流血なる家族
「あぁ、どうもすみません」
父親が騒いだことに気づいた晴香が慌てて俺の方へ駆け寄ってきた。
よく分からないが、助かったような気持ちになる。
「いきなり父がすみません。うるさいでしょう?」
しかし晴香はいつものように、当たり前のように言ってきた。
この奇行ぶりにこのリアクションは、それも異常だった。
「え…!?いやうるさいとかじゃなく、何なんだよこの呪文みたいなのは!?」
俺は同じような質問をまた晴香に投げ掛けるが、これも無視された。
「うるさいですよね。どうしてか直らないんですよね。不思議ですよね。大丈夫です、安心してください。今、静かにさせますので」
晴香はそう言って父親に近づいた。
そして晴香はいつから持ってたのか、大きな出刃包丁で自分の父親の首にためらいなく刺した。
「うんぐっ……!」
晴香の父親は息が詰まったように口をつぐんだ。
立ったまま、首からは血がボコボコと泡を噴いて溢れてくる。
そして晴香は赤くなった包丁を父親の首に刺したまま手を離して、ニッコリと笑ってこっちを向いてきた。
「これで静かになりましたよ」
晴香は優しく声をかけてきたが、目の前の出来事が理解できなくて俺は返事ができない。
俺が呆然としている間に晴香の父親は膝を着き、ゆっくりと倒れ込んだ。
しかしまだ父親は息があるのか体を痙攣させて暴れだす。
「がふっ!ぅ゛ううっ!う、うぅぅぅぅぅう゛ぅう!」
晴香の父親は唸る。
床に腕を叩きつけ体を揺らす。
動いて叫んではいても、俺にはもう晴香の父親が生きてるのか死んでるのか分からない。
これは気持ちが悪いとかそんなんじゃない。
「あぁ、喉を刺したのにまだうるさいですね。困りますよね。あまり傷つけると直すのが面倒なんですが」
晴香は刺さっていた包丁を抜き取って、父親を仰向けになるように転がす。
次に大きく振り上げて躊躇なく父親の腹に包丁を突き刺し、まるで解体するように包丁を横に動かして腹部を開いた。
その開いた晴香の父親の腹部に晴香は腕を突っ込み、体の中をまさぐる。
晴香の父親は何度も魚のように体を跳びはねさせてはいたが、晴香は一切気にしない。
「いひひひひっ!」
突然、晴香は楽しそうに口が割けそうなほどに頬をつり上げて笑った。
おかしい。
「いっひひ!あぁぁあぁ、もう~見てくださいよ、これぇ。ステキだと思いませんん~?興奮しますよねぇ」
自分の父親の腹から晴香は何か赤いものを取り出した。
それはよく見ると内蔵ではなくて人の頭だ。
髪もあり、目もあり、鼻もあり、歯や舌まである顔。
もう俺には何が何なのか分からない。
「いひっ、この頭はですねぇ、ここに引っ越す前のお隣さんのなんですよ!もう本当にステキな顔なんですから!見てくださいよ、いっひひひひひひぃっ!」
晴香はそう言いながら生首を胸の前に差し出した。
今、何が起こってるのか分からない。
晴香が何をして何を言ってるのか分からない。
助けてくれ、誰か俺を助けてくれ。
「ひぃ、ひぃぃいぃぃぃいぃいいいいぃぃ!!ひぃぃぃいいぃ!!!」
やっと俺は悲鳴をあげれた。
状況を理解すればするほどに恐怖は大きくなり、自分の情緒が不安定となってどうすればいいのか分からなくなる。
とにかく逃げようとした。
警察に通報とか叫んで助けを呼ぶより先にここから逃げ出したかったからだ。
でもあまりの恐怖に体には力が入らず、立てなくなっていた。
それでも逃げようと俺は体を這いつくばらせて玄関に向かう。
「いひひひひひっ、逃げるんですかぁ?無駄ですよ~!いひ、いひひひ…!」
そんな晴香の言葉など俺は無視して一歩一歩と玄関に近づく。
しかし俺が助かるはずの入口である玄関を見たとき、絶望した。
玄関の扉にはあり得ないほどの数の錠前と鎖が埋め込まれるように繋がっていて、見るからに開きそうではなかった。
もし扉が開いたとしても、壁にまで繋がされた鎖があまりにも密集していて体を通す隙間は無いだろう。
さっき晴香が玄関に行っていたのはこの準備をしてたのか。
どんな思考だ、ふざけている。
「あぁ、あまり恐がらないで下さいよ。優しい顔が格好悪いだけの顔になりますよぉ!」
晴香は俺の近くに生首を投げ捨てニッコリと笑う。
なんなんだ、この子は。
おかしい、変だ、イカれている、狂っている、奇妙だ、変異だ、異常だ、人間じゃない。
「やめてくれ!やめてくれぇ!頼む、お願いだ!やめてくれやめてくれえぇ!!うわぁぁぁああぁ!」
何を懇願しているのか自分にも分からない。
でもやっと分かった。
一番の狂人は晴香の両親のどちらかがじゃない。
晴香だ。
そもそもあの両親と日中一緒にいてまともに生きられるわけがない。
俺は馬鹿だった。
「あっはははははははは!」
晴香が突然今までにない声量で笑いだして俺は体をビクつかせた。
「お父さん、部屋で待っててよ~。本当に落ち着きが無いんだからぁ」
目の前では更に現実離れのことが起きていた。
晴香の目の先には晴香の父親が立っていたのだ。
腹を開けたまま血を床にボトボトと垂らして、いつものあの青白い顔で。
「再厄肉天…憎地道昇………生…、再厄…………道……」
また呟いている。
きっと呪われている呪文だ。
もうこんなの人じゃない。
人の形をした化物だ。
あり得ないあり得ない……!
「再厄肉天満憎地道昇魂堕行生」
晴香は父親と同じ言葉を発した。
「この言葉の意味を聞きたがっていましたよね?いひひひっ。これは簡単に言えば、他の人の肉を得て、その他の人の魂を天に昇らせずに生き行かせる、というものなんです。そして他の人の肉を得た者は再び生を受けるんですよ。つまりですね……いひひ、いひひひひっ!」
晴香が何かを説明しているようだが俺の頭には一切入ってこない。
でも、きっとあってはいけない言葉なんだろう。
「私の言ってる意味が分かります?いっひひひっ!いひひひひっいひひひひひひっ!」
分からない。
ただ晴香の気味悪い笑え声だけが耳に入ってくる。
「私の両親は人の肉を得ることによって、生きているんですよ。だから死んでもいないですし、生きてもいない。いぃひひひっ!」
俺が話を聞いてるかどうかなんてどうでもいいのか、晴香は俺が恐怖に震えている姿を無視して話を続けた。
「でもこの言葉は所詮言葉に過ぎないの。これを唱えれば人の肉を得られるわけではないんです。だから、その肉を取る相手に事前に投げかける儀式の言葉にしてます」
肉を取る相手に事前にかける言葉?
俺は昨夜から晴香の父親に言われていた。
つまりつまりつまりつまりつまり…………。
「私の父はあなたの肉を欲しているみたいなんです。だから…………」
聞かなくても分かる。
今までの話の意味が分からなくても分かる。
俺はきっと、間違いなく、この場で残酷に無惨に非情に、近くに転がっている生首の本来の持ち主のように…………。
「死んでくれます?」
死ぬ。
「いっひひひひひひひひひぃ!!!!いひひひっ、いヒひひひひ~っいひひヒヒひひひぃひぃひっひひひひひっ!!いひひひひっいひぃ、ひひひひひひひひイヒヒひひひっひっひっひっひひひひひひひひぃ!!!」
晴香は奇声そのものの声で笑う。
「再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生…!」
晴香の父親は幾度も唱える。
「ひぃ…………ぁあぁ…………!!?」
俺は身を丸めて怯える。
成す術もなく、部屋に充満した恐怖と狂気で体を縮め、目の前のことをとにかく否定する。
頭でいくら否定しようと、理解できなくても、現実は待ってくれない。
だから俺は助からない。
最後の気力を振り絞って俺は叫んだ。
「っうぅ、うわぁぁあぁあぁぁぁああ!あぁぁああああ!あ、ぁぁぁああ゛!!」
どこにそんな叫ぶ力が残っていたのか分からないが、とにかく叫んだ。
でも叫ぶだけで体は動かない。
動けないからそれはもう悲鳴と変わらない。
肝心の体が奮い立ってくれたない。
「…………大丈夫です」
晴香は最初の時のような良い笑顔を見せた。
手は真っ赤となっているけど不気味じゃない微笑み。
もしかしたら死んでくれというのは、今すぐじゃなくいつかなのかもしれない。
そんな考えが一瞬脳裏に思い浮かび、俺は顔の力がゆるんで唇が笑みになりかけた。
けれど晴香はすぐに表情を変えて、唇がつり上がったおぞましい笑顔を見せる。
「死んでも魂は生きてますから」
晴香はそれだけ言うと嬉しそうに俺の腹部に刃物を刺し込んだ。
刃は一気に奥まで体に入ってきて、体の中の臓物を滅茶苦茶な形にする。
いまさら声はでない。
痛みもない。
ただ、恐い。
「いひひひひっ」
晴香は笑って刃物を抜き取り、次は胸部に刺す。
これも痛みはない。
でも床には俺の血がいっぱいに広がり、自分の血には思えなかった。
意識が遠くなる。
次は背中に刺された。
やはり痛みはない。
血と晴香が温かい。
ヌチャヌチャとした温い血がねば強くような不愉快な音が聞こえる。
次はどこを刺されたか分からない。
今の自分は息をしてるのか、生きているのかすら分からない。
意識が真っ暗の中へ深く深く沈む。
でも、分からない。
分からない、分からない。
分からない。
何、分からない。
知らない、分からない。
生きて、分からない。
今、分からない。
これから、分からない。
前、分からない。
自分、分からない。
…………あぁ早く俺を殺してくれ。
「再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生、再厄肉天満憎地道昇魂堕行生。」
すでに鼓動が止まった俺の口から漏れた言葉。
晴香の父親も言っている。
晴香も言っている。
「あれぇ、もう死んだんですか?なんてね!いひっひひひひ!」
俺が死ぬ?
いや、お前らが死ね。