あの雲のようになれればいいのにな
『あの雲のようになれればいいのにな』
ある晴れた日のこと。
君はぽつりと呟いた。
「……あの雲のようになれればいいのにな」
最初にそれを聞いたのは小学生くらいのこと。
先に帰ってていいよと進言した私に、君は待っているからいいよと答えた。
クラブ活動を終え、小走りで急ぎ昇降口へ向かうと、果たして君は外に出てすぐのところに君はいた。黒く長いをなびかせながら、高い高い空の向こうで冷たい風に流されていく雲を見上げていたのだ。
そのとき、小さな声で“あの言葉”を口にした。
私には、何を言っているのかわならなかった。
きっと独り言なのだろう、そう思った私はあえてそれには触れずに君に声をかけた。
覚えている限り、次に聞いたのは中学生になってからだったと思う。
この頃、昼休みになると私は決まって保健室に赴いていた。理由はとても簡単で、君がいつもそこにいるからだ。
担任の教師から、当時は身体が弱いから保健室通いなのだと聞いていた。そして、君が学校で私に会えるのを楽しみにしているのだと、教師からも礼を言われていたと思う。
だから、給食を食べてすぐのお昼休みには必ず保健室に行くようにしていた。
実を言うと、この頃の私は少し億劫に思っていた。君との仲に疑問を持っていたわけではないが、クラスの皆からの好奇の目に晒されるのが、思春期の私には耐え難いものであったからだ。
すでに半年以上こういう生活を続けていた私は、クラスメイトの間で少々知名度があり、この話題で小馬鹿にされるような事もあった。黄色い視線に後ろから刺されながら教室を出るのが嫌だった。
でも、君と会って話していた時間は昔からずっと変わらず、色褪せず、楽しい時間だった。
私が保健室に入ると、君は眠たそうだった瞳をいつも輝かせていた。
雲が好き。
多分この頃からだったと思う。君がそう言い始め、私もそう認識し始めたのは。
自由気ままで、変幻自在で神秘的な雲が良いものだ。君は雲の話題になればいつもそう語り、そして最後には決まって“あの言葉”を羨ましそうに呟くのだ。
けれど、私にはまだ君の語る魅力はわからなかった。楽しそうに話す君を見ているのが好きだったから、私はずっと君の言葉へ頷いていた。でも私には、雲になってしまったら退屈そうだな、なんてずっと思っていた。
だから、君の思いはうまく理解できなかった。
でも、それを理由に君と私に溝があるとも思えなかった。
部活動の為に短く切り揃えた髪と、日に焼けた黒い肌、周りと比べて線の細い身体の私。
落ち着いた大きな瞳はまだ十代半ばだというのには大人びて見えて、艶のある黒い長髪はお淑やかでどこか神秘的な雰囲気を漂わせていた君。
正反対にも見える私たちは、互いに見えているものが違う。
だからこそ、全く異なる二人の共通点が面白く、君の口にする世界が新鮮に思えるのだ。
だからこそ、私は周囲の眼よりも有意義な親友との時間を優先していたのだ。
中学を卒業するまで、私にとって雲は親友の好きなものだった。
高校に入学した後、しばらく君と会わない日々が続いた。
成績優秀な君は、私よりも二段階くらい上の偏差値の高い学校に入学し、私はスポーツ推薦で近くの高校に通うようになった。
この当時の私はかなり焦っていたと思う。
生き急いでいるとでもいうのだろうか。難しくなる授業と、先輩たちとの大きな差を感じる部活動、新しい人間関係。なんだか、ずっと忙しかったように思う。
君のことを思い出したのは、母から君が入院したと伝えられた時だった。
当時の私は高校二年生。
君は一年生の途中から休学し、ずっと病院で生活していたという。
一年以上の時間が経っての再会だった。長期入院もあって多少は昔よりも弱々しい顔色になっていることは容易に想像できたし、相応に心配もあった。だけどそれ以上に、成長した君に会えるのが、そして成長した私を見せるのが少し楽しみでもあった。
病室の扉を開けた途端、私は頭が真っ白になったことを今でも鮮明に覚えている。
淡い色の病院服が鮮やかに見えるほど青白く、深々と被ったニット帽からは黒髪が見えておらず、目元には病的なまでの黒いクマがある、そんな目の前の人物を君だと理解できなかった。
ここでようやく、私は事の重大さを知ったのだ。
以来、私は週に一度くらいのペースで病院へ通った。病院の扉を開く度、君はかつて中学時代にそうであったように目を輝かせて迎えてくれた。
内心、それがかえって怖かった。
目の前の君は、明らかに私の知っている君ではないのに、君は私のよく知っていた君と変わらない。弱っていく君を、現実を突きつけられているような気がして怖かった。
扉を開けてすぐはいつもこうして驚いてしまうのだが、話してみると君は本当に昔と変わらなかった。
クマのある瞳でも大人びていて、長髪が無くともお淑やかで、儚くも神秘的な空気。
そして、“あの言葉”。
言葉を重ねていくほどに、数年前の記憶が蘇る感覚がしていた。
会話の無い時間は、君と二人で空を見上げていた。
晴れ渡る透き通った青色をゆったりと浮かぶ白い雲。
これまでゆっくりと空を見上げることなんて無かった。だから静寂の中に流れていく、自由気ままで変幻自在で、なんだか神秘的な白い存在を、ようやく私は知ったのだ。
何度も通っていると、自然と話題も尽きてくる。そんな時はいつも二人で窓の外を眺めては、雲へと思いを馳せていた。
気が付けば、次の春を迎える頃には学生時代を終えるところまで経っていた。
今でもよく覚えてる。
夏の暑く広大な空を、病室の少し肌寒い窓から君と共に眺めながら。
次の春から社会人になる、就職先が決まった、そんな事を話した。
君は、表情一つ変えずに祝いの言葉をくれた。
その後、私たちはいつものように空を眺めていた。さきほどの態度に疑問を持っていた私は、ひっそりと横目で君の顔を窺った。
泣いていた。
静かに、涙を流して雲を見上げていた。
君は口にしなかったが、不思議と“あの言葉”が脳裏に浮かんだ。それこそが、君の本心なのだと今の私には理解できた。
病室を出る時。
背中に小さな声で言の葉を投げかけられた。
上手く聞き取れず、振り返って、どうしたのかと尋ねるが君はなんでもないとはぐらかした。
それが、君との最後の会話だった。
よく晴れた日のことであった。
君の遺した書き置きには私へ宛てられたものもあった。
そこにはただ一言。
「先に、あの雲になってくる」
君の震えた言葉で綴られていた。
その日も、よく晴れ渡った日であった。
今の私はというと、親元を離れて少しだけ遠い街で一人暮らしをしている。
朝になれば自動点灯するように設定したテレビ番組が今日の天気を教えてくれる。毎朝、私はその日の天気に一喜一憂しながら目覚め、仕事へ向かう支度を始めるのだ。
今日の天気は一日快晴、そんな言葉が出るとついつい気が重くなってしまう。
今でも私は時折空を睨みつける。
青に浮かぶ小さな白を見上げている。
私は、この空が好きだ。
私がずっと気付けないでいた儚い空が、君がずっと届かないでいた自由な空が、私達が小さく、弱く、無力に感じるほどに遠く遠いあの空が、最期に君を奪い去って行ったこの空が───好きなんだ。
きっと君は今もこの空を見ているのだろう。
君からは、どう見えているのかな。
ご意見ご感想罵詈雑言、いつでもお待ちしております。




