月の公子・その3
「月の公子さ」
苦味を含んだ表情でルナスはその名前を口にした。
本音を言おう。
その名前を聞いた鉄兵がまず考えたのは、本当に場違いな話ではあるのだが、なかなかに厨二臭い渾名だなぁという感想だった。
いや流石にそれはどうかと自分でも思うのだが、本当にそんな考えしか出てこなかったのだから仕方が無い。今こそ確信したが、どうやら中庭でルナスに騙されて以来、明らかにまともに頭が働いていないようなのである。ルナスとは致命的に相性が悪いのだろうか。鉄兵はどうしてもルナスと波長を合わせる事ができず、先程からどうしても言いたいところを察することができずにいるのだ。
とはいっても、相性が悪かろうが時間は動いているわけで、察せられないからと言って何も応えないわけにはいかないだろう。鉄兵はルナスの言葉について考える。
話の脈絡を考えるに、先程の民衆の態度に関係があるのだろう。多分、ここはその事について訪ねるべきなのだろうが、思い切り良く人に物を尋ねられるのを自慢とする鉄兵であるのだが、なぜかここではその積極性を発揮することができず、消極的な態度を取る事しかできなかった。
「……なんか、かっこいい名前だな」
ルナスに対しても。自分に対しても。反応に困った鉄兵は、とりあえず適当な事を言ってみた。
「あっはっは。ありがとう」
その鉄兵の台詞に対し、意外にもルナスは本気で笑っているようであった。今となってはその笑いはわざとらしく見えるのだが、しかし腹を抱えて大げさに笑い声を上げるその様は、本気の笑いも幾分か混じっているように見えた。
その笑いがピタリと止まる。
「でも残念ながらかっこいい事は一つもないんだよ」
笑いは止めても笑顔はそのままに、ルナスが鉄兵と目を合わす。その目に、鉄兵はなにがしかの決意染みたものが見えた気がした。
「月の公子の意味するところは日陰者、厄介者ってところかな。不気味で何をやらかすか分からない王子様って意味さ」
語るルナスの表情はあくまで笑っている。だが、今となってはその笑みの中には、多分に自虐の成分が含まれているように見えた。
その名の意味を考える。欧米では月は不吉の象徴と言われているらしいが、どうやらこの世界での月はその位置にあるようだ。
それを踏まえて再度思考を巡らせる。
すると、それは、なんとも嫌な渾名だった。
急激に雰囲気を変えたルナスの姿と相まって、想像力が膨らんでしまう。
想像の果てに鉄兵は思わずルナスに同情してしまいそうになったが、しかし危ういところで考え直した。
火の無いところに煙は立たない。先程の住民達の反応は噂どころのレベルではなく、本気でおびえているように見えた。
それらの事から情報をまとめ、思考を回す。出た結論は、少なくともルナスは彼らが怯えるような、何らかの大きな事件を起こしているというものだった。
不意にツンと鼻の奥にきな臭いものを感じて、鉄兵は少しだけ落ち着きを取り戻した。
その原因が偏見なのか、はたまた真実なのか。それはここでは判断がつかない。だが、いずれにせよ、これは表面的なものに惑わされてはいけない問題のようだと鉄兵には思えた。ここまでは髄液に不純物が混ざったように摩擦を起こて全く回転しなくなっていた頭だが、そろそろ本気で滑りを良くしなければ危険だと判断し、鉄兵は少し自分に気合を入れる事にした。
ルナスが自分を観察しているのも構わず、深く深呼吸をして息を整える。
そして落ち着きを取り戻した鉄兵は、正面からルナスの目を見つめてみた。
「ホーリィ」
そんな鉄兵にルナスは苦笑を寄こしたかと思うと、ルナスはホーリィに人差し指を口元に押し当てた。
それを見たホーリィが「はい」と背筋を伸ばし、緊張気味になにやら唱え始める。途端に周りの喧騒が消え、静かになった。とはいえ周り人々が動きを止めたというわけではない。周りの人々が雰囲気だけは騒がしそうに動いているところを見ると、どうやら周囲と音が隔てられているようだ。オスマンタスとの会話中も似たような魔法を使っていたと言っていたし、これはきっとその魔法の拡張版なのだろう。
背を向けて、ルナスが町中へと歩き出す。手を握られたままの鉄兵は、必然としてその後ろに続く。
「自分の事を語る人間って言うのは、胡散臭いと思わないか?」
背中越しにルナスが語る言葉は、しかし鉄兵には自分に向けて話しているようには感じられなかった。どこか空虚で独り言染みたその台詞は、事実聞かせるために話しているのでは無いのかもしれない。
「けど、君に僕を知ってもらうために少しだけ語らせてもらうよ。まあ、実際に僕は人に恐れられるような事をやっているって事だけだけどね。」
ごくさりげなく済ませた言葉は、鉄兵の予想を裏付ける言葉だった。
「あの竜人殿は言葉を濁してくれたけど、僕は外道と呼ばれるような行為を犯した事があるのさ。その証拠に……」
と、その時。ルナスが猛然と振り返り、側に従うホーリィに猛然と掴みかかろうとする。
が、大きく振り上げられてホーリィ襲い掛かったその腕は、ホーリィに触れる直前でピタリと止まった。
ルナスの突然の奇行に反応する事もできず、鉄兵はただ戸惑いの表情を浮かべる。
だが、その直後に襲い掛かられたホーリィの姿をみて、鉄兵はルナスが何をしたかったのか分かってしまった。
ホーリィは目を閉じて萎縮し、へなりとその場にへたり込んでしまっていた。いや、ホーリィだけではない。魔法によってざわめきこそ聞こえてこないものの、まるでルナスがいないものとして振舞っていた周囲の人々も、一様に後退り、その顔を引きつらせて心底からの緊張を見せていた。
「ほら、ホーリィを見てみな。それに周りの人達だって。みんな僕を恐れているだろ?」
ルナスが鉄兵に微笑みかけ、そんな言葉を口にした。その表情は笑っているにも関わらず、鉄兵の目には能面のように感情の無いものに見えた。
人一人の一挙動が波打つように人々の間に波及していくその光景は異様なものだった。ましてやそれがルナスの存在自体を無視をするような態度だったのに、今では軽蔑を含みながらも恐れを見せているのだ。
その異常性は、ひょっとしたら元の世界にもあったものなのかもしれない。
だが、少なくとも鉄兵はこんな光景を目にした事がなかった。
鉄兵の知る日常からかけ離れたその光景は、確かに鉄兵にとって異様なものであった。
しかし、それで鉄兵も周りの人達と同様に萎縮してしまったのかというと、それは別の話であった。
ルナスを取り巻く異常性を目の前にして、これまた場違いな話ではあるが、鉄兵は逆に妙に落ち着いてしまっていたのだ。
異様な光景を前にして、なぜそんな反応に至ったのかといえば、それはルナスにまつわる事実を思い出したせいである。
鉄兵が思い出した事。それは、あの中庭でルナスを見つけた時のアリスの顔だった。
アリスは王族であるが故、ある程度の切捨てというものが出来る人物だろう。だが、本当に信頼していない人物に、あんな笑顔を向けることなんて出来ないと思うのだ。
無論、それは鉄兵の思い違いかもしれない。アリスは王族であり、俗に言う王族特有の選民思想で民衆の思いなど軽視しているのかもしれない。
でも、少なくとも鉄兵はそんな事を思いたくないし、これは主観でしかないのだが、あのアリスが非道を行う人物にあれほど無防備な表情を晒すとは思えなかったのだ。
ゆえに、目の前ではルナスが暴虐不尽に振舞っているというのに、鉄兵はアリスの笑顔を思い出し、場違いにも心癒されてしまったのだ。
そして心に余裕ができ、冷静に自体を見つめることができた今、鉄兵の目にはルナスが自虐的に振舞っているように見えた。
微笑みながらも鋭い視線を向けるルナスのその姿は確かに挑発的である。だが、鉄兵はその瞳の奥には諦めにも似た怯えが見えた気がしたのだ。
それは願望から生まれた誤った認識なのかもしれない。
だが、そんなルナスの隠れた表情を目にした気がしてしまった鉄兵には、もはやルナスのその振る舞いが悲しい演技にしか見えなくなってしまっていた。
そんな事を思っている間、鉄兵はルナスの目じっと見つめていた。
それはただアリスの笑顔を思い出してぼけっとしてしまっていただけで、特に意味は無いことであった。
だが、ルナスにとってはそうではなかったようで、ルナスは酷く強烈な反応を見せた。
ルナスは一瞬その顔に動揺を見せたかと思うと、今までの余裕ある態度を一瞬にして掻き消し、突如として不機嫌そうな表情を顕にしたのだ。
予期せぬルナスの表情の変化に鉄兵は一瞬怯んだが、しかしそれよりも鉄兵の表に強く現れたのは、訝しげな表情であった。
それもまた、純粋にルナスの変化に対して怯えよりも戸惑いが色濃く現れただけだったのだが、しかしこれもルナスにとってはそうは見えなかったようである。
不機嫌そうに鉄兵を睨んでいたルナスであったが、しかしその表情は今にも首を傾げそうなほど真っ直ぐに戸惑いの感情を露にする鉄兵を前にして長くは続かなかった。鉄兵の視線を真っ向から受けたルナスは、やがて鉄兵の戸惑いをさらに上回るほどに戸惑いの表情を見せたのだ。
が、しかしそれは今回も一瞬の事で、ルナスの表情は更なる変化を見せた。ルナスは気まずそうに顔をしかめると、今度は少し子供っぽいとも言えるほどに素直に不機嫌そうな表情を見せて深くため息をついたのだ。
残念ながら相変わらずルナスが何を思ったのかを察する事はできなかったが、しかし鉄兵にはなぜかルナスの表情に諦めの色が混じっているように見えた。
そのため息から半テンポ置いて、鉄兵はようやく事の真相をおぼろげながら推察する事ができた。頭の回転は戻ってきたものの、どうやらルナスの心境を察する能力についてはまだまだだったようである。
今更の事だが、恐らく先程のルナスの態度は自分に対する示威行為も含んでいたのだろう。それを全スルーされて不思議そうに眺められてしまったのだ。そりゃため息を吐きたくなるだろう。我が事ながら空気の読めなさに少し恥ずかしくなってくる。
そして不機嫌そうにため息をついたルナスが顔を上げた時、ルナスの表情はまたしても変化を見せていた。
それは、戸惑いも欺瞞も感じられない、妙にすっきりとした笑顔だった。
「ま、そんな訳で僕は最悪なのさ。詳しくは後でホーリィにでも聞いてもらうとして、僕はその事について口にしないし、釈明もしないよ。僕が説明したり釈明したところでどうせ嘘になってしまうからね」
妙にさばさばとルナスが語る。
ここでなぜか急激に頭の回転が戻り始めたが、ルナスのその言葉には、ルナスに出会ってから感じていた鉄兵の思考を乱すような妙な違和感は含まれていなかった。恐らくだが、これがルナスの素の姿なのだろう。
「でも……」
ルナスの口からぽつりと言葉が漏れる。
不意にルナスの顔から不機嫌さが消え、真面目な表情が現れた。
「僕はその事について後悔していない」
その言葉が持つ意味は、多分深い根を持っている。鉄兵はその言葉をしっかりと心に受け取ったが、しかし反面ではどこか虚ろな台詞としてしか聞き取れなかった。
ルナスが話をしている相手は間違いなく鉄兵である。
だというのに、鉄兵にはその言葉が自分に向けて発せられた言葉だとは到底思えなかったのだ。
それは、ここではないどこか遠くにいる人物に向けて語った言葉のように聞こえた。
ゆえに嘘偽りの無い響きがその言葉には聞いて取れたし、恐らくは半ば無意識の台詞であると推測できるだけに、それだけは譲れない言葉に聞こえた。
ふと気がついたが、ルナスが真面目な表情をしたのは今が初めてかもしれない。
割と置いてけぼりな展開だし、台詞だけを聞いたらもうどうしようもなく厨二的な台詞である。
しかし、目の前でリアルタイムにルナスのその表情を追っている鉄兵には、ルナスのその言葉に確かに重いものを感じたし、それを笑う気にもならなかった。
なんだかんだ言って鉄兵は別の世界の住人である。元の世界の知識に毒され、どうしてもこういう場面では醒めた目線になってしまいがちであるが、でもここは元の世界ではないのだ。
基本的なここは人の付き合いが狭く深い世界である。その中で浅く広く名が知られている人物ならば、どうしても偏見の目に晒されて、確立された個を押し潰されないように印象強く輝こうとするものなのだろう。ましてやそれが良心の呵責にさいなまれて生きている人間ならば、こうやって芝居染みた行動を取ることによってしか生きられないのかもしれない。
そんなことを考えていたら、不意にルナスが手を離した。汗に濡れていた手のひらに清々しい風が流れ込み、不意に爽やかな気分を感じたが、しかしようやくルナスの手から開放されたというのに、鉄兵は喜びよりもなぜか不安を色濃く感じてしまった。
「君の聞きたい事に答えてあげようか?」
ルナスは、そんな言葉を口にした。何の事かと鉄兵が訝しがっていると、ルナスは微笑みを取り戻し、鉄兵に笑いかけてきた。これは、例のいたずらっ子の表情である。
「君の不興を買うと分かっているのに、なんでアリスを引き合いにして君をからかったのかについてさ」
どうやら調子を取り戻したらしいルナスの言葉の裏を、鉄兵は読み取ることができなかった。
「……それで?」
言葉少なくルナスを促す。あの時のルナスの行動はただのお遊びだと分かっているわけだし、今となってはあまり気にしていない。でも、事が自分に関わる事だけに、少しだけ気になったのは確かだ。
「僕が噂以外に君について知っているのは中庭の一件を眺めていた事だけだけど、少なくとも一つだけ分かる事があった。不躾だけど、君はこの国に深く関わるつもりがないんだろ?」
「え……?」
ルナスのその台詞に、鉄兵は背筋が凍るような思いだった。これは、ルナスがそう感じたという個人的な意見と考えるのは危険だろう。誰か一人が思っているなら、周りから見ればそう見えると考えた方が妥当だ。
「図星だろ? 僕はその事について責めたりしない。ただ、シリウス王や大神官殿、それにオスマンタス師はアリスを君にあてがって呪縛しようとしていたようだけど、アリスは僕の大切な従兄妹殿なんだ。だから適当に扱って欲しくなくってね。
……って、聞いているのか?」
残念ながら鉄兵は前半の言葉に動揺してしまい、その後半の言葉は届いていなかった。
言い当てられた事実に鉄兵は動揺を隠せないでいた。そう、これは言い当てられたのだろう。
ルナスの言葉は、多分どこも間違っていない。
なんだかんだで自分は軽い気持ちでいた。恐らくそれは事実なのだと思う。
薄々は自分でも自覚していた事実がルナスの言葉で明らかにされ、鉄兵は酷く動揺してしまった。
そしてだからこそ今まで気がつかない振りをしていた問題が重みを持って鉄兵の心に押し寄せてきた。果たして自分はこの国に深く関わるべきなのだろうかと。一年と経たずにこの世界から姿を消す予定である自分が、これ以上に友誼を深めたり国政に関わっても良いものだろうかと。
「……まあいいさ。で、そろそろ正気に戻ってくれないか?」
「え? ああ……」
深い問題に圧倒されそうになっていた鉄兵だったが、ルナスに呼びかけられて遠い思考の世界から戻ってきた。人を前にして話をしている最中なのだ。逃避が含まれていないといえば嘘になるだろうが、今は自分の問題について考えるべきではないだろう。
「それで、なぜ僕があんな真似をしたのかをいうと、さっきも言ったように、それは僕が君に興味があるからだ」
それは城の中庭でも言われた事である。だが、なぜルナスは自分に興味を持ったのだろうか。
そんな疑問が恐らく表情に漏れていたのだろうか。ルナスが鉄兵の顔を見て微かに微笑む。
「山賊姫。今となってはアルテナ公女といった方がいいかな。彼女が率いる山賊団の本拠地は誰の領土にあるか知ってるかい?」
問われた鉄兵は瞬時に回答を脳裏に浮かべた。アルテナ率いる山賊団の領土は確か王弟の領土だと言っていたはずだ。そして王弟と言えば確か……
「あなたの父親の領土か」
ルナスの自己紹介を思い出す。確かルナスは『シリウス王の弟の息子』と名乗ったはずである。
「できればルナスと呼んでくれないか?」
なぜかにこやかにルナスが笑う。
「客観的に見て、父は無能ではないよ。でも、山賊姫の集団を制圧する事はできず、事実上その存在を黙認する事で治安を守ってきた。
それなのに、誰とも知れない人物が突如現れて山賊姫を討伐し、父の領土を下賜され、さらには従兄妹殿と良い仲になっているという話じゃないか。興味が湧くのも当然だろ?」
「それは……悪い事をしたようで……」
ルナスの言葉に鉄兵は呻きそうになった。
ルナスの立場になって考える。端的に言えばどこの馬の骨とも言えないような人物が父親の顔に泥を塗り、領土を奪い、見合い相手を横取りしたわけである。興味を持つどころの騒ぎではなく、殺意を持たれてもおかしくないだろう。正直ものすごく気が引ける。
「君は、君のすべき事をしただけだろ?」
返ってきた答えは、意外にも満面の笑顔だった。
「実のところ、その件については昨日の時点でもう気にして無かったよ。僕もあの謁見の場にいたんだからね」
何か聞き捨てならない言葉が聞こえたような……
「素直に言うよ。僕はあの謁見を見て感動したんだ。こんな人間もいるものなんだなってね」
「それは……ありがとうございます?」
動揺した鉄兵は、訳が分からない返答を返した。あの猿芝居を見られていたとは……今更ながら顔が赤くなる。
「謁見を見て、僕は君から学び取りたい事ができた。だから、僕は君に僕を見て欲しかったんだ。
話は長くなったけど、それがあんな真似をした理由だよ。
どうだい、君は僕を無視できなくなっただろ?」
そう言って、ルナスはいたずらっぽく笑った。
「……これは完敗かな」
ルナスの話を聞いた鉄兵は、げんなりとした表情を浮かべて負けを認めた。
どうやら全てはルナスの掌の上であったらしい。冷静に自分の心理を確かめるに、確かに今や鉄兵はルナスの事を無視できなくなっている。別に勝負ではないのだが、結果を見る限り、これは負けを認めざるを得ないだろう。なにやら悔しい気もするが、どうやらルナスの方が明らかに一枚上手のようである。
「ところで、学びたい事ってなに?」
負けを認めた鉄兵は、気になっていた事を聞いた。技術的なことならともかく、王族であるルナスが自分から学びたいとは一体何のことやら
「……まあ、それはそのうち話すとしようじゃないか」
その言葉に、ルナスの表情が一瞬だけ引き攣るように歪んだ。
「そんなわけで改めてよろしく頼むよ」
誤魔化すようにルナスが右手を鉄兵の前に差し出す。
一瞬だけ見せた表情の歪みに虚を衝かれ、その手を反射的に握り返そうとした鉄兵だったが、ふと我に返って躊躇を見せた。
今更ながらの話だが、ルナスの策略にまんまと嵌って様子見に徹していた鉄兵は、結局のところ終始話の主導権を握られてしまっていて、ルナスが自ら語ったこと以外には何も情報を引き出していない。何をして民衆から恐れられているのか、何が目的で鉄兵に近づいたのか、結局重要なところは何もわかっていないのだ。
それはルナスが意図した結果であり、逆説的に考えればこの握手をするまでは隠したい事なのだろう。
ここで握手を交わせば、鉄兵はルナスを知人として認めた事になる。考えすぎかもしれないが、ここでルナスの思い通りになってもいいものだろうか?
「……よろしく」
一瞬だけ躊躇った鉄兵だったが、一瞬の後には鉄兵はルナスの手を取って握り返していた。
躊躇する鉄兵の背中を押したのは、それはまたもあの時に見せたアリスの笑顔であった。
物事はすべて出来る限り単純にすべきだと言ったのは、さてどの偉人であっただろうか。
他人の噂と身内の笑顔。
この単純な二択を前にすれば、どちらを選ぶかは簡単な事だったのだ。
ルナスが歯を見せ、満面の笑みを見せる。
その笑顔を見て、悪い奴じゃないんだろうなと思ってしまったのは、これまた単純な事であろうか。
「それじゃ行こうか」
「え? ちょ、ちょっと!」
続いてルナスが取った行動に、鉄兵は相も変わらず調子を狂わされる事となった。
鉄兵としてはてっきりルナスの手から開放されたと思っていたのだが、ルナスは握手した手を離さずにそのまま鉄兵の手を引いて歩き出したのだ。どうやらここに来るまでルナスが鉄兵の手を離さなかったのは、何か策略があっての事ではなく、地の行動だったようである。
かくして野郎同士が手を握って歩くというそのむさ苦しい光景は、鉄兵が手の間に流れる汗の気持ち悪さに耐え切れずにとうとう切れるまで続いたとさ。
2012/7/17:指摘いただいた誤字修正
ひょっとしたら[下]の世界にもあったものなのかもしれない
→ひょっとしたら[元]の世界にもあったものなのかもしれない