13
「立て――そして、その子から離れろ」
低く地の底から響いてくるような冷たい声で、僕にナイフを突きつけている男が言った。
今まで生きてきた中では感じる事のなかった、鋭く尖るっているような殺気と、その声に僕はそれでも恐怖を感じる事が出来なかったのは何でなのだろう…言われた通り、ゆっくりと立ち上がり、その男が誘導する後ろへと引き下がった。
けれど、それと同時に子供が小さな声で必死に言い募る。
「その人、僕を見ても怖がらなかったっ。助けてくれたっ。傷も…ほら、傷の手当てもしてくれたっ」
その子供の方こそが恐怖に震えてるように思えて、僕は笑って見せた…と言っても、僕の顔はマントとフードで覆われていたから、その子が見る事は出来なかっただろうけれど。
だけど、後ろにいた男は気付いたのだろう――僕が彼を恐れて居ないこと、そして子供を安心させようとしていることに。
ふいに彼の殺気が遠ざかるのと、他に人の気配が近づくのは同時だったかも知れない。
「おい、アンジー?そこに居るのか?」
ブレアンの声だ――と思った瞬間だった。
男が僕を突き飛ばし、子供を抱えて飛び去ったのだ。
と言っても、本当の意味で空を飛んだわけじゃないけれど、脱兎の如くとでも言おうか、ブレアンが僕を見つけるよりも早く、自分達の気配を消して逃げ出していた。
「アンジー?」
まだ、僕がどこに居るのかまでは気付いてないまでも、何か問題が生じたのだろうと察知し、ブレアンが近づいてくるのが判った。
「大丈夫、何もないよ」
そう言いながら僕はブレアンがやってきている方向へと何事もなかったかのように歩き出した。
「本当か?」
「うん…小さな、動物が罠に掛かってたんだ…」
「罠?? こんな所にか?」
「そう――けど、まだ小さな子供だったから逃がしちゃった…罠を仕掛けてた人には申し訳ないけど」
クスっと笑って、ブレアンの所まで行けば、彼もそれに納得し、そして頷いてくれた。
「でも、あんな子供みたいな泣き方をする動物って…どんな動物?」
そう言われて、慌ててしまった。
確かに、あんな泣き方をする動物なんか居ないだろうし――と言い訳を考えて思い出す。
「キムム――キムムの子供だった」
「えっ!?キムムっ!?」
確か、村の森に居たキムムも、あんな奇妙な泣き方をしていたなと、思い至ったのだ。
「こんな所――に、キムム?」
「うん、キムム」
キムムとは、僕の昔居た世界で言えば、猫に似た動物だ。
ちょっと、性格的な物が全然違うけれど、大きな森でひっそりと生きている――そして希少価値のある動物。
人が大嫌いで、近づけば牙を剥くけれど、普段は温厚で木の実や草を食べて生活をしている動物だ。
体はそれほど大きくならず、子供はリス程度の大きさで、大人になっても普通の猫より少し小柄な感じ。
体の柄とかは、どう見ても豹に見えるのに、その性格や見た目は子猫のようで可愛い。
ただ、本当に人嫌いで、近寄る事すら出来ないのだけれど――。
「あれは、森の奥深くに居る動物じゃないのか?」
「そうだね――けど、キムムだったよ――きっとあの先にある大きな森にでも居る子なんじゃないかな?」
僕は言いながら、少し苦しい言い訳かな?とは思った。
けれど、ブレアンは少し首を傾げたものの、何だか妙に納得してしまったようだった。
そう納得されてしまうと、妙な罪悪感が生まれる…だって、本当にはキムムなんか居なかったんだから。
何よりも、あそこに居たのは――いや、考えるのはよそう。
きっと、間違えなく、あれは人間だったのだろう――と思うことにする。
そう…だって、あの子の目は確かに妖魔のそれだったけれど、耳や他の部分にそれらしいものは見られなかったんだから。
きっと、何かに反射して、そう見えたのだ――と僕は思い込むことにした。
商隊のいる場所まで戻った僕達は、その後、朝まで火の番をして過ごした。
そして早朝、皆が起きてきた時には、ブレアンもその話題に触れる事はなかった。
何しろ、キムムは希少価値のある動物故に、あれを捕まえては高く売ろうと考える輩も少なくない。
また、そのせいで彼らは存続が難しくなりつつある動物でもあったから、彼もそれを知ってるために何も口に出さなかったのだろうと思う。
それだけブレアンは、常識人なのだと信じたい。
今の僕は、そう信じるだけ、彼を知り尽くしては居ないけれど―――。
次の町についたのは、アールの町から二週間近く経った頃だった。
母の様子に変わりはなかったけれど、今回の町には宿屋がないことを知って少し消沈してしまっていた。
それもそうだろう。
ここに来るまでの間、数回ほど民家で休ませて貰い湯浴みをさせては貰っていたけれど、それでも綺麗好きな女性にしてみれば、それだけでも足りないというもの。
それに――どうやら月のものが近いらしく、少し不安定でもあった。
「母さん――そこの民家で聞いたんだけど、町の外れに温泉が湧き出てるらしいんだ。行ってみる?」
「…温泉??」
「うん――この辺りには、温泉があちこちにあるらしいから、旅の途中にも使える所があるって聞いてきた」
「温泉――そう、温泉ね…いいわね」
少しだけ気を取り直した母を見て、ホッと息を吐く。
けれど、次の瞬間には少しだけ苦い顔になった母が呟いたのは――。
「アンジーは…あなたは入れそう?」
確かに――僕も入りたいのは山々だけどね…あなたと一緒に入ってる所なんか知られたくないし、ついでに他の人達と一緒にって訳にもいかないでしょう――と、心の中でぶつぶつ言ってから思い至る。
彼女が言ってるのは、僕が一人で入るチャンスがあるのか?ということなのだろう。
少し笑いが込み上げてきて母を見た。
そして――。
「僕のこの体にある傷跡は、誰にも見せたくないよ――大丈夫…心配しないで」
そう言うと、彼女はホッとしたように胸を撫で下ろした。
確かに、僕が女だと知られては困る。
けれど、それ以前にこの体にある傷を見ながら一緒に入りたいと言う連中は居ないだろう。
何よりも僕がそれを嫌がっているのは、皆も知っていること。
だから、心配することはないのだ。
「じゃあ、あなたに警備をお願いして入りに行こうかしら」
「あはは。いいよ、僕で良ければ――ね」
そう言って、僕達は商隊の人達に一声かけてから温泉の出ている場所へと向かった。
もちろん、彼らも温泉と聞いて入りたがっていたから、僕達と交代で行く事になるだろう。
久しぶりの――お風呂だ。
きっと、僕達の旅の疲れを癒してくれるに違いない。
そう思いながら僕達は温泉に入る事にしたのだった。