汚
◇【十河綾香】◇
魔帝討伐軍は、アライオンへ引き返すこととなった。
引き返す理由は説明されなかった。
他の者もやはり知らないという。
女神は、
”状況が変わった”
とだけ告げた。
皆、困惑していた。
いよいよ決戦と意気込んでいただけに、困惑の色は強かった。
もちろん女神には詳細を尋ねた。
しかし女神は、
『まだ未確定な事項も多く、詳細が判明したらお伝えします。お約束します』
やはり、詳しく教えるつもりはない様子だった。
こうして、十河綾香たちはアライオンの王城へ戻ってきた。
数日に渡る待機。
この間、城内ではとある噂が広がっていた。
”大魔帝が死んだらしい”
綾香は真相を探ろうとした。
が、情報を集めるのは難しかった。
なぜか今、綾香は軟禁に近い状況にある。
他のクラスメイトと接触できる時間も、なぜか制限されていた。
理由を尋ねても、
”のっぴきならない事情があって”
としか教えてもらえない状態である。
(何が、起こっているのかしら……)
そんなある日、綾香は起きがけに女神から呼び出された。
大事な話があるという。
いつもの執務室に行くと、綾香は女神へ問いを投げた。
「一体、何が起こっているんですか? 大魔帝が死んだという噂も耳に入ってきているのですが……」
女神は神妙な面持ちで、
「状況が完全に想定外の方向へ動き始めてしまったのです。実は――」
大魔帝の死。
女神はまずそれを伝えた。
噂は事実だったらしい。
しかも――倒したのは桐原拓斗だという。
国境線付近にいた時、綾香らは野営地で待機を命じられていた。
女神はその時、配下の一部を連れ彼に会いに行っていたのだという。
そして、彼に会った。
「すでに始末されたと思われていたキリハラさんが、なんと大魔帝を倒したのだそうです。私には大魔帝の生死を判定する手段がありますので、大魔帝の死は確かです。まあ、その手段によって根源なる邪悪の出現もわかるわけですね」
「で、でもそれならっ……つまり――」
元の世界へ、戻れる。
しかしそう喜んだのも束の間、
「――そん、な……桐原君、が……?」
女神が話した内容は、驚くべくものだった。
「はい……彼、心臓をどこかに隠してしまったようでして」
桐原拓斗の無事は綾香にとっては朗報である。
しかし会談後、女神と別れたそうだ。
つまり、アライオンには戻ってきていない。
女神はこう説明を続けた。
私見だが、桐原拓斗は暴走している。
会談の場では彼に話を合わせるので手一杯だった。
大魔帝を殺したためかレベルがかなり上がっている。
神族の自分ですら危険を覚えた。
だから一時的に彼の要求を呑んだふりをした。
共闘すると見せかけた。
そうして時間を稼ぎ、対策を練るべくこうしてアライオンへ戻ってきた。
「私もわからないのです……何をどうしたらいいのか。しかし国境線の近くにあなたたちを置いておけば、桐原さんが襲撃してきて危険が及ぶかもしれない。ですので、とりあえず引き返してきたというわけです」
女神の話を聞いた綾香は、眉を顰めた。
「あの……桐原君と共闘、とおっしゃいましたよね? 大魔帝を倒したのに……一体、誰と戦うというんですか?」
「彼は、ミラと戦うようです」
「ミラ、と? ど、どうして……」
「実は今、ミラには蠅王ノ戦団が身を寄せていまして……」
(蠅王ノ戦団? あの人――ベルゼギアさん、の? どうして今ここで、あの人の傭兵団の話が……)
「まず……キリハラさんは”自分がマグナルの王になる”などとかわけのわからないことを言っています。そして、蠅王ノ戦団に所属しているセラス・アシュレインを妻に迎えるそうです」
「! ば、馬鹿なっ……そんな、こと――ッ」
「いいえ、彼は本気です。しかも魔族や金眼の魔物を支配するスキルまで会得しています。信じられないことですが……彼は今、魔の軍勢を率いています」
「魔の、軍勢を……」
言葉が出ない。
そして、と女神は続ける。
いつになく真剣な面持ちで。
「本音を言うと、私としても対ミラ戦にはケリをつけておきたいと思っているのです」
「で、ですが……もう、人間同士で争う必要なんて……」
「ミラはどうやら神族……つまり私を殺す力を手に入れたようなのです。明かしてしまいますが……禁呪、というものです」
「禁、呪……」
「神をも殺す禁じられた力です。ですが、これで納得がいくのではありませんか? それがあるから、ミラは私へ反旗を翻したのです」
(納得は、いく……)
邪王素による弱体化さえなければ女神はとてつもなく強いのだろう。
人面種すらものともしない強さを持つとも聞く。
いや――あまりに長すぎる年月、この世界に君臨しているのだ。
誰も倒せなかったと考えれば、その強さは自ずと理解できよう。
(でもそんな神をも打ち破る力を……ついに、人間が手にした……)
「ですが……私がいなくなれば勇者召喚はできません。この地から女神が消えれば……次の根源なる邪悪が現れた時、この世界の人々はなすすべなく根絶やしにされてしまうでしょう。目を覆いたくなる虐殺や、惨劇を経て……」
先の大侵攻。
大魔帝軍の残忍さはこの目で見ている。
対抗手段をなくした人々。
女神が消えれば、この世界の人たちはきっとひどい目に遭う。
「で、ですが女神様っ……ミラもそれをわかっているのではありませんか? 彼らも、今後現れるであろう根源なる邪悪への対抗手段が他にあると、確信しているからこそ……」
「次の根源なる邪悪が現れるのは、数百年後の話かも知れないのですよ?」
「え?」
「今生きているミラの者たちは……その頃にはもう、寿命で死んでいます。彼ら皇帝一族の元々の願いはこの大陸の統一……それだけが、宿願なのです」
「ま、まさか……その宿願さえ果たせれば、もう……あとの世代のことなど、どうでもいい……なんて……」
そんなのは――間違っている。
人は、繋いでいくべきなのだ。
幸せな今を創り、その幸せな今を未来にも繋げていく。
残していく。
自分たちが生きている間だけ幸せならそれでいい。
死後の誰かが苦しもうが、知ったことではない。
今だけ――自分だけがよければいい。
そんなのは、絶対に間違っている。
「皇帝一族は、歴代皇帝から連綿と受け継がれてきた宿願の達成が何よりも最優先なのです。実は、民のことなど何も考えていません。考えていたらあんな時期に戦争など起こさないでしょう? ミラの民も騙されているのです。私は……何年も寛容に、いつかその間違いに自ら気づいてくれるだろうと期待し、反抗的な行動があってもミラには最低限の対策しか打ってきませんでした。ですがそれが逆によくなかったのでしょう。次第に彼らは私を逆恨みし始め……結果が、これです」
「で、ですが……ですが……」
「キリハラさんは、セラス・アシュレインを救い出すと言っていました」
「!」
「民を犠牲にして自分たちの我を通すミラのやり方も気に食わない、と」
「……それ、は」
少し賛同できてしまう、と。
一瞬、思ってしまった。
唐突に、女神が尋ねた。
「私、嫌な性格をしているでしょう?」
「……そんな、ことは」
「ふふ、お気遣いはけっこうですよ? ですが……嫌と思われる性格も培わなくては、これほどの長い年月いくつもの国の均衡は保てませんでした。それに、事実として根源なる邪悪から民は守られ……多くの国は存続している。そうそう、バクオスに占領されていたネーア聖国も先日、神聖連合に復帰していただきました」
「!」
「先の大侵攻の功績によっては再び、国としての独立を認める……そういう約束でしたから。私がバクオスと交渉したのです。私は嫌な性格ですが、約束は守ります。前聖王の一人娘であるカトレア・シュトラミウスが、女王として即位するそうですよ」
「……カトレアさんが」
いい人だった。
あの国の聖騎士団や、兵士の人たちも。
「あなたと共にあの大侵攻を戦った”最後の竜士”ことガス・ドルンフェッドの進言もあってか、バクオスの皇帝もごねることなく独立を認め、ネーア聖国から兵を引き揚げました」
ネーア。
バクオス。
今や綾香にとって”彼ら”の国は、特別な存在となっている。
「ソゴウさん」
女神の表情が、その深刻さを増した。
「今回のミラとの戦いで、アライオン十三騎兵隊を始め、我が国の主軸だったアライオンの戦力は壊滅状態となっています。勇の剣も連絡が途絶え、それきりです……壊滅していると見ていいでしょう。しかし……いくらミラが強かろうと、こちらの主力がここまで為すすべなくやられるとは、少々考えがたいのです」
自分の把握しているミラの戦力にここまでやられるはずがない。
隠してあったかもしれない戦力を過大評価したとしても、である。
そう女神は説明した。
説明後、ぽつりと女神が切り出す。
「実はですね……第九騎兵隊に所属していた者が一人、命からがら戻ってきたのです」
現在も続く対ミラ戦争。
先日の戦いでアライオン十三騎兵隊は壊滅に等しい打撃を受けた。
が、一人の生存者もいなかったわけではない。
生き残りもいる。
しかし元の数を考えれば、ひどい生存率だという。
また、綾香は第九騎兵隊の名に心当たりがあった。
彼らは国外で活動していたとのことで、綾香は面識がない。
けれど、
「評判は聞いていました。なんでも……孤児を受け入れて育てる施設に、定期的にお金を渡していたとか」
アライオン十三騎兵隊はあまりよい噂を聞かなかった。
ただ、唯一その第九はよい評判を聞いていた。
他の隊と毛色が違ったせいで、印象が強かったのかもしれない。
自分が彼らの評判に共感したから印象に残った、というのもあるのだろうか。
「彼らは――蠅王ベルゼギアに、殺されたそうです」
「!」
「戦いの途中で負けを認め、武器を放棄し降参の意を示すも……無慈悲に殺されていったと。ただ、命乞いはしなかったと聞きました。彼らは少々甘い気質を持っている印象でしたが……さすがの私も、その最期は立派だったと思いますよ」
女神は残念そうに視線を伏せ、
「信じたくありませんが、証人がいるのです……そうです、先ほどお話に出た生きのびた第九の者が目撃していたのですよ。もしお望みでしたら、その者をここに連れてきますが……」
「そん、な――」
女神は、いつもの泣き真似をすることもなく。
口惜しげに、唇の端をかすかに噛んだ。
「……同じように、剣虎団も」
「えっ」
「団長のリリ・アダマンティンは、自分が首を差し出すから他の者は見逃してほしいと懇願したそうです……しかし、やはり蠅王は剣虎団を無慈悲に……全員……」
綾香は息を呑み、
「――ぁ、あり……ありえません! あの人が、そんなっ……そんな、無慈悲な……」
彼とは直接言葉を交わしている。
見えなかった――そんな人には。
「私も彼らが味方だと思っていただけに……衝撃が、大きいのです」
女神が視線を上げる。
「しかしよく考えてみてください、ソゴウさん。あなたは、彼のことをどれくらい知っていますか?」
「――それ、は」
「元々、蠅王は考え方の合わないアシントの別派閥を皆殺しにして蠅王ノ戦団を立ち上げた人物です。つまり障害となる者を殺すのを厭わぬ人物なのです。その、ですから……あの、ですね……ここからの話は……落ち着いて聞いてほしいの、ですが……」
女神が悲嘆に顔を歪め、言葉に詰まる。
嫌な予感がした。
心臓が、早鐘を打つ。
この重い音……鼓動が、嫌だ。
心の底から。
「処刑された捕虜の中に……実は、ヤスさんが――――」
「――――――――」
ぐら、っと。
脳が揺れる感覚があって。
目の前がぐにゃりと、歪んだ。
「安、君……? う……そ……」
「……すみません。彼には、私が特別な任務を与えていました……我が国の最大戦力である第六騎兵隊が同行していたので大丈夫かと思ったのですが……私の想定が、甘かったのです。すべて、私の責任です」
深々と、頭を下げた。
あの女神が。
「申し訳ございません。本当に」
「……あ、の」
自分の喉から絞り出した声は、震え、かすれていた。
「彼……安、君……も?」
頭を下げたまま、女神は数秒黙った。
「……はい……蠅王に」
「安、君……は……」
女神が顔を上げる。
「”元の世界に帰りたいから助けてほしい”と泣きじゃくり、命乞いをしたと……そう、聞いています。ですが蠅王はやはり聞く耳を持たず……、――――ソゴウ、さん?」
「………………………………」
「あの……元を辿れば狂美帝、ではないかと思うのです」
俯いた綾香が、ピクッ、と反応する。
「あの皇帝は、民の信奉を一身に集めています。そう、彼には人をおかしくさせる魔性があるのです……狂おしいほど美しい皇帝であるがゆえに”狂美帝”と呼ばれているのはご存じですか? あれは……人をおかしくさせる。おかしくさせ――洗脳し、意のままに操る……そういう怪異のたぐいなのではないかと、私は以前から不安視していました」
「……蠅王も……狂美帝に、洗脳されていると?」
「証拠はありませんが……はい、私はそう確信しています。彼も、魔性の毒にあてられたと」
「…………狂美帝」
「アサギさんたちも……」
「!」
「彼女たちからの連絡も途絶えています。しかも今、ヨナトにはいないとのことで……」
「まさか――ミラに……」
「殺されていなければいいのですが。でなくとも、監禁されているか……いえ、最悪の事態は狂美帝の口車に乗せられて洗脳されている、という場合です」
「……ッ!」
「そういう意味では……すべての元凶はやはり、狂美帝なのかもしれません。蠅王も、狂美帝と出会ったことで彼に魅入られてしまったのではないでしょうか。だから、次々と狂美帝にとっての邪魔者を始末する手伝いをさせられて……ですから、蠅王とその仲間たちも被害者と言えるのかもしれません。いえ、すみません……今のはすべて、私の憶測でしかありませんが……」
「…………」
「それと、その……タカオさんたち、なのですが……」
「! み、見つかったんですか!?」
「いえ、消息はまだ……ただ……どうも、水面下でミラの者が接触していた痕跡が見つかったのです」
「ミラ、と……?」
「もしかすると……狂美帝は彼女たちも、洗脳するつもりなのかも……それができなければやはり、始末を……」
綾香は思わず、腰を浮かせていた。
自分が今どんな貌をしているのか――わからない。
こぶしを固く……握り、締める。
「ソゴウさん」
「……はい」
「キリハラさんを止められるのは、あなたしかいないと思います」
「…………私、しか」
「私は、今すぐ単独で動かねばならないことがあります。あなたたちを元の世界へ戻すための準備です。こちらは急を要します。後回しにできないのです。ですので申し訳ないのですが……私は動けないのです」
「………………それで、私が」
「本当は会談の時に私が彼を止められたらよかったのですが……私に万が一があっては、あなたたちを元の世界に戻すことができないでしょう? それほど危険に思えたのです――今の彼は」
女神は腰を浮かせて前へ出ると、綾香の手を握った。
「実を言いますと……今のあなたは、私よりも強いような気もするのです。大魔帝とキリハラさんを二人まとめて敵に回し互角に戦ったあなたなら、あのキリハラさんに勝てるのではないかと……」
「私、なら……、――」
「キリハラさんはミラへ向かうようだ、と先ほどお話ししましたね?」
その言葉を聞いて、綾香はハッとした。
「そうです。蠅王が狂美帝と結託している以上、このままでは彼も蠅王に始末されてしまう危険があるのです」
「――――ッ」
誰が言い切れるだろうか。
それはありえない、と。
「ですが、あなたならキリハラさんを殺さずに止めることができる。助けることができる。私は、そう信じています。彼を生きて元の世界へ戻すには、彼を殺さずに止められる人間が必要なのです。そう、彼を守れる人間が……ミラから、狂美帝から……蠅王から。そしてそれを達成できるのは――きっと、あなただけです」
「私……私、が……私、しか」
「先日……ネーアとバクオスの軍が、西の戦場へ向かいました。対ミラ戦で苦戦するポラリー公の救援に向かうためです。ネーアからは、新女王カトレア・シュトラミウス。そしてバクオスからは”最後の竜士”ことガス・ドルンフェッドが、それぞれ指揮官として参加しています」
「!」
「……しかしミラ軍は屈強……蠅王に虐殺されたこちらの主力たちが健在なら、まだ戦えたとは思うのですが……その――」
「あなたは私に……その戦争に――参加しろと、言うんですか?」
綾香は、立ったまま俯いた。
「魔物ではなく……人との、戦いに」
「…………難しい、でしょうか。いえ、すみません、ここまで我が軍が逼迫した状況でなければ、こんな無茶はお願いしないのですが……」
どうすればいいのか。
自分は。
聖さん、と思った。
こんな時、彼女に相談したい。
けれど彼女は今いない。
決めなくてはならない。
自分で。
自分の意志で。
長い沈黙が、あって――
「――、……私、だけ」
「は、はい……なんでしょう? どうぞ」
「参加するのは私、だけ……他のクラスメイトのみんなは参加させない――それが……条件、です」
みんなには、人殺しなんてさせない。
させるわけには、いかない。
絶対に。
「え? 参加して、いただけるのです……か?」
「カトレアさんもガスさんも死なせるわけにはいきません。それに……ミラを目指している桐原君を助けるなら、私もミラに向かう必要があります。西の戦場を避ける北回りを選ぶつもりはありません。それでは、カトレアさんたちを救えませんから」
綾香は真っ直ぐ女神と視線を交わした。
女神が、手に取った綾香の手を強く握りしめる。
「やって、くれますか?」
「……やります。今”最悪”を止められるのが、私しかいないのなら」
「ソゴウさん……ありがとうございます。本当に」
「ただし、戦い方は私に任せてもらえますか」
「戦い方、ですか?」
「私は、人殺しをするためにこの世界に来たんじゃありません。戦争だから人が死ぬのは覚悟しています。ですが、私はそれを最低限に抑える戦い方をする……それは、了承してください」
「ふふ……お優しいソゴウさんらしいですね。わかりました。お好きになさってください」
ぎゅ、と女神が綾香の手をさらに強く握り込む。
「ソゴウさん、私も目が覚めました。今は、もうあなたに頼るしかないことにようやく気づいたのです。神のくせに馬鹿で間抜けだったと、いくらでも罵ってくださってけっこうです。今までの非礼を、心より詫びます。正直に言います。あなたの態度が、気に入らなかった」
「…………」
しおらしくなる女神。
「私は女神として数々の人間の裏切りにあい、数多の邪悪を見てきました……気づけば、私もそんな人々の悪意や邪悪さにあてられ、善性を前提とした理想論を信じられなくなっていきました。だから、あなたのその善性も欺瞞――虚飾だと思った。それが、気に入らなかったのです」
女神が悟ったような目で、綾香を見つめる。
「でも……違った。あなたは本物の、善性の人間だった……真の勇者だった。まだそんな勇者がいるなんて、信じられなかった。しかしいたのです――ここに」
「女神、様」
女神は息をついた。
「となると……もう、人質を取って言うことを聞かせるなどという行為も……無意味ですね」
女神が、卓上脇にあった呼び鈴を鳴らした。
奥の別室から二人の男が現れる。
一人が、もう一人に連行されている形だった。
目を見開く綾香。
連行されている人物は、
「そ、十河……?」
「柘榴木、先生……」
すっかりくたびれた様子の担任教師が、そこにいた。
かなりやつれている。
頬には打ち身のような紫の痣があった。
柘榴木保。
召喚されたあとは、城の調理場で働いていると聞かされていた。
”人格的に優れた手本とは思えないので接触は好ましくない”
女神がそう言ってクラスメイトをあまり会わせたがらなかったのだ。
しかし綾香は、実は何度か様子を見に行っていた。
訪ねていくといつも、楽しそうに笑っていたが……。
「申し訳ありません、ソゴウさん……今回あなたの説得に失敗した時、私は浅ましくも彼を人質にして……あなたに言うことを聞かせようと考えていました」
「!」
「しかし、それは大きな間違いでした。ただ……やはり、彼は人格的に問題があると思います。あなたとは大違いなのです」
ドガッ!
連行していた兵が、柘榴木を蹴り飛ばした。
柘榴木は情けない声を上げ、床に両手をついた。
彼は、怯えていた。
義憤を滾らせ、綾香は女神を見据えた。
「どういう、ことですか? それに、あの痣……」
「ザクロギさん……あの話を今、ソゴウさんにして差し上げてください」
「えっ!?」
膝をついたまま、驚いて振り向く柘榴木。
「あ、え……その……」
「ザクロギさん?」
「うっ……そ、十河……ぼ、ぼくは……」
女神から、無言の圧力が飛んでいる。
綾香は状況が掴めず、困惑する。
「……ぼ、ぼくが教師になったのは……じょ、女子高生と……JKとワンチャンあるかもって、思ったから……!」
「――え? 柘榴木、先生……? 何、を……」
「だ、だって……教師は性犯罪やってもまた教師として復帰しやすいし……ツバつけといた生徒が卒業したあとは、ふ、普通に会って何やっても問題ないし、さ? 若い未発達JKとワンチャン目当てなら、絶対教師の資格取るべきだって、ネ、ネットで見て! 性犯罪に甘い国だから天国なんだよ、ぼくらの国の学校は! ねねね、狙ってたぜ!? 今のクラスは年齢にそぐわない色気もある綺麗なのが多くてさ……ッ! はは……やー、でも実際は癖強いし、なんか怖くて……手ぇ出すの躊躇しちゃってて……行動すら起こせてなかったんだけど……だからちょっとランク下げて、鹿島あたりならいけるかなーとか、最近、思ってて……」
大きな、ため息。
女神だった。
「本性を一度暴いておくべきだと思い、暴いてはみたものの……すみません、想像以上に邪悪に思えたので……思わず、殴ってしまったのです」
綾香は――呆気にとられていた。
しかし、すぐに冷静さを取り戻した。
「柘榴木先生」
「ひっ!?」
「あなたは……最低です」
「……は、はいぃ」
「何より、教師の多くが性犯罪目的で教師になっているかのような今の言い方は、真面目に……一生懸命、日々、生徒の将来を考えてがんばっている教師の方々に、本当に失礼です」
「うっ……ご、ごめん……なさいぃ」
「……元の世界に戻ったら向き合い方を改めてください。絶対に」
「あ、ああ……約束、する! ぼくは……変わる! この世界に来て気づいたんだ……自分を見つめ直すことができた! 自分の邪悪を素直に告白して……なんだか、憑き物が落ちた気がするんだよ!」
人は、変われる。
悪人だから、とか。
弱者だから、とか。
そんなことで切り捨てるのは、間違っている。
誠意を尽くせば。
言葉を尽くせば。
人はきっと、変わってくれる。
必要なのは誠意や言葉を伝えるための絶対的な力。
悪から身を守り、弱き者を助けられる圧倒的な力。
「約束ですよ、先生」
「あ――あぁ! ぼくは変わってみせるよ、十河! 元の世界で挽回させてくれ……だから、頼む。ぼくを……みんなを助けてくれ! そして一緒に戻ろう! 元の世界に!」
「はい、必ず」
女神が”めでたしですね”みたいな微笑みを浮かべた。
「先生は、すぐに治療させます。ザクロギさん……私もついカッとなって殴ってしまい、申し訳ございませんでした」
「い、いえ……ぼくに真実を気づかせてくれた女神様には、むしろ感謝しています! ありがとうございます!」
柘榴木はそう礼を言うと、兵と共に部屋の外へ出ていった。
「では、十河さん」
「その前に、あの……小山田君は、大丈夫ですか?」
「ええ、まだ療養中ですが問題ありません。ただ、まだ精神が不安定で……人に会わせられる状態ではないかと。会うと、せっかくよくなってきたのにまた悪化する危険もありまして……」
「そう、ですか……」
「もしかすると、元の世界に戻れば治るかもしれませんね。そう、この世界で起こったことはすべて悪い夢だったのだと思い……治るの、かもしれません」
「高雄さんたちの捜索も、引き続きお願いします」
「先ほどは私の話に激しく動揺していましたが……覚悟は、決まったようですね」
「打ちひしがれていたら、またその間に失われる命があるかもしれません。今は、救える命を救うのに全力を尽くします。嘆くのは、すべてが終わってからにします」
「ありがとうございます……」
「小山田君のこと……アライオンに残るみんなのこと、お願いします」
「はい」
「許しませんから」
「……はい?」
「もし裏切ったら――私は絶対に、あなたを許さない」
誰を、信じたらいいのか。
もう――誰を。
聖さん、と思った。
(……ええ、聖さん。私は、自分を信じる……私の正しいと思った道を行く……そして、みんなと元の世界に帰ってみせる――――必ず)
たとえ――
この手を、汚したとしても。




