勇者たちは、雷の中で
◇【イヴ・スピード】◇
それは、イヴ・スピードが小柄な人間の少女と遭遇するより少し前――
△
「イヴ――今、なんと?」
トーカに身を隠すようにと指示された洞穴。
イヴたちは指示通りそこに隠れていた。
穴の外では雨が激しく降っている。
入口の方では、滂沱のような雨雫が岩肌を打ちつけていた。
「我がトーカを追う」
真意を測りかねる顔のセラス・アシュレイン。
リズは口を挟まず、不安げにイヴの顔を見上げた。
セラスの肩に力が入る。
「ですがトーカ殿はここで待てと」
「行かせてくれぬか、セラス」
白い美脚を綺麗に揃えて座るセラスが、面持ちを硬くする。
「あなたの意思を、聞かせてください」
ふむ、とイヴは唸る。
「――意外だ。そなたはもっと頑なかと思っていた。トーカの指示なのだから絶対に守れと……そう窘められるものかと」
「これでもかつては騎士団を一つあずかっていた身ですから。仲間の意見に耳を傾けず頭ごなしに否定するようでは騎士団長など務まりません。検討はすべきです」
「ふっ、なるほど。では我の意思を話そう」
イヴは風雨で荒れる外に視線を飛ばす。
「単刀直入に言えば相手の数が多すぎる。人面種も一匹や二匹ではないはずだ」
「トーカ殿の力をもってしても生還は難しいと?」
「生き残りはするかもしれん。勝算なく戦いへ赴く男ではない……が、あの数を相手に無傷で帰還できるとも思えん」
この時点でセラスは反論を挟まない。
イヴは双眸を細めた。
「何より今、トーカの状態は万全とは言い難い」
「レベル補正があるから問題ない、と彼はおっしゃっていましたが……」
そう口にしながら、しかし、セラスも心当たりがあるようだった。
「そなたも気づいているようだな。たとえばトーカは、魔群帯入りしてからここにいる誰よりも睡眠を取っていない」
「……はい」
「禁術道具作りやピギ丸の力を引き出すための試行錯誤のついでと言って、自分の見張りの時間をかなり多めに取っていた。どころか【スリープ】を使用し、我やそなたをわざと寝坊させたこともあった……我は、そう見ている」
セラスがハッと桜色の唇に細い指をあてる。
眠りを付与する魔術――否、異界の勇者のスキル。
どんな状況でも深い眠りを得られる。
トーカはそう説明していた。
ただし、彼が解除しない限り絶対に起きないそうだ。
使い方次第では恐ろしい力だが……。
「私たちが寝ている時、さらに【スリープ】をかけて……」
「うむ。寝過ごした我やそなたが目覚めた時間は近かった……しかし、起床時間にはずれがあった。トーカは頭が切れる。目覚めがぴったり同じ時間だとスキルを使ったと勘づかれるからな。ゆえに、付与する時間を少しずらしたのだろう。最初、寝過ごしたのは慣れぬ環境下で疲れ切っていたせいと思っていたが……」
「トーカ殿は、私たちが精神的に疲弊しているのをずっと気にかけている様子でした」
トーカは、
”睡眠はしっかり取っておけ。精神面の疲労回復にはまずそれが一番だ”
定期的にそう口にしていた。
「といっても、魔物ひしめくこの金棲魔群帯での安眠は困難……そこで、眠りが浅くなるのを避ける意図もあってトーカは我らへ定期的に【スリープ】をかけていたと思われる。まあ……多少慣れてからは、魔群帯で眠るのにも馴染んだ感はあるが」
しかし、魔群帯入りした初期の頃も熟睡できていたのはなぜか?
そこだけは説明がつかない。
「私たちを”もたせる”ために、魔群帯入りした頃からトーカ殿はご自分の睡眠時間を削って……?」
「おそらくは、な。そして事実、我らはこの奥地まで持ちこたえることができた」
たとえばリズ。
この中で最も魔群帯に不適合なのは言うまでもない。
そのリズですら睡眠不足には陥っていない。
やはりこっそり【スリープ】をかけていたと考えるのが妥当だ。
「それに、トーカ殿は……、――」
セラスが何か言いかけた。
が、続きは口にしなかった。
「む? どうしたのだ?」
「……いえ、なんでもありません。それより今はあなたの話です。決めるのなら、時間をかけない方がよいかと」
「――うむ」
セラスの冷静沈着さはありがたい。
イヴは続けた。
「というわけで、ステータス補正とやらがあっても今のトーカは万全とは言い難いはずだ。あのトーカとて絶対はあるまい。重傷を負って動けぬ状態となる……それも、考えられる」
ここもセラスは反論の言を述べなかった。
反論しかけた気配こそ、少しあったが。
「あなた一人で行くつもりですか」
「我がトーカに食い下がった時の言葉は虚勢ではない。我なら魔物と認識されてここの魔物どもに看過される可能性は十分ある。気配を消すのも、こういった地形での移動も、我にとっては領分だ」
再び外へ視線を滑らせる。
「いずれ暗くなるだろうが、我なら夜目もきく。ゆえに灯りで魔物に位置を知らせる心配もない。耳もよいしな」
「説得するための根拠なき嘘では、ありませんね」
断言するセラス。
そう、彼女は嘘の有無を判断できる。
(”逆に言えば、真実の言葉で攻め続ければ説得しやすいとも言える”……か。なるほど、トーカの言っていた通りのようだ)
心の中で感心し、話を続ける。
「そして……トーカやスレイが重い傷を負っていた場合、両肩に担いで移動できるのは我だけだ」
腕力。
こればかりは種族として非力なハイエルフにはできない芸当。
長いまつ毛を伏せ、セラスはしばし黙考した。
黙考するその面差しすら切り取られた名画めいている。
イヴはふと、そう感じた。
セラスのまつ毛がパチッと上がった。
快晴な朝の青空めいたその瞳には、リズが映っている。
「リズを一人にはできません。トーカ殿もそれを許さないでしょう。ですから――私はリズと、ここに残って待ちます」
「セラス」
名を呼んだイヴの声音。
そこには、感謝が含まれていた。
「しかし、トーカ殿を追えますか?」
「森は様々な印を残してくれる。ハイエルフのそなたなら知っていよう?」
獣が通った痕跡、
傷ついた幹、
千切れた葉、
折れた枝、
飛び散った土、
欠けた石……。
つぶさに観察すれば森は”印”を示してくれる。
「あれほどの大移動だ。この雨でも必ずや痕跡は残る。もしトーカが魔物の群れと乱戦を行っていれば、さらに追跡は容易になるはずだ」
「トーカ殿は、スレイ殿に私たちのニオイを覚えさせてそれを戻る道しるべとしました。あなたは、戻ってこられますか?」
イヴはこめかみを指差す。
「地図とおおよその距離はこの中に入っている。道中、目印も作るつもりだ」
セラスは若干そこで表情を弛緩させた。
「わかりました。逸る気持ちだけで行動を決めていないのは、理解しました」
「恩に着る」
「……すみません」
「む?」
「これでも”副長”を任された身です。トーカ殿が不在の今、仲間の安全について判断するのは私の役目と思っています。……試すような真似をして、すみませんでした」
「ふっ」
イヴは喉の奥で小さく笑った。
「そなたは本当に、あの男を好いているのだな」
「――ええ。この身を、捧げた相手ですから」
身を捧げた。
どういう意味かまでは、あえて問い詰めなかった。
いずれにせよ、
「あれはここで失うわけにはいかん男だ」
失う確率すら上げるべきではない。
その考えに無欠の根拠はない。
けれど、本能がそう告げている。
黙って会話を聞いていたリズの小さな頭に、手を乗せる。
「セラスの言うことをよく聞くのだぞ、リズ」
「おねえちゃん……」
頭上の手をリズは両手で取り、握りしめた。
ギュッ
小さな手が力強く握り込んでくる。
その手は微弱に震えていた。
不安を覆い切れていない表情……。
失うことを、恐れている顔だ。
”行かないで”
リズのそんな心の声が聞こえてくるようだった。
「トーカ様を、お願いします」
「―――――――リズ」
心の中では引き留めたがっている。
しかしリズはひと言、あえてイヴを送り出す言葉を口にした。
イヴを引きとめたい気持ち。
トーカの身を案じる気持ち。
せめぎ合う二つの気持ちの中、リズは”イヴの気持ち”の方を汲んだ。
さらに言えば――トーカの身を案じる、セラスの気持ちも。
大人の気持ちを汲ませてしまったことを、イヴは申し訳なく感じた。
「……すまぬ、リズ」
リズは一つ頷いてみせた。
すべてを理解している表情で。
決意を胸に、剣を握って立ち上がる。
予備も含めた二本の剣。
セラスが居住まいを正した。
「約束してください。必ず生きて戻ると」
「――承知。改めてリズを頼むぞ、セラス」
「どんな手を使ってでも、守り抜きます」
イヴは少し意外さを覚えた。
セラスなら、
”命に代えてでも”
とでも言いそうな印象があった。
”どんな手を使ってでも”
「…………」
(これも、トーカの影響なのかもしれんな……)
▽
叩きつける雨の中、イヴ・スピードは洞穴の外へ踏み出す。
わかる。
近くではないが、残忍な獣性を備えたモノたちが近辺を跋扈している。
あらゆる感覚を研ぎ澄ましていく。
雨音の帳の向こう側で起こる音を拾う。
ミシッ
脚部の筋肉が、呼びかけに応じた。
熱い血液が全身を駆け巡っていく。
意思が、
身体が、
戦闘状態へと、移行していく。
「……グルルルルルゥゥゥゥ」
自らの唸り声。
己の内に宿る残虐な獣の”それ”が、久方ぶりに顔を出す。
(血闘士時代を、思い出す)
あそこにも”獣”と呼ぶべきモノたちがひしめいていた。
(ならば、今一度……)
何かを洗い流すように、雨を吸った体毛から雨粒が滑り落ちていく。
両手の剣の柄を硬く握り締める。
「今一度――獣へと、戻ろうではないか」
▽
ブンッ!
片手で握った大剣を、力の限り振り切る。
魔物の身体が真っ二つに断裂する。
絶命した魔物の死体は、錐もみ状態で宙を舞った。
くるくる回る血駒には注意を向けず、イヴは踵に力を入れて跳躍した。
すぐさま動いたのは他に突進してきた魔物がいたためだ。
今、イヴはその魔物の頭上へと跳んでいた。
手首で柄をくるっと返し、大剣の刃を下方へ向ける。
そのまま落下し、目下の魔物の脳天を刃で貫く。
ザクッ!
脳天に深々と突き刺さった刃。
足裏で魔物の頭を押さえつけ、その刃を勢いよく引き抜く。
血塗れの魔物の死体。
イヴは片手でそれを引っ掴むと、
ブンッ!
その死体を思い切り投げ飛ばした。
死体はやや遠くの木の幹に激突。
激突音と血のニオイを他の魔物に対する囮とする。
時間稼ぎ。
忙しなく、イヴは視線を移動させた。
何一つ見逃さない。
想像以上に辺りに魔物が増えている。
おそらくトーカの追跡を断念した魔物たち。
この数となるとすべて隠れてやり過ごすことはできない。
想定してはいたが、いくつかの交戦は避けられなかった。
ただしこれまで遭遇したのはせいぜいが中型程度。
大型とは今のところ遭遇していない。
遠目で確認しても、接近は避けている。
休む間はない。
イヴは身を低くした。
四足歩行に近い体勢で素早く移動を開始。
トーカを追うのは難しくない。
激戦の爪痕。
それらがトーカへと通ずる道しるべを敷いてくれている。
痕跡は直線的ではなかった。
通り過ぎる戦場痕を見るに、すんなり勝利を重ねてはいない。
痕跡も途中から方角がバラけている。
どの痕跡から追うか?
(――総当たりだ)
頼りは音と気配。
(追う中でそれらが増幅する機が、どこかであるはず……)
先ほどから近づいてきている気配へ意識をやる。
魔物の気配。
予想通りの機で茂みから魔物が飛び出してくる。
飛び出しに合わせ、刃を振る。
魔物は、一振りで真っ二つになった。
そのさまは、まるで最初から斬られるのが決まっていたかのようだった。
イヴは続けざま、
ヒュンッ!
振り切った勢いを利用し、もう一本の予備の剣を投擲。
「――げ!? ヒょゴろゥぇェえエえエえエえッ!? ぅ、ゲ……」
茂みの向こう側に潜んでいたもう一匹に投げた刃が到達。
間をおかず、悲鳴の方へ疾駆。
走り抜けざま、息絶えた魔物から刃を引き抜き予備の剣を回収する。
泥を飛ばしながら、そのまま駆ける。
横殴りの雨でも速度は落ちない。
前方――太い木の枝の上に、蜘蛛型の魔物。
再び予備の剣を投げる。
と、横合いから別の魔物が飛び出して来きた。
速度を落とさず、一刀にて切り伏せる。
跳躍。
目指すは前方の太い枝。
刃の刺さった蜘蛛型の魔物から刃を引き抜き――着地。
ズザァァァァッ!
そして泥の上をそのまま滑りながら、
ガッ!
泥下の硬地を踵で踏み、再び速度に勢いをつける。
人面種や大型でなければやれる。
かつて逃げ帰った時よりも戦えるようになっている。
血闘士としての日々は、戦士としての成長を促してくれた。
「――――――――」
またも、魔物の気配。
が、
(……なんだ?)
一つ”何か”が違う気配があった。
(トーカ? しかし、気配を感じとりづらいピギ丸はともかくスレイの気配がまるで感じ取れぬ……)
確かめねばなるまい。
速度をさらに上げる。
途中、羽を広げかけた甲虫に似た魔物を一閃で処理。
問題はこの先。
あごを低くし、極力気配を消す。
(なんなのだ、この気配は? 魔物とは違う……が、トーカとも何か――)
伝わってくるのは怯えの気配。
非金眼の魔物だろうか?
とすれば、珍しい。
ここだと普通の魔物とは滅多に出遭わない。
が、いないわけではない。
(この怯えぶり……我の姿を晒し、攻撃的な唸りで威圧すればこの場を去るかもしれん)
イヴは、茂みから姿を現した。
ガサッ
「グルルルルルルゥゥゥゥ……ッ」
「――――あ」
目を瞠る。
「……何? こんなところに――人間、だと?」
怯み切った目で見上げてきたのは、小柄な人間の少女。
縮こまるその姿。
その姿がふと、リズと重なった。
と、イヴは反射的に手を伸ばしていた。
リズを落ち着かせる時、頭や肩に手を置く。
濡れ鼠となったその少女はとても弱々しかった。
だからその動作は、まるで習慣のように――
「【雷撃ここに巡る者】――【壱號解錠】」
――ピリッ、ッ、バチッ、バチチッ――
火花散らす電撃が、刹那を奔った。
絡み合う雷撃の路。
それが、一瞬にして敷かれた。
ひと呼吸にすら満たぬ間による肉薄。
瞬く間に現れた”それ”が繰り出したのは――
蜂の針がごとき、刺突。
しかし、かろうじてイヴは刃で刺撃をいなす。
両者の刃が交わった直後、帯電する”それ”が短い驚息を漏らした。
「――こいつ、反応しただけじゃなく防ぎやがったのかッ!? なんだ、こいつ……ッ!? 姉貴の話じゃアタシのコレに反応できそうなのって、女神か、他の国の名の知れたやつらか、S級勇者くらいだろうって話じゃなかったか……ッ!? けど、この距離じゃ――」
「そな――」
「【弐號、解放】」
――ビリッ、バチチッ――
「ぐぉ、ぉっ!?」
「アタシの雷撃からはもう、逃げられない」
イヴの全身を暴性の雷撃が駆け巡る。
「ぐ、が……ぁっ、……、――ッ!?」
喉が反応しない。
言葉が、出ない。
「悪ぃーな……姉貴の言いつけで、鹿島を殺らせるわけにはいかねーんだ」




