プロローグ
「うわぁぁぁぁぁっ! はっ、ひっ、はぁっ……!!」
道端に無造作に残された、倒れたスクーター。
ガラスが割れ、エンジンがかかったままの状態でリアタイヤがカラカラと空回りしている姿が妙に生々しく、痛々しい。
そんな倒れたままのスクーターに背を向け、次第にそのスクーターとの距離を開けていく、黒いフルフェイスのヘルメットと黒い革ジャンに身を包んだ1人の男の姿があった。
男は走っていた。泣き叫び、まるで何かに怯えるような声を張り上げながら、必死で走り続けていた。
その姿はまるで何かから逃れようとしているかのよう……いや、男は実際に"何か"から逃げているようだった。
いったい何から逃げているのか? 警察? やくざ? それとも……血に飢えた殺人鬼?
残念ながら、そのどれもが当てはまらないが……いや、もしかしたら殺人鬼は微妙に当てはまっているのかもしれない。
事実、男はヘルメットの中を覆うスポンジに脂汗をたっぷりと染み込ませ、まるでこの世の終わりのような形相をしながら逃げているのだから。
捕まったら、最期。殺される。恐らく男は今、そんな心境なんだろう。
だが、しかし。もしそうなら、その男の考え方は間違ってる。そもそも、男を追いかけているのは殺人鬼なんかじゃないのだ。
にも関わらず、この男の怯えようは尋常ではない。どうやら殺人鬼や警察以上に恐ろしい存在に追われているようだ。
では、いったい誰に? 殺人鬼や警察以上に恐ろしい存在なんて、具体的に何がいる?
……まぁ、これ以上もったいぶって答えをぼかしたってしょうがないだろうから、答えを言うとしよう。
男を追いかけている者の正体。それは…………。
“キシャァァァァァァ!!”
異形の化物。怪人である。
*
「はぁっ、はぁっ……だっ、だれかぁっ! 助けてくれぇぇぇっ!!」
男の助けを求める声がただ、むなしく響き渡る。
ときどき奇声をあげながら、男を追いかける異形の怪物は徐々に男の距離を縮めていく。
男を追いかける謎の怪人。全身が白くふさふさな毛で覆われており、瞳の色は血のように真っ赤だ。
耳、鼻、顔立ち、そして口から出っ張った鋭く尖った前歯に長い尻尾が生えているなど、まるでハツカネズミを彷彿とさせる姿をした、人型の獣。
2メートル近い巨躯にも関わらず身のこなしは軽く、必死で逃げている男と比べると、その追いかける姿にはまだ余力が残っているように見える。
しかし、だからといって、この怪人はじわじわと男を嬲るような真似は一切しなかった。
もう少しで男の背中に手が届きそうな範囲にまで追いつめた怪人は次の瞬間…………男に飛びかかった!
“ひゅんっ!”
怪人の鋭く尖った爪が空を切った。
間一髪、怪人の魔手から逃れた男だったが、逆にそれでバランスを失ったのか、派手に転んだ。
さらにその際、手に持っていたひとつのカバンを落としてしまうが、男はそれを慌てて拾うのだった。
“キュゥゥゥゥ…………グルルルル…………”
「ひっ、ひぃぃぃっ!! 頼むっ! 見逃してくれ! 俺には俺の帰りを待ってくれてる、大切な家族が待ってるんだ!」
拾ったカバンを大事そうに抱えながら、怪人に命乞いをする男。
しかし、ネズミ型の怪人はそんな男の哀願に耳を貸すことなく、じりじりと男の方へ歩み寄っていく。
「あっ、いやっ! たっ、助けっ……!」
怪人が右手を振り上げた。
男は右手でカバンを抱えながら必死で後ずさりをしようとするが、腰が抜けたのか、体をもぞもぞとさせてるだけで全く動いていない。
だが、どんなに男が怯えようとも、ネズミ型の怪人はこの男に何の慈悲も与えてくれない。
それどころか怪人は容赦なく、怯える男にその鋭く爪の尖った右手を勢いよく振り下ろしたのだった……。
「……あっ! おい、いたぞ! そこのクリーミュウ! 止まりなさい!」
突然の呼びかけに反応したのか、男の顔面すれすれで、ネズミ型の怪人の腕が止まった。
おかげで男は切りつけられずに済んだものの、この怪人に襲われたのが余程身に応えたのだろう。そのまま意識を失ってしまった。
そんな彼らのもとへ、数人の警察官が駆けつけてきた。
彼らはネズミ型の怪人の姿に怯えることなく、むしろ果敢にその異形の姿の怪人のもとへと走り寄ってきたのである。
そして…………。
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1人の男がネズミ型の怪人に襲われた今回の事件。間一髪のところで現場に駆けつけてきた警察により、事件は一気に解決に向かった。
まず、男が逮捕された。
男は実はひったくり犯で、手に大切そうに抱えていたカバンはひったくった盗品だったってわけだ。
当然、カバンは没収。腰が抜けた状態の男は歩くことも困難な状態だったようで、警官2人に抱え込まれるようにしてパトカーに乗せられたのだった。
あと、これは余談だけど、男に帰りを待ってくれてる大切な家族が本当にいるのかどうかは定かじゃない。
でもまぁ、あれはきっと咄嗟に口をついて出た命乞いの一種か何かだろう。そもそも犯罪を犯す人間の言葉なんて、あてにならない事の方が多いからね。
*
さて。一方、先程まで男を襲っていたネズミ型の怪人はと言うと……。
「君ねぇ。協力には感謝するけど、いささかやり過ぎだよ。人間に怪我をさせたら、事情関係なく罪になっちゃうんだよ?」
『はい、すいません』
駆けつけた警官の1人に説教されていたのだった。ていうか喋れるんだな。
真相はこうだ。ネズミ型の怪人は男がひったくりをする現場に偶然、居合わせてしまい、咄嗟の判断でそれを追いかけ始めた。
男はスクーターに乗っていたけど、ネズミ型の怪人は自慢の脚力でそれを全力で追いかけ、遂には追いついてバイクの後部を掴みかけたまではよかったんだけど、男に咄嗟に急ブレーキをかけられて体をぶつけてしまい、よろめいている間にスクーターを乗り捨てた男に全力で逃げられて……その後の展開はさっき冒頭で話したとおりだ。
つまり、ネズミ型の怪人は単にひったくり犯を捕まえようとしただけ。ただ、それだけってことだ。
え? その割には背中から引っ掻こうとしたじゃないかって? あれはただ捕まえようとしただけで、引っ掻こうなんて気はさらさらなかったんだよ。
怯えるひったくり犯に右手を振り上げたじゃないかって? あっ……あれは只の脅しだって! だって、ああした方が怖がってくれるじゃん!
はぁ? "苦しい"ってどういう意味だよ!? ほっとけ!
……ん? なんでそんなにその怪人の考えてる事が分かるのかって? そりゃ分かるよ。
だって……。
「それじゃ、僕もそろそろ行くけど……いいのかい? 本当に送っていかなくて」
『別にいいですよ。俺、今日はなんとなくぷらぷらしながら帰りたい気分なんで』
「そっか……よし、わかった。それじゃ、気をつけて帰るんだよ。あ、だけどそのままの姿で帰らないように。君には申し訳ないけど、世間にはその姿を見て怖がる人が、まだまだたくさんいるんだからね」
『わかってますって! それじゃ、お疲れさまでした!』
…………行ったね。よし、変身解除。
“バシュゥゥゥゥ…………シュウッ!!”
…………ふぅ。だって、そのネズミ型の怪人って俺の事だもん。
*
うっ……。ちょっと胸のあたりがズキズキするな……。
あぁ、そういやさっき、咄嗟に急ブレーキかけられて体ぶつけたんだっけ。すっかり忘れてたなぁ……やっぱ送ってもらうべきだったかな?
でも、ま、いいか。ちょっと打ち付けただけっぽいし、湿布1枚貼っときゃ治るだろ。クリーミュウの体って案外、丈夫だからな。
警察のお兄さん――藤崎さんって言ってたな――と別れた直後に人間の姿に戻った俺は、ちょっとだけズキズキする胸に右手を当てた。
そうだ。ちょっと走り疲れたから、帰りにコンビニ寄ってシュークリームでも買ってこうかな? なんか知らないけど、無性に甘いものが食べたくなってきたし……うん、そうしよう。
ほんじゃま、帰りますかね!
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あ、どうも。俺の名前は田中誠。高2で怪人やってます。
※用語解説
◇クリーミュウ
ある日、突然変異によって覚醒した人間の姿。
変異する理由は不明だが、覚醒した人間は主に体調を崩している状態のときに覚醒するケースが多いらしい。
その外見は様々な動物や植物の姿を反映しており、能力面でもそれらの動植物の特徴を引き継いでいるのが最大の特徴である。
種類にかかわらず、基本的には火に弱い。
クリーミュウの存在が確認された当初は当然、異形の怪物として恐れられ、互いに生き残りをかけた戦争が発生したが、終わりのない戦いにどちらも次第に消耗していった。
そんな最中、互いの軍のトップにいた、あるクリーミュウと人間を中心に話し合いが行われた。
彼らは戦場で何度も一騎打ちをし、全力で戦い合ううちに次第に友情めいた感情を抱き始めていた。
クリーミュウと人間は分かりあえる。そう認識した彼らは国を代表して話し合いの場を設け、ついには公の場でともに生きていこうと声高に宣言したのだ。
その宣言が後にクリーミュウと人間が歩み寄るきっかけとなり、現在はクリーミュウにも人間と変わらない人権が認められている。