強がりのふりだし。
酔いのせいか、頭痛がする。わざと何もないふりをしたまま、善彦は自室の扉を開けた。家族三人がそこに揃っていた。気まずさに耐えきれなくなる前に、由実子が手帳を眼前に突き付けた。
「ここ、候補日にしたいのよ。有休の申請しておいてね」
「決定事項なのか……」
「そのくらいじゃないと、あなた有休の取得もなかなか言い出さないでしょ?」
う、と善彦は言葉を詰まらせた。それはそうだ。今まで有休の消化率が悪かったのは、忙しい時期だからと遠慮するばかりで上司にもちっとも声をかけられなかったからでもあって。
そうでしょとでも言いたげに由実子が小首を傾げた。有休の交渉すら周囲に背中を押されないとできないような、そんな弱気な人だってこと私が知らないとでも思っているの? ──少し細められた目が、そんな風に語っている気がする。
「いいのか、純弥も明奈も」
やり場のなくなってしまった視線を、善彦は二人の子供たちに向けた。
しょうがないじゃんとばかりに、純弥が口を尖らせる。
「父さんがいなかったら、遊園地行けないし……」
明奈は反論を諦めたのか、今度は何も言わない。その目が善彦の顔を見て、視線がきれいに一致して、善彦が視線を逃がそうとする前に明奈は口を開いた。
「前から言いたかったんだけどさ、部屋で寝てばっかりだと太るよ? そーゆー人あたしのバイト先にもいるんだよね。自分の父さんが家にこもってばっかりでぶくぶく太るのとか、あたし、嫌だからね」
それから少し口角を釣り上げて、笑う。
明奈も、純弥も、それから由実子もそうかもしれない。久しぶりにこんなに近い距離で表情を観察した気がした。近い距離から見た三人の顔付きに思わず違和感を覚えてしまったのは、たぶん、思っていたよりも冷たさがなかったからか。
沈黙の中で家族に見つめられること、十秒。善彦はついに白旗を上げざるを得なかった。
「……分かったよ。有休を取れないか、聞いてみるよ」
「よっしゃー! 遊園地だ! USJだ!」
純弥が満面の笑みで叫んだ。だから横浜っつってんでしょと、口許の笑いはそのままに明奈が反論を再開した。
何のことはない、大阪の遊園地に遊びに行きたい思いを自分の口で訴えたかったから、こんな時間まで純弥は起きていたのだろう。駆け足で居間に戻っていく二人の背中をぼうっと眺めていると、その肩を由実子がつと、押した。
「ほら、あなたも突っ立ってないで。夕食はどうする? 食べるの?」
「俺の分、あるのか?」
「何言ってんのよ。なかったら声なんてかけないでしょ」
由実子の声にも笑いが混じっていた。呆れ笑いかもしれない。それとも……善彦が無事に折れてくれたことに、胸を撫で下ろしてでもいるのだろうか。
押されるに任せて廊下を歩きながら、不思議だな、と善彦は思った。
帰宅途中と今とでは、笑顔の意味がまるで真逆に感じられることが。
買い物帰りの二人連れの女性から足早に遠ざかっていた時、車内で必死に寝ているふりを貫こうとした時、心配してくれた女の子の表情を逆光の中に見つけた時──今にして思うと、あの瞬間の善彦の感情はどれも違っているようで、まったく同じものだったような気がする。
そして、その感情を表せる言葉があるとしたら、それは『不安』なのだろうかと思う。
きっとそうなのだ。だって、妻や子供たちがほんの少しの笑顔を覗かせただけで、こんなにも心が落ち着いている自分がいる。
(もう長いこと、家族が笑顔でいるところなんて見てなかったもんな……)
善彦は思った。もしかすると本当は、それすら事実ではないのかもしれない。由実子たちが笑っていなかったのではなくて、それを善彦の目が捉えることができていなかっただけなのかもしれないわけで。
仕事の苦しみも、家族との関わり方を掴めないもどかしさも、この胸に抱え込んだ悩みは何一つとして解決したわけではないけれど、少なくとも自分は家族に忘れられていなかった。そしてどうやら今もなお、笑いかけてもらえるに値する存在ではいられているみたいだ。たったそれだけの些細なことが、今こうしてみんなの集まる居間に向かう足取りを、それまでの何倍も軽くしてくれている。
家族だって人間なのだから、毎日のように顔を合わせていれば不機嫌な日や遠ざかりたい日だってあるだろう。家族とはもう上手くやっていけないなんて悲嘆するのは、まだ少しばかり、早すぎるのかもしれないのだ。
(俺……もう少しだけ、強がってみようかな)
背中から伝わる温もりを感じたその一瞬、そんな風に思ってしまったのは、善彦がその程度の覚悟しか持っていないからなのだろうか。言ってしまえば『チョロい』だけなのだろうか。……或いは、それとも?
明るく照らされた居間のドアに、何気なく手をかけた時。
『ただいま』
なぜか胸の奥で、いつか自分の耳で聞いた誰かの声が響いた気がした。
もしかすると、強くて、優しくて、不安なんてちっともないように上手く見せかけていたのかもしれない────それでも大好きだった、あの声が。
……別に偉大である必要なんてないのに、頑張って胸を張る必要なんてないのに。ついつい頑張りすぎてしまうのかなって、自分の父親の背中を眺めながら感じたのが、この作品を書こうと思ったきっかけでした。
支離滅裂な文章ですみませんでした。どんなに時間を継ぎ込んでも、ちっとも上手くまとまらなくて……。
いつも勇気が出なかったり、タイミングがつかめなくて言い出せないけれど。
たまには「いつもお疲れさま」なんて声をかけてみたくなるのです。
お読みいただき、ありがとうございました!
2017/3/03
蒼旗悠