悩みの種
◇【イヴ・スピード】◇
イヴ・スピードは血闘場に戻った。
門の前に馬車がとまっていた。
見覚えのある馬車。
傭兵ギルドの支部長のものだ。
他にズアン公爵の馬車も確認できた。
明日の血闘は運営側にとっても大事な一戦。
前日の打ち合わせでもしているのだろう。
「…………」
門をくぐって血闘場の中に入る。
血闘場の端に設けられた居住区。
原則として血闘士はここを住まいとしている。
金はかからない。
食事も提供される。
奴隷と比べれば格別の扱いである。
しかしその一方で明日とも知れぬ命。
血闘士は命を差し出して衣食住を得ていると言える。
イヴは廊下を抜けて自室へ戻った。
入るなり自室の寝具に寝そべる。
彼女は天井を見上げた。
(胸騒ぎが、おさまらぬ)
明日が最後の血闘だからではない。
原因は明白。
あのハティという男と話したせいだ。
自由の身を得たその翌日に殺された血闘士の話。
想い人を買い戻そうと戦った者……。
(我と、似ている……死んだ血闘士の想い人のあの話……)
すべて仕組まれていたのだろうか?
彼女をズアン公爵が手に入れるために。
灯った疑念の闇は膨らんでいく。
(やつはたまに、あの子の話をしていた)
『あの子の成長がワタシも楽しみで仕方がないよ』
『いやぁ、将来が楽しみだねぇ』
『しかし君にしか懐いていないのが気になるなぁ』
『今はまだいい。だが、いずれは君なしで自立すべきだと思うがね』
『ワタシが信用できる男だと君から言ってやってくれないか?』
これまではさほど気にしていなかった。
(だが……)
今は引っかかりを覚える。
目をつむって、イヴは迷いを遠ざけた。
(惑わされるな……これは、魔女の情報を得るためにあの男が仕掛けた詐術に違いない……)
ハティと名乗った男。
不思議な男だった。
丁寧な物腰とは言えない。
言動も公爵の方が丁寧と言える。
(だというのに、なぜかハティという男の方が誠実に感じられる……)
ハッとして思い直す。
(馬鹿な)
公爵だってこれまで約束を守ってきたではないか。
それにイヴは公爵に多大な貢献をしてきた。
所有者に莫大な利益を与えてきたのだ。
(我は十二分に所有者への義務を果たした。やつも満足なはずだ。これまでの貢献に対する慈悲くらいは、持ちうるはず……)
『今の言葉を投げかけていたのは、本当は自分自身に対してじゃないのか?』
ハティのあの問い。
途中で自分の言葉に一つの変化があった。
イヴはあとでそれに気づいた。
信じるもの。
ズアン公爵。
傭兵ギルド。
自分は最初その二つの名を口にした。
しかし途中で別の言葉に置き換わっていた。
(そう……気づけば”血闘の世界”に置き換わっていた。ズアン公爵や、傭兵ギルドではなく)
姿勢を横にする。
(内心、我は公爵や傭兵ギルドを信じていない――そういう、ことなのか?)
胸のざわつきが鎮まらない。
どころか時間が経つほど大きくなっていく。
穏やかに暮らす。
(そんなにも、大それた望みなのだろうか……)
夢見た幸せな未来。
(あの子と二人で、ひっそりと平和に暮らす……我はもう、戦いなどしたくはない……)
客を喜ばせるための戦い。
見世物としての戦い。
残虐に殺せば殺すほど、客は喜んだ。
比例してたくさん金も得られた。
しかしもはやそこに戦士の誇りはない。
(今まで戦い続けられたのは、あの子の存在があったからだ)
でなければとうの昔に自害でもしているだろう。
もはや豹人の戦士としての誇りは消え去った。
道化と化した戦士。
それでもいい。
覚悟を決めて、戦い続けた。
(だがもし……あの子を公爵が、狙っているとすれば――)
具合が悪くなってきた。
混乱しているのがわかる。
イヴは強く目を閉じた。
しかし眠気はさっぱり訪れない。
原因は、わかっている。
「…………」
(この疑念を、消し去りたい)
寝具から起き上がると、イヴはそっと部屋を出た。
▽
血闘場の二階の廊下にイヴはいた。
二階部分にはズアン公爵の自室がある。
公爵の自室前には男が一人立っていた。
私兵長コステロ。
彼はズアン公爵の腹心だ。
鉄のような印象を持つ男である。
公爵に逆らった者を何人も殺してきたと聞く。
イヴの最後の血闘相手として市民が望む一人でもあった。
つまりそれほど強い戦士というわけだ。
周囲に他の者の気配はない。
「…………」
コステロがいるため扉には張りつけない。
イヴは廊下の角に背をつけた。
ここならコステロからは見えない。
公爵の自室からここは少し離れている。
が、会話内容は問題なく聞こえた。
豹人は人間より耳がいい。
離れていても集中すれば室内の聞き取れる。
耳のおかげで人間の気配も感知しやすい。
ハティらの尾行に気づいたのも耳のよさゆえだった。
(まあ、向こうも我が気づいていることに気がついていたようだがな)
「…………」
自分はなぜ今ここにいるのか?
イヴは己へ問うた。
そう――確認したいからだ。
公爵やギルドを本当に信じていいのかどうかを。
最初は部屋を訪ねて直接確認を取ろうとした。
明日勝てば、本当に自由の身になれるのか?
そう尋ねようとした。
が、しなかった。
真実を話すとは思えなかったからだ。
(我はすでに……やつや傭兵ギルドを、疑ってかかっている……)
自分に少し驚きつつ耳に意識を集中させる。
室内の会話が聞こえてきた。
イヴはしばらくの間、会話を聞いていた。
怪しい内容はない。
ほとんどが明日の最終確認のようだ。
明日の相手は多少強そうだが問題あるまい。
運営側も強い対戦相手くらいは当然用意する。
(ふぅ……)
卑劣な企みなど存在していない。
胸のつかえが取れた気分だった。
ホッとしたイヴはその場を離れようとした。
「ところで――イヴ・スピードは予定通り、確実に死ぬのですね?」
ピタッ
イヴの足が、止まる。
「もちろんですとも。これまで通り、血闘前に痺れ薬を飲ませる予定です」
支部長の問いに公爵がそう答えた。
「ふふふ、最後の血闘前に儀式として取り行う” 禊ぎの杯 ”……あれはとてもよい案でしたな」
禊ぎの杯。
最後の血闘前にだけ飲む儀式用の酒のことだ。
酒を飲んで激しく動き回ると思考が鈍る。
最後の血闘は命を落としやすい。
原因は酒の影響だとも言われている。
しかし儀式的な取り決めなので拒否はできない。
それでも酒程度ならば問題ない。
イヴには自信があった。
が、酒だけではなかった。
(薬を混入していたのか)
全身の毛が逆立つ。
「弱めの痺れ薬なのが肝ですな。あまりにも強い痺れ薬だと、観客も違和感を抱きますから」
「客が見たいのは小細工なしの純粋な殺し合いですからなぁ……小細工がバレたら気前よく金を落とさなくなる。やれやれ、小金持ちの市民というのは面倒なものですよ」
「イヴは、もう血闘士を続けるつもりはないと?」
「誘いはしましたが……もう足を洗うと突っぱねましたよ。このような戦いはもう続けられないとか、クソみたいなたわごとを言い出しましてなぁ。完全にふざけてますよ」
「もったいないことです。あれほど客の喜ばせ方を知っている血闘士も、なかなかいませんからね」
「強すぎるゆえにああいうナメた戦い方をする余裕があるのでしょうなぁ。いやしかし、少々ワタシも甘やかしすぎたかもしれません。はぁ……せっかく小汚いヒトもどきに輝ける場を用意してやったのに、まさか不義理を働くとは……」
「所詮は獣ですな」
「ですが獣ゆえに、よい使い道があります」