アリス・イン・アナザーワールド
「そろそろ野営の準備かな」
日もだいぶ傾き、空が赤みを帯び始めた頃、シロが辺りをちらりと見ていった。
街道の横には小川が流れ、反対側にはちょうど森にも開けた場所がある。野営をするポイントとしては絶好の場所だろう。
「今日はここまでか」
なるべく早く町に着きたいが、徒歩で二日の距離なのだから焦っても無駄だろう。鉄兵は人生初の野営に緊張しつつ開けた場所に荷物を下ろした。
「町までは後どれくらい?」
「まあ急げば明日の今頃かな。ちなみにテツは野営の経験は?」
「全くのゼロ」
それを聞いてシロが軽くため息を吐く。
「んじゃ森に行って焚き木でも拾ってきてくれ。なるべく乾いてるやつを頼むぜ」
シロは鉄兵が下ろした荷物をがさがさ漁り、ベルト付きの鉈と革紐を取り出して鉄兵に渡した。
「了解」
落ちてる木の枝を革紐でまとめて持ってくれば良いのかな? 多分鉈は藪を切り開く用だろうなどと考えつつ、鉄兵はそれを受け取って森の中に入っていった。
街道から森の中に入ると一転して空気が変る。ひどく青臭い濃密な森の空気を嗅いだのは小学生以来のことだった。
虫の声はうるさいほどに鳴り響いている。だが、動くもの一つ見当たらない、ある意味で静謐としたその空間は、これも一種の異世界だなとか鉄兵は思った。
森での注意はなんだったか。確か窪地にはガスが溜まっていて下手すると一酸化中毒を起こすとかあったな。などと考えながら、鉄兵は腐葉土になりかけの朽ちた枯葉に混ざって落ちている木の枝を拾っていく。
ふと、鉄兵は森の木の中に樫の木が混ざっているのに気がついた。
腰に下げた鉈を見ながらちと考える。
ある事を思いついた鉄兵は、最近では蚊を潰すのでさえためらい、研究室では用紙の無駄遣い厳禁とエコを叩き込まれていたので少し躊躇ったが、心の中でごめんなさいと呟きつつ、その樫の木の中から若干小振りのものを選んで一本切ってもって帰ることにした。
集めた焚き木を下ろし、鉈を手にして樫の木の根元に照準を合わせる。そのまま鉈を思い切り樫の木に打ち込むと、予想以上に手応え無く、ガコーンと鼓膜の割れそうな大きな音を残して鉈は樫の木を二つに切断した。
ズシーンと大きな響きと振動を大地に残し、樫の木が倒れる。
鉄兵は自分の力の無茶っぷりに少し驚いたが、さっきの要領で倒れた木から木の枝を切り離し、できた丸太を2mほどの間隔で切っていった。6mほどの樫の木だったのだが、先の方は細すぎて使えそうに無かったので、2つだけまとめて持っていくことにする。
とそこまで作業を終えた鉄兵は、森の空気が変っていることに気がついた。
なにが変ったのかと辺りを窺う鉄兵は、すぐにある事に気がついた。
虫の声が聞こえないのだ。
さきほどまではあれほどうるさかった虫の声が完全に途絶えている。その事実に、鉄兵はなにか異常事態が起きている事を悟った。
不意に寒気が走る。
強烈な威圧感が背後から迫る。物音一つしない森の中で、近づいてくるカサカサと枯葉の擦れる音だけが耳に届く。
鉄兵は鉈を手に、思い切って背後を振り返った。と同時に目の前にその威圧感の主が躍り出た。
緊張の中、その正体を見定める。
「!?」
威圧感の正体に鉄兵は戸惑った。発する気配とその姿に余りにもギャップがあったのだ。
威圧感の主は、一人の人間の女性だった。
眼光鋭い、両刃の剣を構えた一人の女性。やや大柄のその女性は、こんな状況にも関わらず思わず見とれてしまうほどの美人であった。
一言でその女性を言い表すなら、それは『高貴』だった。
容姿が美しいのは無論ながら、その身に纏う空気すらも美しかった。剣を構えるその姿は、全てが凛々しく、気高さに溢れている。
赤に近い茶色のセミロングヘアをカチューシャで束ねたその女性の剣は光を帯び、身に纏っている赤色の革鎧と思しきその鎧には、なにやら複雑な模様が刻み込まれている。神話の絵から飛び出してきたようなその姿は、鉄兵にギリシャ神話の戦女神を連想させた。
鉄兵にとっては二人目の異世界人との遭遇だったわけだが、その美形率に呆れてしまう。とはいえシロも美形だが、残念ながら格が違う。
こんな人間が本当にいるんだなと鉄兵が驚き怯んでいると、女性の表情に変化が現れた。
「なんだ人間か」
女性がぼそっと呟いた。その表情がふと緩む。
その途端から徐々に虫の声がまた鳴り始め、森の空気は元に戻った。
女性の表情は緩み、森の空気は戻ったが、それでも構えを解いてはいなかった。
「この街道は現在閉鎖されている。貴公はなぜこんなところにいるのだ?」
初耳である。シロもそんな事は一言も口にしていない。
鉄兵がまごまごしていると、女性の表情に鋭さが加わった。
「貴様、山賊の類か?」
女性が手に持った剣を立てる。
「いえ、ただの旅人です」
慌てて鉈を手放し手を挙げて、降参のポーズをする。
「まあ良い。今日はこれまでだな」
女性はしばらくじっと鉄兵を観察していたが、やがて再び表情が緩み、剣を鞘に納めた。
女性が鉄兵にニコッと微笑みかけた。
「野営の準備中か」
「ええ、そうです」
女性は緊張を解いていたが、鉄兵は女性の零れるような笑顔にさらに緊張を深めてしまう。
「そんなにしゃちほこばるな。構わん、普段通りにいたせ」
口調すらも高貴であった。高貴だ高貴だとは思ったが、どうも本当に高貴なお方のようだ。そんな人がなぜ武装してこんなところにいるのかは知らないが、どうにもこの世界の人間はわかりやすい人が多いみたいだなとか鉄兵は失礼な事を考えた。
「それじゃ遠慮なく」
「よろしい」
素直な鉄兵の返事に、我が意を得たと言わんばかりに女性は再び微笑んだ。惚れてしまいそうなほどの素直な笑顔である。
「野営地が決まっているならちょうど良い。ご相伴に預かるぞ。焚き木の確保は手伝おう」
どうにも奇妙な展開になったようだが、命令慣れしているらしいその口調に鉄兵は抗う気すら起きなかった。焚き木を拾い始めた女性を見習い、鉄兵も散らばった荷物をまとめ始める。
必要分の焚き木が揃うと革紐で一つにまとめて脇にかかえ、先ほど切り出した樫の丸太を肩に担ぐ。
女性が半分持つと主張したが「重くないからいいです」と断る。それでも食い下がってきそうだったから樫の丸太を人差し指の先に乗せてバランスを取って見せると納得したようだった。というかものすごく驚いて硬直していたので、その隙にさっさと歩き出した。その後に慌てて女性がついてくる。
「そなた、ものすごい力の持ち主だな。そうは見えぬが幽鬼族なのか?」
「いや人間ですよ」
女性は「そうか」と頷いたが、何か納得できないようでもあった。
「そういえば名を名乗っていなかったな。私はアリスだ。貴公は?」
「鉄兵です」
ふむ、とアリスは頷くと、しばし宙を見てなにやら呟き始めた。
「よろしく頼むぞ、鉄兵」
「はい、よろしく」
シロは鉄兵の名前を発音できなかったので、アリスが自分の名を呼ぶのを聞いてちょっと驚く。が、久々に聞いた気がするその発音に鉄兵は少し嬉しくなった。
野営地に戻る道すがら、先ほど言っていた、街道を閉鎖しているという話を詳しく聞く。なにやらガルムという大型の魔獣が発生したらしく、討伐されるまでは閉鎖の予定なのだそうな。もう5日ほど前の話なのでシロがここいるのはおかしいはずなのだが、まあシロの事だから何をしててもおかしくない気がする。ちなみにアリスはその魔獣を成敗しに来たらしいが、一人で来たという事は腕に自信があるのだろう。先ほどの威圧感を見ればそれも納得できる気がする。
それから野営地には連れがいると言う事を説明した後に、アリスは西洋風の格好でシロは日本風の格好なので、どちらが一般的なのか聞いてみたのだが、アリスはシロのような格好は聞いたことすらないそうだ。やはりシロは変人だったようだ。
そんな風に話を重ねていると、野営地に着く頃には鉄兵の緊張も解け、普段の口調で話せるようになっていた。
「おや、こいつはえらい美人を連れてきたな。どこで攫ってきたんだ?」
野営地に着くと、すでに準備を終えていたシロが煙管をふかしつつ冗談を飛ばしてきた。
「状況的にはその逆が近いんだけどな」
「無礼を言うな。迷惑だったのか?」
冗談だってと鉄兵は笑いかけたが、アリスは口をへの字にして拗ねてしまった。凛々しいという言葉が似合うアリスだが、そういう表情をすると意外と可愛らしい。
「貴殿がシロ殿か。私はアリスだ。野営を相伴したい。世話になる」
「よくわからんがよろしくなお嬢ちゃん。
確かこの国のお転婆な第三王女がそんな名前だったっけか? 武が立ちすぎて狭い王宮に収まりきらず、世直しの旅をしてるとか聞いたことあるな」
「良くある名前だ」
含みのある笑顔をお互いに向けている。これは俗に言う暗黙の了解というやつではないか?
「ひょっとして俺、すごい失礼な事してる?」
「おいおいテツよ、何を言っているんだ?」
「そうだぞ鉄兵。私達は第三王女の話をしてただけだ」
なにやら楽しげに諭されてしまった。まあそれならそういう事にしておいた方がいいだろう。面倒事は少ないに限る。
「さて、夕食の支度にとりかかるかね」
「私も手伝おう」
シロとアリスは二人で夕食の準備を始めてしまった。王女様のくせにアリスはなかなか手際良くシロを手伝っている。こうなると生活無能力者の鉄兵は暇である。焚き火の番をしつつ、切り出してきた樫の丸太をナイフを借りて削り始めた。
そうこうしているうちに夕食ができ、みんなで食べ始める。メニューは塩味の豆のスープと干し肉である。味気ない食事だなと思いながら食べてみると、塩味が絶妙で案外おいしかった。
「そういえばこの街道封鎖されてるらしいぞ。シロは知ってたのか?」
食事をしながらシロにきいてみる。
「ガルムだろ? そりゃ知ってるさ。そいつを見物にきたんだからな」
なんとなく予想できたがやはりシロはろくでもなかった。
「おぬしもなかなか豪胆だな」
アリスが関心したようにほーうと声を漏らす。
一人で退治しに来たあんたもな。と突っ込みたかったが、相手は王女様なので黙っておいた。
食事が終わって一息入れていると、シロがリュックの中からケースを取り出し、その中からアコースティックギターのようなものを取り出して引き始めた。その音にシロの声が乗り、物語が語られる。
物語は、竜人の悲恋の話だった。よく聞くどこにでもありそうな話だったが、シロの技量も相まって、鉄兵はいつしか樫の木を削る手を止めて聞き惚れた。
やがて話は終わり、音色が止む。二つの拍手が満天の星空の下に響いた。
「すごいなシロ。上手いよ!」
「なかなかたいしたものだ」
アリスと二人でシロを褒める。
「本職だからな」
その言葉に、シロは楽器を鳴らしながら軽くウィンクをして答えた。
「吟遊詩人であったのか。なるほど。それならばその奇抜な格好も納得ができるというものだ」
アリスは感心したように頷いている。鉄兵は「吟遊詩人というよりは遊び人の気がする」とか思ったが、口にするのはやめておいた。
シロの演奏をバックミュージックに、穏やかに夜が流れていく。
「よし完成」
ひたすら樫の木を削っていた鉄兵は、完成したそれを見て満足そうに頷いた。
「木剣か? 変った形をしているな」
完成した鉄兵の手の中のものを覗き込んでアリスが聞いてくる。
「木刀っていうんだよ。うちの国ではこれが主流かな」
鉄兵が樫の木を削って作っていたのは木刀だった。生木を削って作ったので出来は最悪だが、とりあえずはこれで良いだろう。樫の丸太はもう一つあるので乾いた頃にもう一本作る予定である。魔物とかもいるようだし、こんなものでも武器は持っておいた方が良いと思ったのだ。
魔物といえばそういえば。
「そういやガルムってのはどんな魔獣なんだ?」
出来上がったばかりの木刀を軽く振り回しながらアリスに聞く。
「そうだな……」
アリスがガルムについて説明を始める。
と、そこにアリスの背後の草陰がガサっと音を立て、ひょっこりと犬のようなものが頭を出した。どうやら狼の子供のようだ。なかなか可愛らしい。
「ガルムは魔力感応力が強い狼が魔力に当てられた魔獣でな、普段はまさに普通の狼の姿をしている」
その狼の子供から、なにか黒い霧の様な物が噴出してその身に纏わり始める。
「だが体内に溜めた魔力を解放すると巨大化してな。黒い大きな獣になる」
黒い霧はどうやら質量をもっているようで、まわりの木をメキメキと押しつぶし、狼はみるみる巨大化していく。
「まあ体長10mくらいが一般的だな。今回は発生したばかりだからもっと小さいかもしれん」
10mとか嘘ですね……あなたの後ろのアレは30mはありますよ。
「…………」
気が付くと、シロの演奏が止まっていた。ちらりと見るとシロの顔は引きつっていた。たぶん自分も同じような顔をしているだろう。
「……テツよ」
「はい」
「あれはさすがに大きすぎるよな」
「そう思います」
「俺はハルコさんを背負うからテツはお嬢ちゃんを頼む」
「了解いたしました」
打ち合わせが終了した。
「どうしたのだ?」
未だ背後の巨大な獣に気が付いてないアリスは、二人の顔を見て怪訝な表情を見せていた。が、二人の視線が自分の後ろに向いている事に気が付いて、背後を振り返る。
「!!?」
さすがにこのでかさは予想外だったのだろう。アリスの身体が硬直する。
それを合図に全てが動き出した。
ガルムがアリスに襲い掛かり、大人一人分はありそうな巨大な爪がアリスに伸びる。
その爪がアリスに届こうとするその瞬間。なんとか間に合った鉄兵がアリスの身をかっさらい、横っ飛びに飛んで転げ回った。
転がってる間に体勢を立て直した鉄兵は、未だ転がるアリスを受け止め、だっこする。俗に言うお姫様だっこだが、これ以上にこのだっこが相応しい相手もいないだろう。
「全力で逃げるぞ!」
ハルコさんを肩に担いだシロが叫ぶ。色々突っ込みたいところだがそれどころではない。
「了解!」
鉄兵は一声叫んで脱兎のごとく逃げ出した。
一目散に逃げる鉄兵達を、木々を押しのけガルムが追撃し始める。
かくして非常に環境にやさしくない命をかけた鬼ごっこがはじまった。
2011/1/13:指摘いただいた誤字修正
「腕に自身があるのだろう」
→「腕に自信があるのだろう」
2011/11/16:指摘いただいた誤字修正
鉈を手にして樫の木の根元に[標準]を合わせる
→鉈を手にして樫の木の根元に照準を合わせる