もう一つの旅路
◇【安智弘】◇
時は、少し遡る――――
△
大街道を外れた二台の馬車が、北を目指していた。
各馬車には十数名の年齢の様々な男女が乗り合わせている。
そして――安智弘は、先頭の馬車の中にいた。
時刻は正午を回っている。
後部の幌の隙間から覗く空は快晴。
ただ、安の対面に座る中年の女の表情は曇っていた。
「あたしらこのまま、無事にヨナトへ辿り着けるのかねぇ?」
馬車に乗る多くの者が思っていたことかもしれない。
長い間、彼らは馬車に揺られていた。
口数も次第に減り、沈黙の時間が増えている。
その沈黙が、誰も口にしなかった不安を喉の奥から押し出したか。
堰を切ったように、他の者も次々と沈黙を破っていった。
「ミラがアライオンと戦争をおっぱじめちまうなんてなぁ……」
「しかも、同じ頃に金眼どもが突然うろつきだした地域もあるって話じゃあねぇか」
「遺跡があった辺りから溢れてきたとか、この前会った商隊の人は言ってたけどねぇ」
「あの不気味な白い人間の群れもなんだったのやら……悪いことの、前触れじゃねぇといいが」
安は、顔を伏せがちに黙って話に耳を傾ける。
「皇帝様も、金眼の魔物やら謎の白人間が国内で発生してる時に戦争なんてなぁ……まずはそいつらから、国民を守って欲しい気もするんだが……」
ミラ国民の狂美帝への信頼は厚い。
人によっては信仰と言ってもいいくらい――だそうだ。
けれど、全員が全員そうではない。
当然と言えば当然のことか。
多様な価値観や見方がある。
だから、こうしてミラにとどまるのを不安に思い、避難しようとする者たちもいる。
「どうなっちまうのかねぇ、ミラは」
彼らの町は、謎の白い人間の群れに襲われた。
町を脱出した者の多くは帝都へ逃れようと移動したそうだ。
しかしここにいる者たちは、
「安心しなって。だからこそ、ヨナトに避難することにしたんだ。今のミラよりは安全なはずさ。ヨナトなら、うちの血縁のツテもあるしな……ほら、この通行証で入国もばっちりさ」
この馬車の持ち主である中年の男が言った。
小麦色の髪をした、青い目の大柄な男である。
「なぁに、このきなくせぇ情勢が終わればまたミラに戻ったっていいんだ。けど今は、避難した方がよさそうだ」
彼は元傭兵だという。
馬車には元傭兵と現役の傭兵も乗り合わせている。
皆、同じ町の出身者で、顔見知りだそうだ。
いや、ここいる者たちの半数以上が同じ町の出身者だとか。
安を含む数名が、途中で拾ってもらった者たちである。
『おや? 兄ちゃん、怪我してんのかい? どこに行くんだ? へぇ……北に? これからうちらはヨナトに向かうんだが、乗ってくかい?』
一度、断ろうとした。
けれど結局、押し切られた形で安は馬車に乗り込んだ。
でもこれでよかったんだ、とも思う。
(この世界の人たちと直に触れ合ってみたい……そのつもりで僕は旅をしている……大丈夫……いざとなれば、固有スキルだってある……)
野営時の夜は、なかなか寝つけなかった。
第六騎兵隊のことを思い出してしまったから。
剥がされた爪。
切断された三本の指。
腱を切られた腕。
失われた右耳。
削ぎ落とされた一部の肉……。
それらを認識するとたまに、あの恐怖がフラッシュバックする。
寝ついても、うなされていたらしい。
ただ、そんな安を――彼らはひどく心配してくれた。
憐憫の情を湛え、
『ひでぇ目にあったんだな……でも、大丈夫だ。ここの連中なら信頼していい。安心して眠るといいさ。へへ、金眼どもが襲ってきても心配すんな。おれたちがいるからよ』
最後はそう言って、馬車の持ち主は力こぶを作って見せた。
ちなみに馬車には彼の妻、息子、兄弟も乗っている。
安は馬車内の床の汚れを眺めながら、
(北回りを選んだけど……これでよかったんだろうか? いや、十河さんたちが大魔帝を倒そうとするなら北へ向かうはずだから……北回りの方が、合流できる可能性が高いはず……)
この世界にはインターネットがない。
いや、ネットどころではない。
テレビのニュース番組すらない。
新聞に似たものはあるが、情報の鮮度が古い。
(遠くの情報を得るのが、こんなに難しいだなんて)
SNS検索なんかで遠くの情報をリアルタイムに得る。
そんなのはもってのほかだ。
この世界では、情報を得るにもタイムラグを覚悟しなくてはならない。
軍魔鳩や伝書鳩。
早馬による伝令。
手紙……。
得られない情報も、多すぎる。
しかし、だからこそ情報がより貴重な世界にも思えた。
(ただ、なんだろう……何かに追い立てられるように常にスマホを弄らなくていいのって……少し、楽な気もする……)
常に情報を追っていないとまるで世界に置いて行かれるような感覚。
この世界にいると、あの奇妙な焦燥感がない。
(得たくても、得られないからかな……)
ネットに繋がったスマホがあると”得られて”しまう。
だからつい、弄ってしまっていたのか。
ネットに浸っていると――
自分のことを考える時間が、徐々に消えていって。
他人に振り回される時間が、徐々に増えていった。
その時――つん、と。
安の腕をつつく者があった。
顔を上げる安。
「?」
「おにーちゃん、はい」
確か。
隣の隣に座っていた女の子。
くりっとした目の、小ぶりなツインテールの少女だ。
ちなみに、安の隣に座るのがその子の母親である。
女の子が安の斜め前にちょこんと屈んだ。
へらっとした邪気のない笑みを浮かべ、千切ったパンを差し出している。
「どーぞ!」
「え? あ……ぼ、僕は……大丈夫、だから」
「げんき、出してください」
「き、君が食べた方が……いいと思う……よ」
「ん」
女の子はちょっと困った顔をして、母親の方を見た。
母親が安に――やや旅の疲れの色が見えつつも――微笑みかけた。
「あの……もらってあげていただけませんか? その方がこの子も、嬉しいみたいですので」
どうぞどうぞ、と控えめなジェスチャーをする母親。
が、ベルゼギアに持たせてもらった保存食もまだ残っている。
それに、この馬車にいる者たちもまだ食料に困ってはいないはず。
つまり安に分けるくらいには食料もまだ十分ある。
なのに少女は、パンをくれようとしている。
「おにいちゃん、たぶん、きっと、おけがをしました。いっぱい食べて、なおしてください。ゆーり、手伝います」
にこっと少女が笑った。
ゆーり、というのは名前だろうか?
ああ、と思った。
弱った鳥に餌でも与える感覚なのかもしれない。
そんな善意と期待を――無下にするのは、気が引けた。
しかもいつの間にか、馬車内の人たちが、笑顔でこっちに注目している。
安のことを刺すような空気は、まるでなくて。
みんな、にこやかだった。
受け取ってあげな、と正面の中年の女が微笑む。
安は――パンを受け取る。
そしてちょっと照れて、
「あ、ありがとう……いただきます」
ここはすぐに口にすべきだと思った。
ひと口囓り、そのまますべて口の中に放り込んで咀嚼する。
飲み込んで、
「美味しかった……です」
「お元気、でましたか?」
「……う、うん」
「はい、よかったです」
少女うきうきした様子で、母親の膝の上に座った。
えへへ、と母親を一度見上げてから。
朗らかに、無邪気に、少女は安に笑いかけた。
少し、誇らしげに。
▽
興奮した馬のいななき。
直後、馬車の速度が乱れた。
外から慌てた声。
「き、金眼だぁあ――――!」
外の御者台の方から、武装した男が顔を覗かせた。
「リンジさん!」
馬車が速度を落とし停止する中――
「ちっ……金眼どもが多めにうろついてる街道を避けても遭遇するかよ。オウル、どんな感じだ?」
「ぱっと見……数は十いないくらいです! 今んとこ、大型のやつもいません!」
「わかった。ならここでやっちまおう……いくぞ、おまえら」
馬車の持ち主――リンジが真っ先に腰を浮かせ、剣を手に外へ飛び出す。
現役の傭兵や元傭兵たちが四名、それに続いた。
安も反射的に続こうとする。
が、最後に出て行きかけた元傭兵の男が、安を制した。
「おっと! 気持ちはありがてぇがよ……兄ちゃんはその怪我なんだ……その、あれだ、悪ぃがそんな戦えるようにも見えねぇからよ――つまり、無茶はしなさんな」
「あ、あの……僕、は――」
異界の勇者です、と。
口からそう出しかけて。
引っ込んで、しまった。
(勇者? 僕が……? 人を救う……勇者? 違う……僕は……自分が”勇者”なんだと勘違いして……増長した……)
ニカッ、と。
元傭兵が歯を見せ、笑いかけた。
「そうだな――じゃあ、いざという時のためにこの馬車ん中を頼む! ユーリちゃんだって、このお兄ちゃんがいてくれたほうが安心だろ!?」
男が声をかけたのは、さっき安にパンをくれた少女。
少女は母親にしがみつく格好で振り向き、こくこく、と頷いた。
「よーし、決まりだ! 頼んだぜ兄ちゃん! 外んことはおれらに任せとけ! 特にリンジさんはほんとに強ぇからよ! 魔物なんて、すぐやっつけちまうさ! へへ……それに、こういう時こそ――無駄飯食らいの、おれたちの働きどころだからな!」
言って、男も威勢よく飛び出していった。
外ではすでに、戦いが始まってるようだ。
安は――浮かせた腰を、下ろした。
(……僕、は)
あんな勢いで、ああ言われてしまっては。
あれ以上、何も言えなくなってしまう。
馬車に乗らないかと誘われた時も、結局、流されたのだ。
あの頃から……
(僕は……変わってないのかも、しれない……)
昔からあった虚勢が、消え去って。
異世界に来て溢れた勘違いと、
増長と、
毒が、抜けただけで。
自分は多分――きっと。
元に戻ってしまった。
最初の最初の、フリダシまで。
「…………っ」
少女――ユーリが母親の服の布地を握り締め、震えていた。
「大丈夫よ、ユーリ。ほら顔を上げて」
顔を上げ、黙って母親の顔を見るユーリ。
「いつもと同じでいいのよ? 怖い時はずーっと、ほら……おかあさんの顔を見ててね? ね? おかあさん、笑ってるでしょ? だから――大丈夫」
気丈な人だ、と安は思った。
母親は笑顔を浮かべていたが、少し肩が震えていた。
ユーリが母親の服の布地を掴む力が、ちょっと緩んだ。
「おかーさん……いつもの?」
「そう……いつものよ。笑顔の魔法」
「……えへへー」
ユーリも、笑った。
母親以外のものが、すべてこの世から消えてしまったみたいに。
とても安心した様子が伝わってきて。
なんだか安も、ホッとしてしまった。
そして――思った。
(どうしてこんなにこの人たちは優しいんだろう……いるんだ……こういう人たちが……この世界に……)
▽
襲ってきた魔物は無事、すべて退治された。
こちらは二名ほど、ごく軽い怪我を負ったくらいだった。
全員が無事と言っていい結果である。
二台の馬車は――北を、目指す。