第57話 揺蕩ういたりん
階段を上りきり、寺へ到着した。寺はいつも通り閑散としており、お参りする人もなく静まり返っている。わたしは山門をぬけ、本堂の裏にある宿坊兼住居に向かう。住職の家であり、昔の居候先でもあった宿坊は相変わらず古びた建物でもうそろそろ立て直したほうがいいんじゃないかと思う。長い間風雨にさらされたせいで壁の色は褪せ、張り付けてある板も白骨のように白く変色している。雨どいもがたがたで、雨が継ぎ目から漏れたあとがいくつもある。宿坊の様子をしげしげと眺めながら、縁側のほうへ歩いていく。
「お、杏ではないか。来るなら先に連絡しろと、あれほど言っているのになんでおまえは――」
会うなり、説教を始めるのはやめてほしい。突然来たのは悪いかもしれないけれど、元店子が帰ってきたんだからそのあたりは大目に見てもいいのではといつも思う。ま、相変わらずなのはいいことかもしれないけれど。でも、開口一番説教から入らないとここへ戻ってきた気がしなくなったら住職はどう責任を取ってくれるのだろう?
「――本当におまえは昔から成長がないな。もう少しまなみちゃんを見習ったらどうだ。あの娘は今財閥の再建で奔走しているそうだな。しかも将来の伴侶まで決めて。おまえもふらふらしていないで、もっと先を見据えてだな……」
「うるさーい! ちょっと、顔を見に帰ってきただけでなんでそんなに怒られなきゃならないの! わたしはわたしでやることやっているしっ!」
いい加減頭にきたから大声で抗議してしまった。だって、わたしだって、テロリストをつかまえたり、この国の治安維持に多大な貢献をしているのですぞ。やることやってるんだから、そんないい方しないでよ。
「はぁ……おまえは相変わらずじゃのぉ……」
住職はいつもながら、盛大にため息をつく。そんなにダメな子ですか、わたしは……?
「……ま、そんなところに突っ立ってても仕方がないだろう。こっちへ来い」
よくわからないうちに、話をすすめてしまっている。わたしの意思は無視かい。まともに相手をしてもらえていないようなので、仕方なく住職の言うことに不本意ながら従う。
「そんなところに立っていても仕方なかろう。こっちに座れ」
住職は縁側に座って手招きする。わたしも住職の隣へ座る。
「……しけた顔をしとるなぁ。何かふんぎれないものでも抱えているのか?」
住職はわたしが座るやいなや単刀直入に切り出す。何をどう言っていいのか分からず、言いあぐねていると住職はさらに言葉を続ける。
「何を抱え込んでいるのか知らんが、一人頭を抱えて、黙っているだけでは話はすすまんだろうが。いつまでも同じところで堂々巡りしたいわけではないのだろう?」
住職の言うことは間違いない。否定しようがない正論だった。
……正論故に胸に深く突き刺さる。そのせいで余計身構えてしまう。きっといつになく強張った顔をしているんだろうな、今のわたし。一方、住職はいつものような飄々とした雰囲気で、腹立たしい。わたしがこんなに悩んでいるのに、この道楽坊主は……。
「ま、あれこれ悩むがええ。悩めるうちはまだ生きているんだからな。生きていれば何かできるだろう。そうは思わんか?」
「……はぁ」
言ってることは理解できるのだけれど、素直に同意するのが負けを認めるようで嫌だったので、気のない返事をしてしまう。
「なんじゃその気のない返事は。本当にお前は成長がないな」
「……ほっといてよ。こっちは人生の深い悩みを抱えているだから」
上から目線の言葉が引っかかる。だからついつい喧嘩腰になってしまう。
「そうか。悩みたいなら好きなだけ悩むがいい。ただ、忘れるなよ」
「何……?」
微妙に含みのある言い回しに、何を言われるのかと思わず身構えてしまう。
「お前の悩む姿を見て、気をもむ人間がたくさんいるということをな」
「え……?」
想像してなかった言葉に不意打ちされて、混乱する。住職、今なんて言ったんですか……?
住職の意外な言葉に思考が停止したままのわたしを置いてきぼりにして、住職は言葉をさらに続ける。
……ちょっとはこっちの反応を見てからにしようか、話をすすめるのは。
「お前は親と死別しているせいか、何でも、出来もしないようなことでも、抱え込んで自分で処理しようとする」
今それを言う? 好きでこうなったわけじゃないし! わたしはただ一生懸命生きていただけだし。家族がいないんだから自分でなんとかする以外方法は無いじゃない。
「……しょうがないじゃない、頼るのは自分だけなんだし……」
少しむくれて答えると住職は「困ったヤツ」感を目いっぱいだしてわたしを見る。
あによ、悪い?
「……確かにそういう場合もある。しかしな、そんな場面ばかりだったか? よく思い出せ」
住職にそう言われ、思い返してみる……ようなふりをしてみた。住職に言われっぱなしなのが気にいらなかったから。
しかし、わたしのそんな気持ちを知ってか知らずか、どことなく悲しそうな目をして、住職は話を続ける。
「お前が本当に困ったときに手を差し伸べでくれた人がいるはず。その人を思い出せ」
「……そう言われても……急には……」
いつになく住職が真面目に話すので、仕方なく今までを思い返す。
誰のことを言っているのだろう? 住職は何を伝えたいのだろう?
「……杏よ、目を凝らせ。お前なら見えるはずだ。お前のことを本当に心配していることが。お前には人の思いを見ることができるのだから見ようとすれば必ず見える。よく見ろ」
住職はいつもの飄々とした語り口でなく、肩に力が入った語り口だった。まるで言いたいことはあるのだけれど、うまい言葉が見つけられず、感情に任せて、浮かんだ言葉を投げつけるように口にしているように見えた。
住職が何かを伝えようとしているのはわかった。でもやっぱり具体的には思いうかばず、何となく気まずい雰囲気が流れる。
「……まぁ、よいわ。いずれお前もわかるだろう。絶対に忘れるなよ、お前は一人じゃないんじゃ。ええな?」
いつになく悲しげな顔でわたしを諭すように話す住職。そんな住職にどう声をかけていいものか分からなかった。住職も今日は何か変。どうしたんだろう……?
考えても思い当たることがなく、頭をひねるだけだった。ずっと考え込んでいると住職がこっちをジッと見ている。なんとなくその姿にいたたまれなくなって、この場を離れることにした。
「……帰るわ。お邪魔しました」
住職にかける言葉が見つからず、思わず他人行儀な言葉をかけてしまった。住職は見たこともない悲しそうな目を一瞬見せるがすぐに真顔に戻る。
「ん。……気をつけてな」
言葉少なにわたしを見送る住職は、とても小さく年老いて見えた。
スッキリしない気持ちを抱えて、階段を海へ向かって降りていく。目の前に広がる海はいつの間にか空を覆う鉛色の雲を映し、墨を流したように黒く染まっていた。
住職の思いを汲み取れなかったことが少し後ろめたく、申し訳ないような気持ちにさせた。いつもなら、住職の口ベタのせいにして気持ちを切り替えるけれど、今日はそういう気にもなれない。悲しそうな、今まで見たこともない悲しそうな住職の目が頭から離れず、罪悪感さえ覚えた。
夕暮れ迫る港を横目に見ながら、トボトボと特に当てもなく歩く。しばらく歩いて、気づくと事務所の前に立っていた。事務所の灯はついていた。
誰かいるのかな?
わたしはフラフラと灯に誘われるように事務所へ向かった。扉を開け、中に入ると誰かいた。
「……誰かいるのかな? あれ……? 何しているの?」
そこには最上くんが一人で何かしていた。何をしているのだろう? ここ最近で最上くんに振った仕事なんてなかったと思うんだけど……。
「あぁ……杏さん。何か用事でも?」
「最上くんこそ、こんなところで何を? まなみのほうはいいの?」
「特に何がということではないのですが……ま、残務処理みたいなものです」
「ふーん……」
最上くんの返答は何か奥歯にものが挟まったような言い方だったが、あまり追及しても仕方がないような気がして、気のない返事をしておいた。
「ところで杏さんはどうしたんです? こんな時間に? 杏さんも何か用事ですか?」
「え? わたし? わたしは……ま、いいじゃない、ヤボ用よ、ヤボ用」
最上くんの手前、『特に当てもなくさまよって、何となく事務所に足が向いた』なんてとても言えない。事務所の長として、そのあたりの矜持だけは持ち続けたいなんて思っている今日この頃。
「……そうなんですか? ま、そういうことにしましょう」
何となく最上くんのほうが大人ような気がする。どうしてわたしはいろいろ墓穴を掘るのだろう……? ナサケナイ。
「ま、いいわ。それより忙しくしているみたいね。まなみにくっついてあっちこっち行っているでしょう?」
「ええ、まぁ……お陰さまで忙しくしています」
「……」
「……」
……次の言葉が続かない。こんな時なんて言えばいいんだろう?
「どうしたんですか、杏さん。何か悩んでいるですか?」
「え……? え、えっと……ま、まぁ……大したことじゃないんだけど。最上くんが気にするほどのことじゃないから。お気遣いなく……」
な……なんだろう? マスターといい、住職といい、最上くんまで何か誰かに入れ知恵されたみたいに直球を投げてくる。そんな直球ばっかり投げられたら、危なっくてしょうがないじゃない!
「ま、それならそれでいいんですが、ちょっと危なっかしいところがあるから……姐さん心配してるんですよ」
「まなみが……」
何となくわかった。おそらく犯人はまなみだ。無駄に行動力のある彼女のこと、裏から手を回したに違いない。心配してもらえるのはありがたいけれど、こういう形だと何だか真綿で首を絞められるような圧迫感が半端ない。そのあたりが彼女らしいといえばその通りなのだが……。
「……心配かけてごめんなさい。でもちょっと考えているだけだから大丈夫」
「本当ですか?」
最上くんはあからさまに疑いの目で私を見ている。ちょっと大人なところを見せなきゃと思って、営業スマイルで返事してみた。
「大丈夫だよ」
「……本当に?」
最上くんには効果が薄い! 仕方がないのでさらに続けることにした。
「本当に大丈夫だって」
「……本当ですよね?」
今日に限って、やたらグイグイくる最上くん。よほどお姐さまのことが怖いのか、はたまた彼女の教育がうまいのか……とにかく最上くんの追及の手が緩まない!
「……心配してくれることはありがたいんだけど、わたし個人のことだから。自分で何とかするよ。だからご心配なく」
「……だといいんですが」
ほっ……少し緩んだ?
えっ……何? 最上くんが含みのあるとてもいやらしい笑みを浮かべている。
「ま、それほど杏さんが言うなら何も言うことはないのだけど……姐さんから伝言です」
な、なによ……伝言を伝えるだけでなんでこんなに手間をかけるのよ? 心臓に悪いじゃない! 寿命が一時間ぐらい縮んだわよ!
相変わらずいやらしい笑みを浮かべる最上くんがこんなに陰険だとは思わなかった。このいやらしさはまなみ並みね!
「姐さんからの伝言です。『もっと周りを見なさい! あなたにはその目があるのだから、その目を使いなさい』――以上です」
い、意外と最上くんの前振りの割にサラッとしたメッセージね。
「さて、用事も済んだし、引き上げます」
え……? えぇぇぇぇー! これだけのためにわたしの帰りを待っていたの?
「あ、そうそう、ついでなので僕個人から杏さんに言いたいことがあります」
あ、改まって何なのよ……?
「もったいない。もったいなさすぎますよ、杏さん。杏さんには人が見えないものも見える力があるのに……姐さんや僕にはとてもできないことを簡単にできるんですよ? もったいない……」
「……それは何でしょう? そんな力なんて……」
「それじゃ……杏さん、また」
あ……おーい! どうすればいいのよわたしは! 丸投げしておいてさっさとどこかへいかないでよー!
慌てふためくわたしを完全に放置して最上くんは事務所を出て行った。