょうか?」
「賭けとは、確実でないからこそ賭けなのですわ」
カトレアはしばし黙り込み、
「マキア」
「は、はいっ」
「混成軍は少しずつ東へ後退させます」
「……他国の軍が納得してくれるでしょうか?」
微笑みかけるカトレア。
今度は頬を染めるのではなく。
マキアは、ぞくりとした表情をした。
「アヤカさんが不在であるこの混成軍……全体の形勢を変えたもう一つの要素と認識されているのは――さて、誰だと思います?」
「も、もちろん皆、カトレア様だと認識しているかと」
「ふふ、ありがとう。そう……わたくしがあれほど血眼になってわたくしの”有能さ”を示したがっていたのは、この混成軍はわたくしありきで機能していると認識させるためなのですわ」
アヤカ・ソゴウが消えた今。
カトレアを失えば混成軍は戦線を維持できない。
否。
事実、この混成軍には。
自分以上に全体を見通し、全体を動かせる者がいない。
大多数の者が、
”カトレアがいるからこそ”
こう認識してしまっているはずで。
元々の案――敵の人質になる案にしても。
この環境を整えれば整えるほど、効果は増大する。
「皆、わたくしの指示は何が策あってのこと……そう思い込んでくださるのではなくて?」
「確かに……今の混成軍は、カトレア様が掌握していると言ってもいい……」
ポラリー公率いる軍は女神のアライオン勢力である。
しかし、援軍として駆けつけ、ミラ軍を押し返したもう一人の功労者であるカトレアを、彼は信用し切っている。
「ウルザ軍はやや不安は残りますが……いざ反発しても、ネーア、バクオス、アライオンの三国相手では対抗できません」
混成軍内のウルザ兵はすでにミラ軍から相当やり込められた状態。
消耗度合いは激しい。
不敵に微笑むカトレア。
「女王という立場は確かに堅苦しく肩の凝る地位ではありますが……一国の代表という立場は、それだけ発言力も上がります。一国の姫君とは違うのですわね。さて、この混成軍で国の代表がまじっている軍は?」
「我が、ネーアのみ……」
「女王という地位の持つ威光も、こういう状況では便利極まりないですわね」
”アヤカ・ソゴウは味方として戻ってこない”
セラスの伝えた情報でこれが確定しているのも大きい。
カトレアはマキアをちょいちょいと指で呼び寄せ、
「まず、何かと理由をつけて混成軍を後退させ続けます。いずれミラ軍に追いつかれるよう、露骨でない程度に速度は調整しますわ。そして状況が整い次第――我がネーア軍は、そのままミラ軍につきます」
あるいは。
その後退に疑問を持ったヴィシスが出張ってくるかもしれない。
それはそれでよし。
わざわざ自陣営の堅牢な本拠地から、出てきてくれるのだから。
マキアが、
「我が軍がミラ側に寝返った際、他国の軍はいかがされるのですか?」
カトレアはにっこりと、太陽のような温かい笑みを浮かべた。
「もちろん、味方になってくださるよう交渉はいたしますわよ? 特にガス殿や黒竜騎士団、ポラリー公とは、個人的心情としては対立したくありませんもの。ただ、悪くすれば敵として戦うはめになるのかもしれません。ただし混成軍は、あのミラ軍相手にわたくし抜きで、ですが」
 




