強がりのろく。
深夜の冷気で凍てついたドアの鍵穴に、そっと鍵を差し込んで回す。なるべく存在感のないように。その方が傷付かなくても済むと、経験則で知っている。
取っ手を握ってドアを開いた善彦は、脱いだ革靴を玄関土間の端に追いやって、廊下の先を見つめた。結婚して間もなく入居し、以来十数年間も眺めてきた、玄関から居間まで続く廊下の景色だ。今日も昨日も一昨日も、その距離は実に遠い。
その居間の扉が開いて、ショートカットの女性が顔を覗かせた。由実子だった。
「お帰りなさい。遅かったのね」
「……うん」
頷いてから、ただいまと言いそびれたことに今更になって思い至ったが、由実子に先にしゃべられてタイミングを見失ってしまった。
「メール送ったんだけど、見てくれたかしら」
見ていない。帰り道にスマホを起動することすらしていない。
善彦は首を横に振った。由実子の目に、不満の光がちらりと映った。
「大事な連絡しているかもしれないんだから、メールの確認くらい……」
「ごめん」
小さな声で謝って、頭を下げた。
由実子のため息が聞こえる前に、廊下に面した自室のドアを開けた。特に理由もなく、由実子と善彦は別々の部屋で眠っている。こういう時は逃げ込む先が近くて助かる。
メールなんて確認できるはずがないじゃないか、あれだけ混んでる通勤電車の車内でスマホなんか使ってたら大迷惑だ──。つい思い浮かんだ言い訳は、ばたんと閉じたドアの向こうに消える。ろくに整理整頓の行き届いていないベッドの上に鞄を置き、スーツの上を脱いでハンガーにかけていると、由実子の足音が部屋の前までやって来たのが聞こえた。
「ねぇ、それでメールの件なんだけど」
「まだ見てないんだ──」
「今、見て」
善彦の抵抗は最後まで口にすることさえ許されなかった。
渋々、スマホの画面を点けてみる。由実子からのメールは午後九時頃に送られてきていた。【子供たちが春休みの間、どこかに遊びにでも行かない?】とある。
駄目だ。文面を見た瞬間、心の中に障壁が立ち上がった。
「私もちょうど三月、受け持ってた患者さんが一段落するのよ。だからまとまって休みが取れるかもしれないの。あなたも有休の消化、まだ済んでないでしょ?」
扉の向こうで由実子が何か言っている。うんとかああとか、そんなような返事を善彦も返した。
遊びに? ──冗談じゃない。純弥や明奈が、帰り道に出会ったあの男の子や女の子のようであるならともかく。見も知らぬ他人にさえ気を配れるほど、優しくて素直な子供だったならともかく。
「二人は何て言ってるんだ」
由実子からの返答がないので、ワイシャツのボタンを外しながら尋ねた。答えの代わりに、居間の方からやかましい声が飛んできた。
「ねー父さん、オレ大阪のUSJ行きたいんだよー! なのにねーちゃんも母さんもちっとも聞き入れてくれねーんだけど!」
「だから絶叫マシンは嫌だって言ってんでしょ! あたしは横浜に行きたいの! 買い物とか中華街とか!」
まだ中学生の純弥がどうしてこんな時間まで起きているのか……。分かった分かったと、善彦は口許だけで苦笑いを作ってみた。これであの男の子の感慨に少しは手が届いたかな、なんて考えてみる。
「俺にまくし立てられても決められないだろ。いつも通りお金は出してやるから、三人できちんと話し合って決めるんだぞ」
すかさず由実子が口を挟んだ。「四人よ」
「俺はいいよ」
「駄目。今回はあなたも来るの」
いつもと違うその口調に、思わず部屋着に着替える手が止まった。
なんで、また。いつもはすんなり『分かったわ』と言ってくれるではないか。
「……明奈はもうオトナなんだし、由実子がいれば保護者の手は足りるだろ」
居間まで届かないように声を絞って、善彦は尋ね返した。「それに明奈も純弥も、俺がいたら思うように楽しめないだろうし」
「どうかしら。杞憂かもよ」
意味の分からないことを言う。
部屋着に着替えたはいいものの、この空気の状態では夕食を食べに居間に行くのも気が引けて、善彦はベッドに腰掛けた。スプリングの効きの悪いベッドでよかった。電車内の揺れと酔いの気持ち悪さを、危うくいっぺんに思い出す羽目になるところだった。
その硬いベッドの上で、扉の向こうから飛んできた由実子の言葉が重たく跳ねた。
「前からずっと聞きたかったんだけど、土曜日も日曜日もそのベッドで眠ってるばっかりで、それできちんと疲れが取れてるの? 月曜日のあなた、いつも目の下に隈作って出勤してるじゃない。看護師の目は誤魔化せないわよ」
「…………」
「たまには趣向の違う『休日の使い方』、試してみてもいいと思うのよ。私」
「…………」
何をどう答えていいのか分からなくて、善彦は黙っているばかりだった。
確かにそうなのかもしれない。そもそも善彦だって、ベッドで眠ることで効率的に疲れを癒やせるだなんて打算をしていたわけではない。
でも──。またしても始めかけてしまった言い訳の構築を、すぐ近くで響いた純弥の声が掻き消した。
「ねーお願いだよぉ。姉ちゃんも母さんも絶叫マシン苦手って言うばっかりで、オレちっとも遊園地行けてないんだよー。父さん絶叫系も大丈夫だって、ずっと前に言ってたじゃんかぁ」
「遊園地なんか友達と行けばいいでしょ! それよりさぁ、中華街にあるトリックアートの博物館、四人以上の家族で行くと割引料金になるんだって!」
子供たちまでドアの前に来たらしい。
ああ、もう。善彦は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。純弥も明奈も自分の都合ばっかりじゃないか。今回は父親が随伴していることでたまたま自分に得があるんだろうが、いつもはこんな風に声をかけてきたりしないじゃないか。普段は好き勝手に父親のことを遠ざけているのだから、今回は耳を塞ぐ権利をこちらにくれたっていいじゃないか──。
その時、『普段から自分は耳を塞いでいる』ということに善彦が思い当たるまで、そう長い思考は必要ではなかった。