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強がりのに。




 ところが、現実はそう上手くはいってくれない。善彦のすぐ隣で立ち止まった二人の女の人の話し声が、善彦のせっかくの眠りを覚ましてしまったのである。

「あー、今日も色々買い物したねぇ。私ったらいくら使っちゃったんだろ」

「私二万円くらいかしら。ほら、バーゲンで欲しいものはきっちり勝ち取ったからね」

「やだぁ、それじゃ私の方がだいぶ多いじゃない」

「賢い買い方をしないからよー。同じモノでも東武と西武じゃ値段が違ったりするんだからね、きちんと比べなきゃ」

 声と会話から察するに、三十代くらいの中年女性二人組が互いの買い物の話をしているようだった。

 善彦の不機嫌が極まったのは言うまでもなかった。なんだってわざわざ善彦の隣に来て、しかも大きな声で話し合うのか。このコンコースには立ち止まれる場所が他にも山ほどあるではないか……。

 ちらりと横をうかがうと、一人は割と普通の格好、もう一人はお洒落に着込んだセレブのような姿ときている。あんまりじろじろと見続けていると何を疑われるか分からないので、善彦はすぐに目を戻す。ちょっとしたことですぐにセクハラ呼ばわりされてしまう、こういうとき男というのは損な生き物だと思う。

「だって私、計算とかなんとか苦手なんだもの」

「えー、でもそんなに簡単な計算じゃないじゃない。ほら、それなんて七千五百円から六千二百七十円を引くだけでしょ? 暗算でできるわよ」

「そりゃあ、大学出のメグミは計算できるかもしれないけど」

「いやいや、そんなの計算能力とは関係ないでしょうに。常識よ常識」

 片方は大学出身で、もう一人はそうではない──。高卒で就職した善彦が不意に共感を覚えたのも無理はなかったかもしれない。何に共感したのか分かる前に、消え失せてしまったが。

 こんな時間帯まで繁華街を徘徊して数万の買い物をしているということは、さぞかし猛烈にお金を稼ぐ夫がいるのだろう。そんなことで興味が出てきたような気がする。善彦はもう少し耳をそばだてて、二人の話を聞きやすいようにした。二人の話題はいつしか、その大学出でない方の女の人のことに移っていた。

「ほーんと、あんたっていい男を捕まえたわよねぇ……。東大出身の高級官僚で、超がつくほどのイケメンなんでしょ? うちの旦那と交換してほしいくらいよ」

 虚しい息と喫驚の息が、重なる。

「あっ、あげないよ!?」

「冗談よ、冗談」

「メグミが言うと本当に奪いに来そうで怖いんだから……。だいたい、メグミの旦那さんだって会社の重役さんなんでしょうに」

「うちの旦那はただ金持ちなだけよ。だから近づいただけ」

 聞くからに恐ろしい会話だ。聞き耳を立てながら、善彦はただただ戦慄する。

「あんたの旦那に対する愛情には、私はいつまでたっても達する気がしないわ。そういう意味じゃ、羨ましいけどね」

 苦笑したメグミは、不意に思い立ったように、問いかけた。声色がちょっぴり変わっているのが、終電時間帯の喧騒の中でも善彦の耳に感じられた。

「ねぇ、カズホはさ。なんであんなに旦那さんを好きでいられるの? やっぱイケメンだから?」

「んー、なんでだろうね。外見っていうよりもすっごく優しくて、頼り甲斐のある人だから……かな」

「優しくて?」

「うん」

 少し伏し目がちのカズホは、唱えるように答える。

「私なんてさ、高校もちゃんと通えなかったバカだし、顔だって全然じゃない。そんな私でもあの人は心から愛してくれて、大切にしてくれるもの。あんな優しい人、きっと他にはどこにもいない。東京がどんなに広くても、ね」

「そっかぁ……」

 天を仰いだメグミの声が妙に苦しげに響いて聞こえて、善彦は二人を一瞬、覗き見た。カズホの浮かべた笑みが目に入った瞬間、善彦の胸の中にも苦味がじわりと広がった。

 そして、またしても理由が分かる前に、その苦味はどこか宙に溶けて失われてしまった。




 ──時計が電車の発車二分前を指している。そろそろ動かなければ、電車に間に合わなくなりそうだ。

「動く、か」

 胸の奥に生まれた少しばかりの名残惜しさは床に投げ捨て、善彦は鞄を持って歩き出した。鞄がひどく重たくて、歩きにくい。今に始まった重さではないのだが。

 数歩進んでから、ふと思い直して、善彦は後ろを見た。二人はまだしばらく、あの場所で立ち話を続ける気のようだ。

 そうこうしているうちに人の流れに呑まれて、善彦は西武線の改札口へと向かっていく。

 ここから始発の池袋線に乗り、だいたい清瀬の街までの所要時間は三十分だ。長い帰路の旅は、ようやく三分の一ほどが終わりを告げたに過ぎない。


 歩きながら、善彦は『カズホ』と呼ばれていた女の人の方を思い出していた。

 確かに、振り返って見たその容姿に、美貌と呼ぶほどのそれがあったようには思えない。派手なお化粧をした隣のメグミの方が、世間一般には可愛いと評される顔立ちをしていたと感じる。

 だとしても、彼女は幸せそうだった。そんな確信が善彦の胸をよぎったのである。

 我が身を振り返って、思い出すのは妻のことだった。──善彦の妻・由実子は、日本有数の秀才大学を卒業したエリートだ。出会ったのは都内で開催されたお見合いパーティで、その当時から今に至るまでずっと、由実子は家の近くの大病院で看護師として勤務している。

 善彦だって頑張って働いてはいるのだ。だが、やはり高卒という出のせいか、なかなか昇進させてもらうことはできない。結局、どれだけ理想を口にしても、この国では上を目指そうとすると必ず学歴の壁が立ちはだかるのだ。それに引き換え、由実子は頭が良くて給料もよくて、おまけに美人ときている。

 周囲からすれば憧れられる環境なのだろう。最初は善彦自身さえそう思っていた。けれど、特に近頃の善彦には、それが真実を言い当てているとはとても思えなかった。由実子の立場に立ってみればその理由は明らかで、結婚相手は別に美形でもなく秀才でもなく高学歴でもない、出身さえ普通な──言ってみればこれといった魅力のない人間なわけで。

 カズホの笑みは由実子にも当てはまるのだろうか。由実子が微笑んだり笑っているところなんて、もう何か月も目にした記憶がない。本当は陰で『あんな人と結婚しなければよかった』などと愚痴をこぼしているのではないのか。……由実子のことを信じていないわけではないけれど、実のところずっと前から聞いてみたいことだったのだ。





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