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強がりのさん。




 ──由実子のことを考えていたせいで、思い出したくないことを思い出してしまった。

 顔をしかめ、善彦は鞄を握る手に力を込めた。ああ、なんてつぶやいてみた。

純弥(じゅんや)の塾のこと、そろそろきちんと話し合わなきゃならないか)

 純弥というのは、今年で十三歳になる善彦の長男の名前だ。思春期に入った中学生の純弥は、最近は勉強を怠けては野球やサッカーに興じるばかり。善彦も由実子もそのことにずっと心を痛めていたのである。なにせ純弥の通信簿は軒並み最低評価ばかり。焦らない方が不自然だろう。

 四歳年上の長女の明奈(あきな)には、そんなことはなかったのだが……。ともかく、泣き言を言っている間に取り返しがつかなくなったら困る。ひとまずどこかの塾に通わせようと一致し、勝手に近所の学習塾に手続きを済ませてみたものの、肝心の純弥は嫌がるばかりでちっとも通ってくれない有り様で。

 とは言え、まだまだ元気いっぱいの年頃の子どもが、塾に素直に行きたいなどと思うはずはない。だからこそ、話し合わねばならないのだ。

 善彦はため息をついた。ついた拍子に嫌な息が口から漏れ、遅れて顔をしかめた。

 ホームで善彦を待っていた電車は、既に乗客で埋まっている。こうなると乗車も一苦労だ。押しくらまんじゅうのように背を向け、腕を張って身体を車内に押し込むのである。他人の感じる圧など気にしてはいられない。明日には自分がされる側になるかもしれない。

「よいしょっ、と……っ」

 何とかして善彦が乗り込んだところで、電車は出発した。

 ぎしぎしと軋む音を線路にこだまさせながらも、快調に滑り出した電車は西を目指して走っていく。




 善彦は、ここ東京の出身ではない。すぐ隣に位置する埼玉県で生まれ育ち、就職にあたって東京に出てきた身だ。

 由実子と出会ったのは、高校を卒業して社会人として働き始めて八年目の、二十六歳の時であった。

「私、すでに看護師として働いているんです。結婚しても仕事は続けたいと思うんですが、それでもいいですか?」

 お見合いパーティの折、そんな風に話していたのが今でも印象に残る。当時は高学歴や高収入よりも、由実子の美貌や、自分に興味を持ってくれているという事実の方が、善彦にとっては遥かに嬉しいことだったものだ。今だってそんなものに惹かれているつもりはない。

 善彦は都心に本社を持つ保険会社の社員。そして由実子は看護師。共に休みを取るのが難しい職業ではあったが、結果としては子どもたちの面倒の大半を由実子が見てきた。理由は単純で、由実子の勤務先の病院が自宅と同じ清瀬市内にあり、善彦と比べると何かがあった時に駆け付けやすかったから。──本当はそれだけのことだったのに、時が経ってゆくうちにいつしか由実子が子の世話をし、善彦はただ働くだけという分業が出来上がっていた。無論、現在進行形で。

 家計の管理も由実子の仕事で、家事の多くは子どもたちが負担している。だから、必然的に善彦には働く以外の仕事が残らない。


 思えば、善彦の家族からの存在の乖離が始まったのは、そのことを善彦が徐々に自覚し始めた頃だったのかもしれない。




 規則正しい音を刻みながら、電車は走り続けている。

 外はとうに暗闇の世界。ふと、窓に映った自分の顔に気がついた善彦は、それをじろりと眺めてみた。

 優しそうにも、ましてや頼り甲斐がありそうにも見えない、なんとも情けない顔がそこには据えられている。もっとも、朝に家を出ていく時の顔と見比べたところで、さして大きな違いは見当たらないわけだが。

(これが父親とはな……)

 善彦は声には出さずに、そう思う。

 大きな街に着いたようだ。減速する車窓の向こうに、眩しい明かりがたくさん灯っている。少しして、蛍光灯の光に煌々と照らされたプラットホームが目の前に現れると、善彦の顔はあっという間に見えなくなってしまった。かえって救われたような気持ちになって、善彦は窓から目を離した。

──『石神井公園、石神井公園……』

 ホームのアナウンスが高らかに駅名を告げ、どっと人が降りていく。

 折しも、善彦のすぐ近くの座席に腰掛けていた会社員が、鞄を手にして立ち上がった。池袋からずっと舟を漕いでいて、降りる駅に着いたのに気付くのが遅れたらしい。目の前にひとつ、空っぽの空間が生まれる。

(座ろう)

 善彦はすぐに動き、席に腰を下ろした。ためらっていたら他の人に取られてしまう。通勤電車の世界はシビアなのだ。

 カバンを足元に置くと、座席からじわりと安心感が身体に染みてきた。目的地の清瀬駅までは、残り四駅ほどか。これで少しは駅からの徒歩の分の体力を稼げるだろうか。

 酒臭くないかどうかを確かめてから、ふーっ、と善彦は息を吹いた。乗降客の流れが収まったところで電車は再び走り出し、さらに西へ西へと一目散に向かう。


 隣の席に座っているのは、塾帰りらしき男の子だった。

 さては小学生か。手にして読んでいるテキストに『小六理科』の文字があるから、見立てに誤りはなさそうだ。おまけに背中には塾のロゴマークのついたカバンを負っているので、どこに通っているのかは一目瞭然と来ている。

(高校生でもあるまいに、こんな時間まで塾とはな……。中学受験生かな)

 善彦は考えた。そのロゴマークが、受験界でもそれなりに大手の進学塾のものだったからである。

 自分自身に経験がないからか、中学受験という言葉の響きにはどことなくエリートのような香りがする。中一の純弥は遊んでばかりだというのに、この子はこんなに遅くまで勉強に身を捧げているのだ。やっぱり違うんだなと思わざるを得ない。

(純弥もこのくらいちゃんと勉強してくれたら安心なんだが。あいつは俺に似て、筋金入りの勉強嫌いだからな……)

 やれやれと善彦は苦笑いした。同時に、悲しくなった。

 別に子どもをガリ勉にしたいわけではないのだ。中学受験をしろというわけでもない。受験なんてとどのつまり学校選びの一種でしかないわけで、そんなものは子供自身が望まなければ必要ないのだと思う。ただ、自由な日々を生きていても、せめてその中で人並みの勉学の努力くらいはしてほしいのである。

子育てにまともに参画もできていない自分に、とやかく言う権利はない。そう思えば思うほど子どもたちとの距離は離れていくのに、解決策の模索もせずに放置し続けた結果が、今なのだ。──心の奥底では、善彦もそのように分かってはいるのに。

 それでも、どうせ反抗されて話も聞いてもらえないのだと分かっていると……頑張って向き合おうという気持ちはどうしても薄れてゆく。






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