強がりのいち。
この物語はたぶんフィクションです。
家のドアに何気なく手をかけた時、いつも思い出す声がある。
『ただいま』
いつか自分の耳で確かに聞いた、たった四文字のその言葉。口にするのがこんなに難しい言葉だったなんて、あの頃はちっとも、知らなかった。
いつもあの言葉と共にあった、強くて優しい父親の姿が……こんなに、遠いだなんて。
午後十一時半を回った頃合いだろうか。三月に入り、ようやく春らしい暖かな日が少しずつ増え始めてきた季節のある日の、何気ない深夜。
緑色の帯をまとったその電車は、ぎいと錆び付いた音を響かせて、ターミナル駅のプラットホームに到着した。
車内は人でぎゅう詰めだ。ターミナルに降り立とうと人々は我先にドアに殺到し、一両につき四つしかない小さなドアは今にもはちけそうになる。ホーム天井から鳴り響く発車ベルの音色が、その密度と速度をいっそう急き立てるように高める。
ホームはすぐに人でいっぱいになってしまったが、後から後から乗客たちは降りてくる。コンコースに出ようとする人の波を掻き分けるように電車は発着して行き、また少しすれば次の電車がやって来る。
これが、別にどうということのない、いつも通りのこの駅の有り様だった。
去って行く電車の尾灯を見つめ、スーツ姿の男はしかめ面をしながら腰をさすっていた。
「痛ってて……。ったく、これだから山手線は嫌なんだ……」
電車を降りる時、人波に押されてドア脇に腰をしたたかにぶつけたのである。今日に限ったことではないのだが、どれだけ経験したところでこの痛みには馴れられないし、そもそも馴れるほど痛めたくなんてない。
はぁ…………。
わざと長く息を吐いた男──松山善彦は、それで少し身体に溜まった力を、最寄りのエスカレーターまで歩くことに使うことにした。近頃やや肥満気味なのではないかという気がしていて、本当は階段を歩いて上り下りして運動量を稼ぎたいところなのだけれど、今日の子の身体にそこまでの元気はなさそうだ。
齢、四十五歳。善彦はこの東京に数知れず存在する、しがないサラリーマンの一人である。
勤め先の生命保険会社があるのは品川。そして家があるのは、西郊の東京都清瀬市だ。駅から徒歩十五分の都営アパートに、妻と二人の子どもの四人家族で住んでいる。
今日もこれから、このターミナル──池袋駅を経由して、清瀬の自宅に帰ろうとしているところであった。
仕事が遅くまで立て込み、しかも帰りには無理やり居酒屋に連れ込まれて酒ばかり飲まされ、善彦の身体はすでにクタクタのボロボロであった。それでも、帰らなければならない。家では妻の由実子が、同じく仕事帰りの疲れた身体を押して、晩ご飯を作って待ってくれているはずだから。善彦もそれを当てにして、夕食をまだ食べていない。
──もっとも、本当はあまり、帰りたいという気持ちでもなかったのだが。
清瀬の街に帰るには、この巨大な池袋駅でJR線から西武鉄道の路線に乗り換える必要がある。
やっとの思いで改札口につくと、ICカードを自動改札機に弱々しく押し当てた。ぴぴっ、と電子音が鳴いて、改札機が開く。早く通れと言わんばかりの剣幕に、思わず込み上げそうになった吐き気を、すんでのところで善彦はこらえた。
「うぅ……っ」
代わりに呻き声が漏れた。こんなところで吐いてはたまらない、確実に社会的な死が待っている。改札を抜け、少し人の流れの落ち着いている場所を見つけた善彦は、近くの柱にもたれかかった。……ああ、これで少し、楽になっただろうか。
自分で吐いた息が、ひどく酒臭い。善彦は心底不愉快な顔になった。
だからあれほど酒は苦手だから勘弁してくれと、部長には言ってあったのに。
善彦は元来、酒をあまり受け付けられない体質なのだ。それなのに善彦の上司ときたら、仕事上がりの善彦を捕まえて有無を言わせずに居酒屋に連れ込み、付き合いだとしきりに繰り返しながら飲ませ続ける始末。しかもその目的は、善彦を相手に仕事の愚痴を言うためである。善彦からすれば迷惑以外の何物でもない。
次の電車までは時間がありそうだ。混んでいるホームに早くから行って待たされるのもつらいので、善彦はしばらくそこで休むことに決めた。
「……ま、いつ帰ったって同じだろ」
腕時計を見ながらつぶやいて、重たいカバンを足元に置くと、善彦は目を閉じる。駅の喧騒が淡く、遠くなる。こうすれば少しくらいは、酔いの気持ち悪さが払拭できるかもしれないと思ったのだ。
善彦の会社は今、社内で大きなトラブルを抱えていた。その皺寄せを食らった善彦の部署では今、普段ならばしなくて済むような仕事が山のように増えてしまっている。
善彦が遅くまで仕事を続けていたのはそのためで、上司からの愚痴の内容も大半はそのトラブルについてなのだった。もともとは他所の会社のせいだ、うちの部署は体のいいトラブル処理担当にされているんだ、云々。
つらいのは自分だけではないのだと、誰だって頭で分かってはいる。いるのだが、着実に溜まってきつつあるストレスを発散するのには、こういうやり方を取ることしかできないのだ。
おまけに善彦は残業だけでは仕事を終えられなかった。退社する直前、周囲から追加の仕事をどんと渡され、これから家に帰っても書類仕事の続きに取り掛からねばならない。今、足元に置かれた鞄のファスナーを開けてみれば、そこには茶色い封筒に入ったたくさんの書類の束が姿を覗かせている。鞄が重たく感じるのは、きっとそのせいだ。
それでも善彦は決して文句を言おうとはしなかった。仕事に関して文句を口にしたことは、今日までただの一度もない。ハラスメントだと上司に怒りを燃やしたことすらない。今回も黙ってそれを受け取り、きちんと明日までにこなしてくる気でいた。それが結局のところ、懸案事項をなるべく早く目の前から消し去る最良の方法だからだ。
仕事である以上、どんなに嫌でも完全に逃れることなどできやしないから。
そのためには今くらい、ちょっとくらいは休んでいてもいいはずだ──。そうやって慣れない自己肯定に励むうち、いつしか善彦は柱に寄りかかったまま、うつらうつらと舟を漕ぎはじめていた。