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月の公子・その1

「今度、アリス姫とお見合いをする事になっております」


 ルナスと名乗る男は確かにそう言った。


 そしてその言葉を聞いた鉄兵は、何も考える事が出来なくなり、ただただ馬鹿みたいにルナスの顔を見る事しか出来なくなってしまっていた。


 アリスがお見合いをする。それは最初から分かっていた事である。


 そのためにアリスは国に帰って来たのだし、鉄兵はそれに付き添うようにこの国に来たのだ。


 当然ながらお見合いをするという事は相手がいるという事である。つまり、見合い相手がいる事は分かっていた事であるし、昨日の晩餐の席においても微かに仄めかされていた事だ。


 なので鉄兵は近いうちにそのお見合い相手に会う事もあるだろうなと思っていたし、心にはとどめてはいた。


 だからその人物に会ったとしても何のわだかまりも無く行動できる。そう鉄兵は何の根拠も無く信じていた。


 だが、残念ながら現実はそうではなかった。


 おかしい話ではあるが、自分の思考が不明瞭になったという事実を鉄兵は客観的に把握する事ができた。頭に血が上ったのだろうか、不意に視界がぼやけ、思考がぼんやりともやにかかったようになっている。それと同時に焦りとも喪失感とも取れるマイナス方向に強く流れる感情が胸を支配している事を自覚できた。


 一呼吸遅れて事実に気がつく。そう、これは明らかに負の感情である。それも、思考能力が麻痺してしまうほどの。


 鉄兵にとって、これは生まれて初めて感じる感情であった。なぜこんなにも強い負の感情を感じてしまったのか、鉄兵は自分の事だというのに理解が出来なかった。自分の中にこれほど強い感情がある。そんな事すら鉄兵にとっては新発見であったのである。初めて感じるその強い感情を前に、鉄兵はただそれを押さえつけるために思考を停止するほか無かった。


 感じたくも無い不快な感情。自分の中から消してしまいたくてたまらなく、一瞬だって身の内に飼っておきたくないと心から思うその感情は、しかし奇妙に甘い感覚も混じっていて、根深く心の奥底にとどまり続ける。この感情の根本に基づくもの。その理由も本質も、今すぐにだって理解できるくせに理解などしたくない。そんな非合理的で救いの無い判断が無意識下に脳裏で再考と即断を繰り返し、鉄兵はその一点に処理能力の全てを奪われ身動き一つ取れなくなってしまった。


 なにか行動を起こさなければ。


 その思いだけが脳裏に浮かぶ。


 何も考えられない状況の中で、ただ一つその思いだけがはっきりと思い浮かんだ。このままだと、何か本当に大切な事が手遅れになってしまうような気がして、とにかく行動を起こさなければという思いだけが募った。


 でも、何をすれば良いのか、どうしたいのか。それが自分でも分からない。


 結局のところ、痺れた思考能力ではその解を出す事が出来ずに、鉄兵は何も行動を起こす事が出来なかった。


 そしてこの状況を動かしたのが誰かといえば、それはこの状況を引き起こした張本人であるルナスによってであった。


 アリスの肩を抱いてにやにやと笑うルナス。そのにやにやとした頬が唖然とする鉄兵を前にしてさらに緩む。


「……ぷっ」


 頬が緩むと同時にルナスの口角は堰を切ったかのように釣り上がり、やがて限界を超えて小さく喉を震わせた。


「あは、あはははは!」


 そして微かに口が開いたかと思ったら、ついには白い歯が零れ出て、大声で笑い出したのだ。


「あははは、はぅっ……!!」


 突然笑い出したルナスが、奇妙な声を上げて不意に身体をへの字に折り曲げて崩れ落ちる。


「へ?」


 一体何事が起こったのか、唐突なルナスの変化に鉄兵は先程までの鬱屈とした感情も吹っ飛んでルナスのそのありさまをきょとんとして眺めてしまった。



 それでも我に返って 何事かと思い状況を確かめてみると、崩れ落ちたルナスのわき腹のあった位置にアリスの肘があった。


 この状況が何を表すのか冷静に考えてみる。とはいえ考えるまでも無く事実はひとつしか無いような気がする。ルナスが奇声を上げて崩れ落ち、そのルナスのわき腹があった位置にアリスの肘があったという事は、つまりアリスがルナスに肘鉄を炸裂させたのだろう。


 ルナスがアリスの肩を抱き、アリスはそれを拒む事も無かった。そんな仲睦まじいさまに鉄兵は動揺を隠し切れずに醜態を晒してしまったというのに、突如訪れたこの光景はなんなのだろう。


 突如高笑いしたルナスとそれを撃墜したアリス。その強烈なインパクトに先程までの動揺は吹っ飛んだが、それとは別に鉄兵は状況にまるでついていけず、疑問符を浮かべつつアリスを見た。


 すると、アリスは額に手を当てはぁっと溜息を吐いていた。


「ひどいじゃないかアリス」


 そんなアリスに復活したルナスがにやけた表情で笑いかける。が、アリスはいかにもやれやれしょうがないなといったような表情を浮かべていた。


 混乱する鉄兵に、アリスの目が向く。


「すまない鉄兵。見ての通りルナスはどうしようもない奴なのだ」


 真摯な瞳が鉄兵を見つめる。その瞳を見ただけで鉄兵はとりあえず何もかも許してしまう気になったりもした。が、それよりもまずは説明が欲しいところである。


「そうそう、僕はどうしようもない奴なのさ。悪いねテツ君」


 そう言って「あはは」とかる~く笑ったのはルナスであった。先程までの挑発的な態度とは打って変わって好意的な笑みを浮かべてにこにこと笑っている。


「えーと……はぁ」


 いつもならここで説明を求めるところだが、しかし鉄兵の口から出てきたのは曖昧な溜息のような声だけであった。なんだかんだで未だ動揺が抜けきれず、ただ呆然と事の成り行きを見守る。


 唖然とする鉄兵を放っておいて二人の会話はまだまだ続く。


「しかし、お見合いの相手がルナスだったとは……そうか、私はそこまで追い詰められていたのか」


 頭を振ってうな垂れるアリスの口からそんな台詞が零れ出た。なにやらショックを受けているようである。


「そうだね。これを断ったらもう後はないんじゃないかな。君も僕もね」


 対するルナスもにこにこと物騒な台詞を口にした。


 未だ頭の回転を取り戻していない鉄兵にはいまいち二人の言葉が理解できず、困った鉄兵は戸惑いの表情を隠そうともせずにシロの方を見て助けを求めた。とりあえず困った時のシロ頼みである。


 シロを見ると、シロは会話の流れにあまり興味が無かったのかぼーっと煙をくゆらせていた。が、鉄兵の視線に気がついたようで、少し顔を歪ませた後に口を開く。


「ルナス第七王位継承者か……あまり良い噂はきかねぇな。 確か才気はあるがやる気が無く、年がら年中遊びまわってるってぇ話だったかな。ついでに女性に興味が無く、男色の気があるんじゃねぇかって噂だ」


「竜人殿。それは違いますよ」


 王族相手に容赦ない台詞だなとシロの代わりに鉄兵が焦っていると、本人の口から訂正の言葉が飛び出した。


「私は女性に興味が無いわけじゃない。ただ興味を持てる人物が少ないだけです」


「……だそうだ」


 訂正するのはそこだけなのかと突っ込みたくなるルナスの言葉に、シロは投げやりな口調で鉄兵にパスを投げた。なぜかは知らないが、どうもシロは心底ルナスに興味が無いようである。


 それはともかくシロの言葉を元に先程の二人のやり取りを考える。シロの言葉を考えるに、ルナスはあまり女性に興味が無いようである。そして先程の二人のやり取りを考えるに……


「つまり二人はお互いにあまりに興味が無い?」


 なぜか非常に望ましいと思える結論が頭に浮かび、鉄兵がそれをそのまま口にする。


 すると、鉄兵の結論とは裏腹に二人は難しい表情を見せた。


「そうとも言い切れないかな」


 非常に危うげなものを触るような表情でルナスが苦笑する。 


「僕もアリスもお互いが最低限のラインだろう。だから他に選択肢が無いなら今回の話はまとまったんじゃないかな」


「そうだな……」


 ルナスのその言葉を、アリスは否定しなかった。


 その言葉を聞いて、鉄兵の内側に先程感じた負の感情が蘇る。しかし、鉄兵のその感情は「でも……」と再び語り始めたルナスが紡いだ言葉によって打ち払われる事になった。


「僕とアリスは兄妹みたいなものだ。だからあまりそういう事は考えたくないかな」


「そうだな」


 ルナスはそう言いつつ悪い夢でも見た後のような苦い表情を浮かべる。その言葉に、アリスもうんうんと頷いている。


 どうやら二人は必要があればそうなるものの、お互いに恋愛の対象にならない存在のようである。なにか大切な事を忘れている気がするが、そんな二人の態度にほっとしてしまった鉄兵である。


 しかし、その話を聞いた後に別の疑問が浮かんできた。なら、なぜアリスとあんなにも密着し、自分を煽るような態度を取ったのだろう。


 と、ここでようやく鉄兵の頭が回りだす。先程感じた感情から元に導き出された結論はこれしかないというものであった。


「つまり……俺ってからかわれたの?」


 ここでようやく辿り着いた結論は、鉄兵にとって不覚としか言いようの無いものであった。


 自分で出した結論ながら、先程までの感情を考えるに不愉快極まりない事である。かといってそれを確かめないという選択肢を持たない鉄兵は恐る恐るルナスの方を見た。


 すると、ルナスは再びあのいやらしい笑みを浮かべていた。そのルナスの表情を見て、鉄兵はそれが正解だと気がつき、どんよりとうな垂れる。ちなみにそんな鉄兵の様子を見てアリスがどこか嬉しそうな表情を見せていたのはここだけの話である。


「あはは、改めてごめんね。でも、そんな事は今、どうだっていい事なんだよ」


 いつのまにか擦り寄ってきていたルナスが馴れ馴れしく鉄兵の肩に手を乗せる。


「それよりも、ボクは君に興味がある」


「へ?」


 ふと高校時代に散々味わった危機の記憶が蘇り、鉄兵は身を硬くする。


 だが、そんな鉄兵の個人的な体験から来る危機感にルナスが気がつくわけも無く、ルナスはさらにずいと鉄兵に近寄った。


「僕は、君の事を深く知りたいんだ」


 非常に顔が近かった。


 ある意味告白の台詞のようなその言葉は、無論男に言われても嬉しいものではない。その言葉に鉄兵は怖気立ち、完全な拒否の姿勢をとろうとしたのだが、しかしそれよりも早くルナスはすっと鉄兵の近くから離れて状況を動かし始めた。


「とりあえず場所を変えて話さないか? ホーリィ、鉄兵殿はこの後どこに行く予定なんだい?」


「は、はい。この後は町に出て鍛冶工場を見学する予定でした」


 それまで鉄兵とシロの戦いに当てられて腰を抜かしていたホーリィは、しかしそのルナスの言葉で立ち直ったようである。戸惑いつつもしっかりとルナスの言葉に返事を返す。


「それは丁度いいね。早速行こうか」


 ルナスはなんとも強引な性格らしく、思い立ったが吉日とばかりに鉄兵に笑顔を向けた。


 が、そんなルナスに待ったの声がかかる。


「待てルナス。なにをそんなに急いているのだ? 話があるならここで話せば良いではないか」


 至極もっともなアリスの言い分は、しかしルナスの言葉に抗う事が出来なかった。


「僕はそれでもいいけどね。でも、そろそろ先程の騒ぎを受けてここに君の兄君が到着する……と聞いたらどうだい?」


 ルナスのその言葉にアリスの表情が引き締まった。


「ふむ……そういう事なら鉄兵はこの場にいない方がいいのかもしれないな。ルナス、頼めるか?」


「任せてもらうよ」


 鉄兵の与らない場所で話がほいほいと展開していく。なにがなにやら分からないうちに自分の意思とは関係なく自分の行動が決まってしまったらしい。


「それじゃ、行こうか」


「え? えっと……」


 ルナスの左手が鉄兵の右手を掴む。ルナスのスキンシップ力の高さに躊躇うところもあり、それ以上に自分の意思とは関係ないところで自分の行動が決定されてしまった事に戸惑った鉄兵だったが、救いを求めるようにアリスの方を見ると、アリスは鉄兵を正面から見据えてただ黙って頷いた。その表情は真剣そのものである。よくわからないが、アリスの表情を見るにここは従った方が良いらしい。


「わかった」


 最初から最後までルナスに翻弄されつつも、覚悟を決めた鉄兵は自分の意思によってルナスに手引かれてこの場を後にする。


 そして鉄兵が去った後に残されたのは、鉄兵とシロの対決から続く一連の緊張感からようやく開放された者達だけであった。


 その中で、未だ腰を抜かしたままのリードがリルを抱きしめ話しかける。


「鉄兵、いっちゃったね」


 置いていかれたリルがキャウンと一声悲しそうに吼える。


「けど、そうなら今日もずっと一緒にいれるのかな?」


 そう言いつつ、リードは嬉しそうにリルに笑いかけ、そっとリルの頭を撫でた。


 鉄兵とは違い、リードとリルは会話による意思の疎通はできない。


 だがしかし、リードの気持ちを感じる事が出来たのか、キャンと一声嬉しそうに鳴くと、リルは嬉しそうに尻尾を振ってリードの頬をぺろりと舐め始めた。

2011/6/30:ご指摘いただいた誤字修正


ルナスのわき腹があった位置にルナスの肘があった

→アリスの肘があった


その言葉に鉄兵は怖気だし

→怖気立ち


2011/9/13:ご指摘いただいた誤字修正

身体をへの字にオチ曲げて崩れ落ちる

→折り曲げて

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