強がりのよん。
「はぁ」
いい大人も顔負けのため息を漏らした男の子は、それでもテキストを目で追い続けている。
疲れているのだろうか。いや、そんなのは誰の目にも明白だ。十時過ぎまで塾の中で勉強だなんて、この年の子供には負担が大きすぎるだろう。
窓を飛ぶように流れ続ける夜景、人が減るでも増えるでもない車内。代わり映えのしない光景に段々と飽きが来て、善彦はうとうとと居眠りを始めようとした。──男の子がすっくと立ち上がったのは、その時だった。
「?」
善彦が薄目を開けて見上げると、男の子はテキストをぱたんと閉じて、代わりに口を開いたところだった。
その口許に浮かんでいた疲労感が笑みで上塗りされる瞬間を、善彦はその目で間違いなく捉えていた。
「あの、どうぞ、座ってください」
見れば男の子の眼前に、老婆が吊革に掴まって立っている。電撃を喰らったかのようなショックが、善彦を襲った。ずっと周囲を眺めていたのに、老婆がそこに立っていたことに今の今まで全く気が付かなかったのだ。男の子の笑みの意味を理解するのに、今となってはコンマ一秒も必要なかった。
「あら、いいの?」
「はい。疲れてないので、大丈夫です」
テキストを胸に抱えた男の子は、気丈にもそう言い放つ。電車が減速を始め、その慣性で細い体躯ががくんと揺れたが、老婆は男の子の言葉をすっかり信じたようだった。
違う、そうではない。きっと気持ちを汲んだのだろう。
「そうかい、ありがとうねぇ。じゃあ座るわね」
斯くして老婆は善彦の隣に、ゆっくりと腰を落としたのだった。
座った瞬間のにこやかな笑顔が、善彦の目に焼き付いて離れなくなってしまった。善彦はすっかり目を醒ましていたが、わざと固く目を瞑って寝ているふりを通した。
いま車内を見回せば、他にも席を譲るべきお年寄りの姿はあったのかもしれまない。けれど善彦には、それをする元気も、勇気もないのだった。仮に譲ったところで、周囲の目にはこう映るに違いないのである。『ああ、あいつはあの男の子の真似っこをしたんだな』、と。
(……そうだ。俺は、疲れてるんだ。だから座る権利があるんだ)
車内が男の子に対する敬意の眼差しで溢れる中、欠けてしまった勇気の穴を埋めるように、善彦は自分に言い聞かせた。席の奪い合いの戦争に自分は勝ったのだ、それにここは優先席ではないんだから、と。
不思議なものだ。
就職して今年で二十五年。初めの頃はこんな程度の混雑なんてものともせず、吊革に掴まって帰宅していたのに。いつからこんなに体力を失って、我が物顔で座席に居座るようになってしまったのだろう。
善彦には思い出せないし、思い出したくもない。そんなことをしたって、歳を取るというのはこういうことなのなのか──なんて、嘆きたくなってしまうだけだろうから。
今はただ、ただ、手元の鞄が膝に食い込んで、重く感じる。
各駅停車の所沢行電車が清瀬駅に着いたのは、午後十一時を回った頃だった。
男の子と老婆はこの先まで乗っていくらしい。逃げるように善彦は車内を立ち去り、『もう戻って来るな』とでも言わんばかりの大きな音を立てて背後でドアが閉まった。
電車がホームを走り去っていく。尾灯に引っ張られるように吹き抜けた風を耳に感じて、しんと冷えた空気を吸い込んだ途端、善彦は一瞬の吐き気を覚えた。あの酒臭い嫌な感覚が、落ち着いたところに戻ってきてしまった。
「バスも、もう無いし……」
改札口を通りながら、ため息を漏らす。一キロ近くの道程を歩くしかなさそうのは明白だった。
東京都清瀬市は、都の北の端にある人口七万人の小都市だ。緑地面積が市域の五割近くを占める田園地帯で、駅前であっても決して賑やかとは言えず、特にこの時間帯にもなってしまえば街の景色は真っ暗である。人影さえまばらな深夜の街角に降り立つと、ふっと心の隙間から不安や物寂しさが忍び込んで来ようとする。
覚束ない足取りながら、善彦は家に向かって歩き始めた。どれだけ疲れていたって、帰り道は分かる。いつかきっと着くだろう。十何年も住んで歩いていれば、こちらが望まなくたって覚えてしまうものだ。
独りぼっちで家路を辿っている時、普通の人ならどんな感慨に浸るのだろう。やっと家に帰れるという安心感か、家族に会えるという期待感か──或いはそんなことを考える余裕もなく、ただ疲労感で凝り固まった肩を落として歩くだけなのか。
(……考えてみると明奈、こんな時間にいつも帰ってるんだな)
黒の世界に飲まれた空を見上げ、善彦はふと、我が娘のことを思った。
長女の明奈は、十七歳。新宿区の私立女子校に通う高校生だ。最近になって深夜アルバイトを始め、駅前にあるファストフード店で働いているという。善彦に対して事後報告だったのは言うまでもない。
──『うちの店、絶対来ないでね。家族が来るなんてマジで恥ずかしいから』
いつだったか、珍しく部屋を訪れた明奈に、その一言だけを叩き付けられて帰られたことがある。
由実子に対してはさほどではないものの、思春期の明奈は善彦に対してはあからさまに反抗的な態度ばかりを見せてきた。近頃は会話をあまりしたがらないばかりか、洗濯物は別々に洗おうとし、善彦の触れたモノには触りたがらず、挙げ句の果てには自室のドアに『勝手に入るな!』と書かれる始末。今でこそ受け入れられるようになってきた善彦ではあるが、はじめのうちはそれなりにショックを受け、戸惑ったものだ。
駅前から団地までの道は、決して明るくない。その気になりさえすれば、不審者や痴漢はどこにでも隠れて明奈を狙うことができるだろう。やっぱり、深夜バイトは高校生には危険じゃないのか──。そう言いたくても言い出せずにいるのは、ある意味、明奈の態度の硬化にすっかり諦めの念を抱いているからなのかもしれないのだった。純弥も明奈もさして変わりはしないのだ。自分の言いたいことは言おうとするくせに、善彦の言葉にはいっこうに耳を傾けようとしてくれない辺りが。
(昔はあいつも可愛かったのにな。俺が帰宅するとすぐに、パパ、パパーって、飛び付いて来たっけ)
周囲の風景に反射する靴音に、かつての明奈の元気で楽しそうな声の幻影が重なる。
遠くなる一方の、そればかりか薄れ消えてゆく一方のそんな記憶に、ふふ、と善彦は笑った。何の笑いなのかは分からなかったけれど、その一瞬、とにかく笑いたくなったのだ。