強がりのご。
そして、それが引き金になったようだった。
「おえ……っ!」
瞬時に込み上げた吐き気に耐えられず、善彦は道端に思いきり吐いてしまった。
どう考えても馴れない酒の飲み過ぎが原因だった。喉の奥から引きずり出されるように、昼に食べたものがアスファルトに散らばった。しかも吐いた途端に力が抜け、善彦は危うくその上に手をついてしまうところだった。寸前で間に合ってよかった。……間に合っていなかったら、もう今夜は家になんて帰れない。
「げほげほっ、ごほっ」
まともな息すら叶わず、その場で何度も噎せた。おかげで、その背中に声がかけられたのに、気づくのが少し遅れてしまった。
「だ……大丈夫ですか!?」
振り向くと、通りがかりらしい制服の女の子が、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
大変な、否、とんでもなく恥ずかしい姿をさらしてしまった。善彦は慌てて飛び退こうとするが、吐いたばかりの善彦にはそんな力すらも残っていない。よろよろと覚束ない足取りで位置を変えるのがやっとである。
制服を見る限り、明奈と同じ女子高生なのか。夜の光の下では制服の区別などつかないが、ともかく女の子はいそいそとハンカチを取り出して、善彦に差し出す。
「これ、使ってください!」
とんでもない、汚してしまう。
「いや……いいよ、ごほげほっ」
「じゃ、じゃあ水とか要りますか?」
「大丈夫……だから」
善彦も必死だ。この道は恐らく、明奈も帰宅に使うであろう道。この女の子に見られてしまったのはもう仕方がないとして、明奈にまで発見されるわけには絶対にいかないのだ。そんなことになれば、もう──。
けれど女の子の根性には勝てなかった。
「私、近くに交番があるの知ってます。お巡りさんに来てもらうので、そこにいてください!」
言うが早いか、女の子は鞄をしっかりと抱え、どこかへ向かって駆け出して行ってしまった。引き留める暇など、善彦には与えられなかった。
「…………」
そうと知ったらまたしても力が抜けてしまって、吐瀉物を避けるようにして善彦はそこに座り込んだ。彼女の好意ばかりがひしひしと感じられて、そのせいで怒りを燃やすこともできない。とにかく早く戻ってきてくれ──そう願うしかない自分が、情けない。
女の子の言葉は嘘ではなかったようで、すぐに女の子は警官を引き連れて戻ってきてくれた。
たかだか道端で吐いただけだというのに。そんなもの、飲み会の多い金曜日の深夜には東京のあらゆる場所で見られる光景ではないか。気恥ずかしいやら情けないやらで、善彦はずっと俯いていた。警官はそんな善彦を一瞥して、呆れたように声を上げた。
「ありゃあ、こりゃ派手に吐きましたね」
警官の顔を善彦はまだ見ていないが、嫌そうな表情であろうことは見なくても分かる。だいたい、そういうのは声色である程度の察しがつくものだ。胃液の臭いなんて誰も好まない。
「お父さん、意識あります? 大丈夫ですかね?」
「ええ、まぁ……」
「なら、良かった。飲み過ぎたんでしょう」
ぴたりと真実を言い当てられた。ぐうの音も出ない善彦は渋々、頷く。
警官の声に、少しばかりの柔らかさが戻ってきた。
「飲むのを止めはしませんけど、量はほどほどにしてくださいよ」
まったくだ、と善彦も思う。この場に上司がいたら、まとめて怒ってくれたのに。
「喉の調子は大丈夫ですか、詰まってませんか。必要なら、交番から水を持ってきますが」
「……いえ、いいです」
「それならいいんですけど。ちゃんと歩いて帰れますね?」
自信はなかったが、これも善彦は首を縦に振った。
警官も女の子も、ほっとしたようだった。よかったぁ、と女の子が声を弾ませて、その段に至ってようやく善彦は顔を上げた。
二人の顔はちょうど街路灯の逆光になっていて、酔漢の目には表情はよく判別できなかったけれど──。ただ何となく、安堵したような空気をその顔付きに感じ取って、申し訳なさばかりがいっそう募った。
警官が交番へ戻っていき、女の子も何度もこちらを振り向きながら立ち去って、善彦はまたしても一人になった。
あのくらいの女の子に声をかけられたことなど、いったい何年振りになるだろう。そんなに心配してくれたんだなと、改めて感じた。でなければ普通、吐いている通行人になど見向きもしないはずだ。自分だって普段なら見ないふりをして通り過ぎる。だいたい深夜の酔っ払いなど、一歩間違えば犯罪者予備軍にもなり得るだろうに。
ありがとう、と善彦は無言でつぶやいた。それからすぐに、急に寂しくなった。
家に帰りたいという気持ちが、ここへ来て一気に消え失せてしまった。
まだ不快な臭いの残る地面から立ち上がって、善彦は深呼吸をした。いつもの通りならば、そうすることで身体に力が漲るのに、今はすうと抜けていってしまいそうになる。それからついでに、意欲までも。
(遅くなってもいい。ゆっくり帰ろう)
そう決めた善彦は、さっきよりもずっと遅いスピードでよろよろと歩き始めた。
木々や連なる屋根の向こうに、病院の大きなシルエットがぼんやりと浮かんでいる。由実子の勤務する病院はあれではないが、建物のそこかしこに煌々と灯る照明は、病院という職場に完全な夜は訪れないことを教えてくれる。
この道をさらに進み続ければ、団地の先に純弥の通う市立中学校がある。
四人家族の動線の重なる行く手にあるのが、家族の象徴──家だ。ここまで来てしまえば最早、残りの距離は数百メートルもない。
でも今は、その家が善彦には途方もない彼方の建物に思えてしまって、仕方なかった。
一歩、一歩とアスファルトを踏みしめるたび、帰り道で出会った人々の浮かべていた笑みが、かわりばんこに脳裏で瞬いた。
父親とは、どんな存在だっただろう。どんな存在であるべきなのだろう。
ステレオタイプな父親像がどんなものか善彦は知らない。そうであってもこれだけは言えた。少なくとも、善彦が幼い頃から見てきた父親の姿はもっと寡黙で、もっとどっしりとしていて、どんなことにも動じない強さと落ち着きを持っている存在だったように思う、と。
毎日の苦労は誰にだってあるだろう。大人とは苦労の絶えない生き物なのだと、当の自分が大人になってみてようやく知った。けれど、父はそれを苦労の現場の外に持ち出しだりはしなかった。仕事の愚痴を家では溢さない。なんにも文句を言わず、家族サービスだってしてくれる。善彦の父親はそういうことができる人だった。会社のドアを出た瞬間、電車を降りた瞬間、或いは家の扉を開いた瞬間──そこにはいつも、強くて優しい父親の姿があった。
比べれば比べるほど、善彦とは正反対である。
毎朝、六時に起きて、ほとんど会話らしい会話を交わす間もなく家を出、満員電車に揺られて会社へ出社。当たり前のように残業が積まれるデスクで深夜まで仕事に終われ、下手をすると今日のように積み残しを持ち帰り、家に帰ると待ち受けているのは由実子。その由実子とも事務連絡のような会話しか交わさず、あとはぐったりと寝落ちてしまうか、もしくは自室にこもって仕事の続きに取り掛かる。
休日は溜まりに溜まった疲労を消化すべく、布団の中に沈むようにして眠ってばかり。有給を取って旅行に行ってもまるで楽しくなく、ここ二年ほどは由実子に子どもを連れて旅行に送り出すだけで、善彦は家でじっとしているようになった。
いずれマイホームを買いたいね。由実子とそうやって話し合った時期が、善彦にもあったものだった。でも結局、善彦の賃金待遇がさして改善されないまま、今となっては購入の計画もなし崩し。
辛うじて明奈を私立の学校に入れてあげる資金は調達できたものの、純弥の高校の分がどうなるかは不透明なまま。
純弥は言うことを聞いてくれず、明奈は相手にしてくれず、由実子には頭がいっこうに上がらない。
これが、何も包み隠すことのない、善彦の実情だ。
いつからだろう。帰宅という行為が、こんなにも楽しくなくなったのは。家に入るというだけの行為に、こんなにも抵抗感を覚えるようになったのは。歳のせいでは──ないはずだ。
(俺、どうしたいんだろう)
立ち止まった善彦は下を向いて、くちびるを噛んだ。冷たい色をしたアスファルトに、自分の影は吸い込まれていった。
全くもって、情けない一日だった。そもそも仕事の処理速度が遅いから、自分だけ積み残しを出してしまうのだ。いい歳の男のくせに酒も飲めず、そのくせ薦められると断り切れずに悪酔いし、ついには吐いてしまう。自分より無理をしているであろう男の子は席を譲ったのに、自分は譲らなかったばかりか言い訳を塗り重ね、知らんぷりを突き通してしまう。挙げ句、家族の冷たい待遇を予期して、帰宅したくないなどと思ってしまう。
これが、父親だなんて。呆れを通り越して笑えてくる。一家を支える大黒柱たるような稼ぎもなく、仕事に対する誇りもなく、自慢できるような何かもない。それに何より今の善彦にとって、家族との関わりは恐れの対象でしかないのだ。
また明日も。明後日も。また次の日も、そのまた次の日も。ずっとこんな日々が続くのか。
だとしたら、どこで間違えた?
何を間違えた?
「…………っ」
黙っていると余計に先が見えなくなる。唇を噛んだ痛みで何かを堪えてから、善彦はまた一歩、爪先を前に向かって振り出した。嘔吐したせいで酔いが完全に醒めたことが、かえって今は、嬉しくなかった。