地下にて
◇【女神ヴィシス】◇
深夜――ヴィシス教団の神殿。
その地下の一室に、複数の人影があった。
彼らは、ヴィシスの集めた者たちである。
「このたびは皆さまに重大な極秘任務をお願いしたく、集まっていただきました」
ヴィシスの言葉へ丁寧にお辞儀を返したのは、眼帯の男。
「このたびは我がきょうだいをお選びくださり、感悦至極にございます」
編み込んだ金髪。
貴族然としているがどこか小汚さもある。
ヒゲは綺麗に整えられていた。
装いにも貴族的な典雅さ、上品さがうかがえる。
なのに、小汚い印象がある。
あらゆる部分から”取れていない”ためだろう。
血の汚れが。
「ファフニエルきょうだい――通称”堕ちた番人”……私の呼びかけに応じてくださり、心より感謝いたします」
礼を述べるヴィシス。
と、ファフニエルの姉がぺこぺこと頭を下げる。
「あっ……ありがとうございます! わ、わたし……あの聖なる番人より強い自信はあるんですけど……は、恥ずかしがり屋で! 名を上げるのが大好きだったあの人たちと違って、ちゅ、注目されるのがすごい苦手で! だから依頼もいっぱいお断りしちゃって……ッ! ごめんなさいごめんなさい! でも聖なる番人が死んだって聞いて……ざまぁみろって思って――あっ! ごめんなさい、ごめんなさい!」
眼鏡をかけた長身の女。
ぺこぺこするたび、尻尾めいた三つ編みがぶんぶん揺れる。
腰には――カタナ。
こちらは真っ赤な装束である。
装束はところどころが濃淡様々なまだら模様。
模様はすべて、戦いで浴びた血によるものだという。
「姉上、落ち着いてください」
「だ、だって……ずっと恥ずかしいって理由で、ヴィシス様のお誘いをお断りしてたから……そりゃあわたしたちは、ちょ、超絶に強いけれど……でも、恥ずかしいし……」
「きっと大丈夫です、姉上。今回の任務、僕ら二人は表舞台へ出ることはないとのことですから」
「そ、そうかしら? なら、できそうだけど……」
姉のカイジン・ファフニエル。
弟のランサー・ファフニエル。
堕ちた番人は二人組の傭兵である。
知名度は高くない。
なぜなら、名が表に出ない依頼しかこなさないからだ。
ここ数年は特に聖なる番人の陰に隠れていて、彼らの名を知るものは少ない。
ヴィシスもこの姉弟は温存していた。
ここ数年は意図的に彼らの名が広まるのを防いでいた。
また、手駒として使うかどうかも――決めあぐねていた。
とにかく精神が不安定で、勇の剣以上に使いにくい。
が、ここに来て二人を引っ張り出すことにした。
さすがにルイン・シールやジョンドゥには劣る。
しかし、強力な手駒には違いない。
と、別の位置に立つ人影が口を開いた。
「異界の勇者は対大魔帝で手一杯だとしても……女神様の下には、あの勇の剣や第六騎兵隊を始めとしたアライオン十三騎兵隊がいるわけですよね? なのにアタシたちをこんなとこにわざわざ集めたってことは……そいつらに、何かあったんです?」
そう問うたのは赤髪の女。
こちらもカイジンと同じ女傭兵である。
リリ・アダマンティン。
彼女は傭兵団を率いる長でもある。
傭兵団の名は――剣虎団。
「彼らは先日、ミラとの戦いにおいて大打撃を受けてしまいまして」
「まさかとは思いますけど……負けた、とか言うんじゃないでしょーね?」
悄然と肩を落とすヴィシス。
「認めたくはありませんが、はい……」
「あの勇の剣と、第六騎兵隊が……? ちょっと、待ってくださいよ。てことは……まさかあのルイン・シールもジョンドゥも、やられたってことですか?」
「あなたは彼らの強さを正しく感じ取っていましたものね……驚くのも、無理はありません。まだはっきりその二人が死んだと決まったわけではありませんが、おそらくは」
最果ての国の件で、二人からの報告がここまで何も上がってこない以上。
あの二人も始末されたとみるべきだろう。
ルイン・シールは女神への信奉度と立場的な依存度から。
ジョンドゥは女神から与えられる権限や自由度、また、報酬の点から。
裏切ったと考えるのは非現実的に思える。
少なくとも、ルインを引き入れてもアレをまともに使える者はいまい。
ジョンドゥにしても、今回の報酬を無闇に捨てるとは考え難かった。
「私もびっくりで、目玉が飛び出てしまいました……」
訝る顔をするリリ。
「ミラにそこまでの強さがあったなんて、ちょっと驚きだな……」
これほどの力を隠していたなら。
今回の反逆も、頷ける。
「爪を隠していたのですねぇ。となると、先の大侵攻の際も手を抜いていた節があるわけで……たとえばマグナル王都での一戦で、ミラはさほど戦力を失っていません」
「……要するに、ミラがのちの反乱を見越してマグナルを見捨てたと? だとしたら……アタシとしてはちょっと、気に入らないかな……」
「その通りです。皆さんが一丸となって大魔帝勢力と必死に戦っている中、狂美帝だけは今の反乱を見越して動いていたわけです。擁護できないほど自己中心的で、残念なことです」
「で――」
リリの後ろには剣虎団の中核が揃っている。
「ルイン・シールやジョンドゥより格落ちになるだろうアタシら剣虎団を集めて、何させようってんですかね?」
「その前に、もう二人……ご紹介したい方たちがいます。まず、ゼーラ帝……」
「ゼーラ帝?」
記憶を探るリリ。
「過去のミラの皇帝に、そんな名のやつがいたような……?」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ」
気の抜けた乾いた笑い声。
影の向こう現れたのは、大柄な白髪の老人だった。
面長で顔が細い。
どこか位の高さを思わせるゆったりした白の装い。
白く長いあごヒゲが、腹の辺りまで垂れている。
真っ白な髪も負けじと長く、前後共に腰までかかっていた。
ただ――目が。
落ちくぼんだ暗き眼窩の奥。
よく見ると……金の瞳が鈍く、光っている。
無数の深い皺の刻まれた顔を飄々と歪め、老人はヒゲを撫でた。
「まったき、我こそ第二十六代皇帝――通称”追放帝”こと、ファルケンドットゼーラ・ミラディアスオルドシートよ……ふぉ、ふぉ、ふぉ。飾帝名は長いゆえ、呼び名はゼーラでよい」
「は? ま、待て待て……んん?」
混乱した風にリリが頭を垂れ、額に手をやった。
「追放帝の話はアタシも知ってる。確かミラを追放されたあとは、行方知れずとされてたはず……噂は様々あったが、ついぞ亡骸は発見されなかったと記録されている……だったか。けど、そもそも……齢70を越えていた追放帝が、表舞台から姿を消したのは――」
リリは自分でも何を口にしてるのかわからぬ様子で、
「100年以上も前の話だろ?」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。よう知っておるじゃないか、小娘よ。だが、そこの種明かしについてワシは語る権利を持たぬ――のう、ヴィシス?」
「そうですねぇ。まあ、色々と事情がありましてっ」
ぽんっ、と両手を打ち鳴らすヴィシス。
「このたび追放帝には、この任務のために目覚めていただいたのですねっ。私も成長し、時が来たというわけですっ」
「いや、説明になってないんですけどね……ま、いいですけど。世の中ってのは、不思議なことばっかですから……」
リリは真相を探るのを諦めたようだ。
彼女はそういう女だ。
大切にしている剣虎団が何よりも最優先。
踏み込みすぎて虎の尾を踏むくらいなら――彼女は、退く。
ヴィシスとしては、そういったところが気に入っていた。
「……あのおじいちゃん、強そうです」
ぼそ、と言ったのはファフニエルきょうだいの姉――カイジン。
物欲しそうに指を咥えている。
「わたしの方が強いとは思うけど……どうかな……断言は、できないかな……でも、強いのは絶対そう……そうよね、ランサー?」
「もちろんです、姉上。本物の追放帝なのかどうかはさておき……我々とは何か存在の質そのものが違う――そんな感じですね」
「強い人は強い人を見抜けるから……わたしたちもつまり、強いんです……強くて、ごめんなさい」
ファフニエルきょうだいに一瞥をくれてから、リリが息をつく。
他の剣虎団の様子は十人十色。
驚いて冷や汗を流している者。
固唾をのんでいる者。
平然としている者。
笑みを浮かべている者。
が、彼らに露骨な怯えはない。
皆、団長のリリを信頼しているのだ。
彼女が健在な限り彼らの戦意が失せることはない。
リリが、闇の溜まった部屋の隅へ視線を置く。
「で、女神様……残る一人ってのが、そこにいるやつですか」
皆、ずっとそこに誰かいるのには気づいていた。
存在感がありすぎるのだ。
追放帝と同等か――あるいは、それ以上か。
「ふふふ。では、ご紹介いたしましょう。彼の名は――ショウゴ・オヤマダ! ぱちぱちぱち~」
ヴィシスの拍手の音がして。
闇の奥から現れたのは、大柄な若い男だった。
「ご存じの方もいるかと思いますが、彼は異界の勇者です」
「このたび、我が母であるヴィシス様のためにこの任務に参加することとなった、ショウゴ・オヤマダと申します。以後、お見知りおきを。母上が、最高です」
ぺこ、と姿勢良くお辞儀をするオヤマダ。
「おま、え――あのオヤマダ……だよ、な?」
当惑するリリ。
他の剣虎団の面々も困惑していた。
彼らは、魔防の白城戦以前のショウゴ・オヤマダを知っている。
「女神――母上のおかげで、ワタクシは生まれ変わりました。かつて反抗的で粗暴だった自分を恥じております。今はただ母上のために、この身を捧げる所存なのでございます。母上だけが、勝つのです」
「あぁオヤマダさん……ぐす……立派になってくれて、母は心から嬉しく思いますよ?」
「母上……母上っ」
顔を輝かせたオヤマダがヴィシスに抱きつく。
ヴィシスはオヤマダを抱きしめてやった。
引いた顔をするリリ。
「こ、これが……あのオヤマダ? 見た目はそのままなのに、ま、まるで別人じゃないか……何があったんだよ、本気で……」
ヴィシスはオヤマダから視線を外し、
「私の親身な教育によって心を入れ替えてくださったのです。最初は先の戦いで負った心の傷を癒やすだけだったのですが、ふふ、次第にこのようになりまして……オヤマダさんはこの世界に来たあと、ずっと環境が悪かったのですね。最初から、私が一対一で面倒を見るべきでした」
ふむ、とヒゲを撫でながらオヤマダを観察するゼーラ帝。
するとカイジンが、
「あ、あの……その方、ちゃ、ちゃんと戦力になるのでしょうか……?」
オヤマダがヴィシスの胸元から顔を剥がし、カイジンを見る。
「はい、ワタクシは立派な戦力なのです。母上による、母上のための」
「で、でも……」
オヤマダはにっこり笑い、手で紳士的に促す。
「どうぞ遠慮なくおっしゃってください。ワタクシたちはこれから共に任務へあたるのです。わだかまりがあっては、いけませんからね。ですよね、母上」
「あ、あの……知って、ます……ごめんなさい、わたし、知ってるんです。魔防の白城の時……な、泣き喚いて……情けなく敵前逃亡して……戦力としてなんの役にも立たなかった、って。ゆ、勇者さんたちの中でも……全然、強いとか……聞こえて、きませんし……正直”誰?”って、感じで……ご、ごめんなさい! 悪気はないんです! ただ……役に立つのかな? 足手まといにならないのかな……って、思っちゃって。す、すみません! 正直すぎ、ますよね……ッ!? ご、ごめんなさい!」
「…………」
オヤマダは無言でヴィシスから離れ、項垂れた。
両肩が小刻みに震え、こぶしをきつく握りしめている。
ヴィシスはオヤマダの背に声をかけた。
「オヤマダさん、大丈夫ですか?」
「申し訳、ございません……ッ!」
オヤマダは――泣いていた。
縮こまりながらチラッと上目遣いを向けるカイジン。
「泣いて、反省してるん……ですか? 今更……」
「はい……あの時の自分が、情けなくて……ッ! 心から!」
「あ、あのあの……怒らないん、ですか? ご、ごめんなさい!」
「いえ、おっしゃっていることは事実ですから! ご安心くださいカイジン殿! 自分のことをどう言われようとワタクシは気になどいたしません! むしろ今後の糧として――過去の自分から目を逸らさず、見つめ直し、今の自分の戒めとするために! むしろ、ありがたいご指摘と思っております! ありがとうございます、カイジン殿……ッ! おめでとうございます、母上!」
ヴィシスは感動して泣く仕草をする。
「うぅ……本当に立派になりましたね、オヤマダさん。投げ出さず熱心に向き合ったかいがありました……母は心から、あなたを誇りに思いますよ……ぐす」
「で、でも……ッ!」
食い下がるように、カイジンがオヤマダを指差す。
「この人、気持ち悪いです! この人と一緒に任務なんて、ちょ、ちょっと無理っていうか……ごめんなさい!」
「申し訳ございません、カイジン殿! そして、ありがとうございます! さらなる糧といたします! そしてワタクシは、母上の糧かもしれない!」
「ヴィ、ヴィシス!」
オヤマダ相手では話が通じないと思ったのか。
カイジンの矛先がヴィシスへと向く。
「あなた……ど、どうかしてるんじゃないですか……? こ、こんな失敗の代表作みたいな勇者を使うなんて――正気ですか!? しょ、正直……失望ですよヴィシス! 話に聞くアヤカ・ソゴウならともかく……こ、こんな逃げ出した弱々……ッ! せ、戦力になるわけないじゃないですか! 任務の詳細はまだ聞いてませんけど……すみません、彼は足手まといとしか思えません! ヴィシス! あ、頭正常なんですか? 普通に頭、大丈夫なんですか!? てて、ていうかあれですか!? この地下から……か、階段をのぼって地上階へ出たところにある壁……そこにある、あ、あの深い凹みと、でっかい亀裂ッ! もしかしてあれ、じ、自分のやることなすこと上手くいかなくてブチッときたヴィシスが、や、八つ当たりとかしてできた凹みなんじゃないですかぁああ!? て、ていうかてめぇ――言いすぎかもしれません、ごめんなさいっ――前から、そ、そのニコニコ顔わざとらしくて、ほ、ほほ本気でキモ――「【赤の拳弾】ぉおッ!」――ごぶぅっ!?」
ぐしゃり、と。
折れ、曲がった。
硬い床の上で――カイジンが。
何が起こったのか。
が、当然ヴィシスは見ていた。
オヤマダが一瞬で移動し――
カイジンの頭上から、攻撃の固有スキルを放ったのである。
頭上からの大質量の衝撃弾。
斜めにひしゃげるようになって、カイジンの膝は、ぐにゃりと潰れていた。
「……だッ――誰に向かってもの言ってやがんだてめぇおらぁああ゛ッ!? おれのこたぁどうでもいいんだよこの毒ボケがぁ! だがよぉ――は……母上に! 母上に、どどど、どんな口きいてやがんだこのダボがぁアア! ぁぁあああああ゛!? ぶち殺すぞ【赤の拳弾】【赤の拳弾】【赤の拳弾】ぉお! わきまえろクソゴミぁぁああああ【赤の拳弾】【赤の拳弾】ぉおお゛――ッ!」
ドッ! ドッドッドッドッドッ! ドゥッ!
連続する赤の衝撃弾が、カイジンを圧し――”人”の形を、剥ぎ取っていく。
「むぎゅ、ぎ……ッ! ぎ、ぎゅっ……ぃ゛!」
ほどなくカイジンは、潰死した。
が、オヤマダは攻撃を止めない。
「あ――――あ、姉上ぇぇええええ――――ッ! 貴様ぁああ゛殺してやるぅぅうううう゛!」
あまりのことに認識が追いついていなかった弟のランサー。
彼は、鎖の付いた二本の剣を手にオヤマダに襲いかかった。
燃えたぎった殺意をもって。
ガバッ、と。
血を浴びたオヤマダがキレた顔で、振り向く。
「ふしゅぅぅぅぅ……、――【重撃の拳弾】」
新たにオヤマダの拳から放たれた、赤い球体状の拳弾。
矢のように速い。
ランサーは機敏な反応で自然と回避行動を取る。
が、球体状の拳弾が――弾け散った。
拳弾が途中で、散弾と化したのだ。
「ぐっ!?」
近距離での散弾。
さしものランサーもこれは回避が間に合わない。
弾けた拳弾が何発か、ランサーに直撃。
が、
「……?」
ランサーは自分の身体を確認する。
負傷した様子はない。
確かに数発、直撃したはずだが――
「――まあ、いい。貴様をここで……殺すッ! ごろじでやるぞ……オヤマダぁぁああああ゛!」
ズンッ
刹那、ランサーの顔が歪んだ。
違和感を覚えた表情。
「な、に……!? か、身体が――重いッ!?」
「……【増強の、拳弾】」
ドッ! ドッドッドッ! ドドドドドッ!
戸惑うランサー。
「……ッ!? 貴様、何を――な、何をしているッ!?」
左右の手に発動させた拳弾。
オヤマダがそれを――
己のあごと腹に、撃ち込んでいる。
「き、気でも触れたのか……? いや、あれは……ッ!?」
ランサーが、気づく。
オヤマダの身体が赤い魔素のようなものを纏っていることに。
しかも打ち込むごとにその赤い光が、強くなっていることに。
やがて……拳弾の撃ち込みが、止まった。
次に赤い光が、右腕へとどんどん集まっていき――
「こいつをてめぇで試してやろうかぁ……あぁああ゛あ゛!?」
右こぶしのところで。
巨大化、していく。
「くっ……! ヴィ、ヴィシス!」
なりふりかまわぬ形相で、ヴィシスへ呼びかけるランサー。
「こいつを止めろ! そして、正しき罰を与えろ! こんな壊れた勇者は使い物にならん! 早くしろ!」
「ふふふ……オヤマダさんがここであなたたち姉弟に返り討ちにあっていたら、それまでかなーと考えていました。しかしさすがは私の愛しき息子です。んー……お姉さんを”あんな風”にされてしまった以上、あなたはもうオヤマダさんを許さないでしょう。あなたが狂美帝みたいに裏切って、向こうの陣営にいかれても困りますしぃ……」
「こ、このっ――、……ゲロカス女神がぁぁッ! 姉さんだから僕は言ったんだ! こんなインチキドロカス女神、かかわるだけ損だって――」
「――――【血染めの、拳弾】――――」
圧を振りまく大質量の衝撃弾が、
放、たれた。
ドゥッ!
「! ぶぎぃゃ――」
メキッ――ドチャッ!
「…………」
……パラ、パラ……パラ……
石の壁に貼り付いていた”それ”が。
ベチャリッ
剥がれ、床に落ちる。
押し潰された”人間”だったもの。
それはもはや完全に、原型を失っていた。
ランサーだったものはすでに”物”と化してしまっている。
「ふぅぅぅ……だから言った、だろーがぁぁ……おれはいいがぁ……母上を侮辱するのは、ぜ、絶対に許さねぇぇ……許さねぇぇぞぉぉ……ぉぉぉぉ……」
「なる、ほど♪」
ヴィシスは一つ、両手を打ち鳴らした。
「堕ちた番人を難なく倒せるくらいには、強くなっていたのですね! 素晴らしい成長ですよ、オヤマダさん!」
「ハッ! し、しまった! 申し訳ありません、母上! これから任務を共にするはずだった仲間を……ッ! その……母上を侮辱されて、つ、つい!」
「んー……まあ、いいでしょう♪ あれで本気の実力だったのだとすれば、彼らはこの中だと強さ的に最下位だったみたいですし。オヤマダさんの強さがここまで上がっているのも、確認できましたしね?」
「ゆ、許していただけるのですか!?」
ヴィシスはオヤマダに近寄った。
「はい、許していただけるのですよ? 母を侮辱されて、怒ってくださったのですものね? 私は嬉しく思いますよ、オヤマダさん」
「あぁ、母上……ぐす……なんと、お優しい……優しいよぉお……」
オヤマダの左右のこめかみに両手を添え、視線を合わせるヴィシス。
「で、す、が」
「――は、はい!?」
「今後もし、あそこにいる剣虎団さんたちやゼーラ帝が私を侮辱するようなことを言っても……憎んでは、いけません。殺しても、攻撃しても、いけません。彼らが私を侮辱するようなことを言うのは、私が認めます。いいですね?」
「……承知いたしました。他でもない母上が、そうおっしゃるのでしたら。母上ぇぇ……」
「ふぅ……まさかあなたの私への愛情がここまでとは、私も予想できていませんでした。ああ、皆さんも――」
ヴィシスはオヤマダから視線を剥がし、剣虎団やゼーラ帝に呼びかける。
「万が一もありますので……私への侮辱的、敵対的発言にはお気をつけくださいね? 一応今言って聞かせはしましたが……急ごしらえなのもあって、まだ教育が”完全”ではないかもしれません」
「……本音を言わせてもらうなら」
一連の流れを見ていたリリがヴィシスに笑みを向ける。
冷や汗を流しながら。
「その勇者殿は精神的にまだ不安定みたいだし、降りれるなら降りたいとこだけどな。だが、アンタの命令にアタシたちは逆らえない……」
リリはそれ以上の何かを言いたげだった。
が、彼女も今のひと幕を目撃している。
大丈夫とは言ったものの、やはり少し――警戒している。
女神に対する言葉を、選んでいる。
「うちら剣虎団の身内……居場所も含めて、すべて女神様に把握されてちゃな……」
彼らはわかっている。
女神に背いたなら。
彼ら剣虎団の本拠地、また、王都や各地に住む血縁者たち。
皆――ひどい目に遭う。
聡い彼らはすべて、わかっている。
「大丈夫です。身内の把握は、あくまで予防のようなものですから……その分、あなたたち剣虎団が私の期待に応えてくれた際には、それなりの見返りをお渡ししてきたつもりですよ? 今回だってそうです。いえ……今回の任務を成功させていただけたら、一生暮らせるだけの地位と報酬を保証いたしましょう。これが女神との最後の仕事と思ってくださってけっこうです。この仕事を成就させたあとは……どうぞご自由に、豊かに平穏に、お暮らしなさい」
以前与えられた勇者の教育係の時、彼らは知ったはずだ。
あれを引き受けた剣虎団はかなりの報酬を受け取った。
最低でも一、二年ほど傭兵稼業を休んでも身内すべてが食い繋げるほどの報酬。
ヴィシスはリリに、気持ちの整理をつける時間を与えた。
そうしてそれなりの長い沈黙のあと――
覚悟を決めたように、ふぅぅぅ、とリリは息を吐いた。
「……中断してたが、肝心の質問に話を戻そうか。で、アタシたちはあそこの追放帝らしきじーさんとそこのアンタの”息子”と組んで――何をすりゃあいい?」
最果ての国の侵攻は、ミラの横槍で失敗に終わった。
報告からすると両国は手を結んだと考えられる。
聞くに、最果ての国もそれなりの戦力を有しているようだ。
そして、今あの最果ての国には対アライオンの動機がある。
今後の共闘による利点を考えても。
禁字族を手に入れるという意味でも。
両国はおそらく、今後も手を結び続けるのではないか?
ならば”再入国”の手段――”鍵”を狂美帝は手にしているはず。
でなければあの狂美帝のことだ……。
ニャキなりラディスなりを手もとに置いているに違いない。
ちなみに、最果ての国攻めの報告はまだ完全には出揃っていない。
が、そのあたりはヴィシスにも十分に想像がついた。
となると――
「それはもちろん……神獣の奪還、あるいは最果ての国の扉を開くための”鍵”の入手……そして――」
にっこりと。
ヴィシスは微笑む。
「狂美帝の、抹殺です」
今話は少し長めでした。
次話は、トーカ視点となります。




