0日目
千切れかけていた指がくっつき、痛みが急速に消えていく。
薬を振りかけられ手をかざされただけで起きた、現代科学では説明が付かない奇跡を目の当たりにして。
男は目を丸くしつつ、今の状況にどこか物語的な既視感を抱いていた。
美しい少女を脅威から守るため、男は戦い傷を負う。少女は感謝の印として男を家に招き、傷の手当てをする。
なんともまあ、新しい恋の物語が始まりそうな展開ではないだろうか。
これでその『脅威』を倒したのが、俺だったなら恰好がついたんだけど。
男、宇野 宗也は内心、苦笑した。
野犬に襲われる少女を身を挺して守ろうと、間に割って入ったまでは良い。しかし直後指を食い千切られ、痛みにうめく間。守るはずだった少女は、どこからか取り出した青白い剣で自ら野犬の首をはねていた。
野犬から少女を庇うと言う英雄的行動は、余計なお世話を働いた挙句に傷の手当てをしてもらうという、間抜けな結果に終わったのだった。
とはいえ、情けなさを自嘲するより先に、やることがある。
元通りになった指をしげしげと見つめた後、宇野は緊張しながらも努めて大きな笑顔を作った。
「ありがとう、助かったよ」
その感謝の言葉を受けた相手、宇野の指を治療した人物は、18歳の彼より年下に見える小柄な少女だった。
腰まである長い黒髪と、顔を隠すように伸ばされた長い前髪。
その隙間から見える瞳は、透き通った海を思わせる鮮やかなマリンブルー。美しい瞳を飾るまつ毛は、零れ落ちそうなほど長い。
すっと通った鼻筋と大きくも切れ長の目、スマートな眉は凛とした美しさを感じさせるが、小さな口と白い肌に朱を浮かべた柔らかそうな頬は、子供らしい印象を与える。
化粧をしていないのか色素の薄い唇はしかし、瑞々(みずみず)しく柔らかそうだ。
冷たく整った美貌の中に子供っぽさを感じさせる、魔法使いのような恰好をした可愛らしい美少女だった。
「……Подождите, пожалуйста!」
そんな彼女は笑顔を向けられると、頬を真っ赤にして何かを叫び、その場から走り去ってしまった。
「……言葉が通じないな。はぁー……どこ、ここ?日本じゃないだろうし……そもそも地球なのか?ここは」
宇野はひとり呟きながら、周囲を見回した。
彼がいるのは、小さなログハウスの中。家具も小物もほとんどない部屋の中で、椅子に座っていた。
「やっぱり、滝に飛び込むなんてやるんじゃなかったな。いくら度胸試しとはいえ」
宇野はこんなことになった経緯を思い返した。
大学入学直後の春、サークルの新歓で行ったバーベキュー場。
未成年だからと酒を断っていたが、上級生のチャラい男が自分と同じ新入生の女子に、しつこく酒を勧めているのを見て放っておけず。『俺が代わりに飲みます』と彼女を庇った結果、飲んでしまった。
そして酔った勢いで、度胸試しと称してバーベキュー場の近くの川で飛び込み大会が開催された。
酒も入ってるし止めとこう、と思っていたのだが……『ビビってんのか、男らしくねえな』と先ほどのチャラ男先輩に挑発された彼は、追加でロング缶を空にして、服を脱ぎパンイチで川では無く近くの小さな滝つぼに走り、ダイブした。
昭和気質な父に男手一人で育てられた彼は、女性が困っていると放っておけず、『男らしくない』『ビビってんのか?』という言葉に乗せられやすかった。
男子高出身で数年ぶりの同級生の女性という存在に浮かれていて、見栄を張りたかったというのもある。
しかし残念ながら、男らしさに重きを置く彼は中高と剣道部所属で筋トレが趣味。マッチョボディは水に浮かないのだ。
そして滝つぼに飲み込まれてグルグルした結果、気づけば知らない森の中。川のほとりに打ち上げられていた。
とにかく人里に向かおうと川の下流に向かっていたところで、先ほどの少女が野犬に襲われ怯えているのを発見。助けようと間に入った結果は……余計なお世話どころか足手まといである。
パンツ一丁の上に渡されたベッドシーツにくるまりながら、そんな風に考えていると少女が戻ってきた。彼女は相変わらず頬を赤くしたまま、歪んだリンゴのような果実を差し出した。
「えーっと、これを食えってこと?」
宇野が受け取って口に運ぶジェスチャーをして見せると、少女はコクコクとうなずいた。
一口、二口と食べていく。すべて咀嚼して飲み込んだところで、彼の脳内に大量の情報が流れ込んできた。
言語、常識、価値観、文化。あらゆる情報が大量に脳内に流れ込んで、強引に焼き付く。そのあまりの情報量に呆然としていたが、それらを解釈し終えたとき、宇野は理解した。
ああ、ここは剣と魔法の異世界なんだ、と。
それも、男女の貞操観念と社会的役割が逆転した、貞操逆転女尊男卑な異世界なのだ、と。
犬には何か角が生えていたし、少女は魔法使いみたいなローブを着ているし、薬だけで指はくっつくしで、ここが元居た世界ではないのではないか、と考えていた。
その想像は当たっていたようだが、その上に男女の価値観も色々逆転しているらしい。
「あ、あの……言葉、分かりますか?」
新たに得た知識を整理していた宇野に、少女は声をかけた。
先ほどまでは理解できなかったその言葉を、今では完璧に理解できた。そして、聞くだけでなく話すことも。
「あ、ああ。分かるよ、分かる。えっと……助けてくれて、ありがとう」
宇野の言葉を聞いた少女は、ホッとしたように胸を抑えた。
「よ、良かったです……ゆ、指の方も、痛まないですか?」
その質問に対し、宇野は体を覆うシーツを片手で留めながら、治療された方の手をプラプラと振って見せた。
「ああ、全然へっちゃらさ。いやあ、何とお礼を言ったらいいか……えーっと、名前を教えてもらってもいいかな?ああ、俺は宇野 宗也っていうんだ」
「ウーノ・ソーヤーさん、ですね。えっと、わ、私はミーシャって言います。苗字はありません」
「あっ、伸ばさない……まあいいか。それでミーシャさん、本当にありがとう。助かったよ」
今話している言語、ラシスカ語では伸ばす発音が多い。呼びやすいように読んでもらえばいいだろう。かつて英語の授業の時、教師のオーストラリア人にもそうやって呼ばれていた経験のある彼は訂正を諦め、深々と頭を下げた。
「き、気にしないでください!こ、困ってる男の人を助けるのは、女として当然です!」
ミーシャの言葉にウーノは苦笑した。彼は父から、男は女を守れ、と教育を受けてきた。
しかしこの世界では、女性の方が男性よりも魔力が高く強いのだ。女が外で戦い、男は家でその帰りを待つ。それが当然の世界。そんな自分の価値観が根底から覆される異世界に突然放り出されては、自分の身の置き方をどうすればよいかと悩んでしまう。
「ハハ……そうだね。本当は、俺がかっこよくあの野犬……じゃなくて魔物から、君を守れたら良かったんだけど。ミーシャさんはすごいね、あんなに怖がっていた魔物を、一瞬で倒せるなんて」
『女子供を守るのが男の役目だ』
現代日本ではやや古臭くなった、昔気質の父の教え。それを実践すべく、自分より年下に見えるミーシャを魔物から助けようと立ちふさがったはいいが、結局彼女が脅威の排除も治療もしてくれた。このままでは男の癖にいざという時、役立たず。
ウーノは自嘲的な気持ちにならざるを得なかった。
「……も、もしかして、私が怯えていたせいで、ウーノさんは私を助けようと?ご、ごめんなさい!」
「いやいや、謝らないでよ!結果的に手間を掛けさせただけで、俺は何もしてないんだから。余計なお世話をしただけさ。それよりほら、さっきくれた果物。あれは何かな?」
この世界では、女が男を守るのが常識だ。だからこそ、ミーシャは自分の臆病さで男に余計な怪我をさせたことを恥じて、縮こまってしまった。
自分の発言で女性を傷つけた。そのことに慌てたウーノは急いで話題を変えた。彼の質問に、ミーシャは伏し目がちになりながらつっかえつっかえ説明する。
「た、食べていただいたのは、『知恵の実』という、魔法植物です。か、賢い植物型の魔物に、ずっとしゃべりかけて言葉を教えると、作れるんですよ。お、教えた内容を食べるだけで覚えられる、優れモノです。わ、私たち『流れ水の民』に伝わる、特産品です」
「へえ。便利なものだね。それがあれば、俺も英語のテストで苦労しなかった……ああ、何でもない。えっと、ところで『流れ水の民』っていうのは、何かな?」
知恵の実からは、この世界の常識や価値観が色々と流れ込んできたが、『流れ水の民』というのはその中に無かった。
ウーノの質問に対して、ミーシャは不思議そうな顔をした。
「あ、あれ?ご存知ないんですか?えっと、『流れ水の民』というのは、私みたいな黒髪で青い瞳の人たちで、優秀な魔法使いが多くて、特に水と風の魔法が得意なんです。大きな川とかを自然崇拝してて、そういう信仰対象を、国や地域をまたいで旅する風習があるのが特徴ですね。最近は同じ場所に代々定住する人も増えてるらしいですけど」
今まではつっかえつっかえの吃音交じりの話し方だったが、流れ水の民の説明をする時はスムーズな喋りだった。
繰り返ししてきた説明なのだろうか。
「そうなんだ。すると、ミーシャさんも旅の途中だったりするのかな?」
「あ、いえ。こ、子供のころはお母さんと一緒に旅してたんですけど、今はずっとここに住んでます。で、でも、お母さんは私にこの家をくれた後、一人で旅に出てしまって」
「この森の中で、ずっと一人で?近くに村や町は?」
「し、しばらく歩けば村があるんですけど……よそ者の私は、えへへ、警戒されてるみたいです。ひ、人と話すのも、ちょっと苦手なので、打ち解けなくて……えへへ、臆病者な上に口下手なんて、お、女らしくないですよね!へへ……」
ミーシャは自嘲的な笑みを浮かべながら、自分で自分の言葉に傷ついたようで目に潤ませていた。
この世界では、女性は強くてコミュ力が高いことが、女性的であるとして評価される。
古来から、女性が外に出て狩りを行い、魔物を倒して食料と安全を確保していた。魔物という強大な敵に立ち向かうには勇敢さが、そして討ち倒すには仲間と綿密な連携をするためのコミュ力が必須だった。
ミーシャ自身は魔物を瞬殺する強さがあるのだが、臆病なせいでそれもアピールできず。その上に吃音気味で他者とスムーズにコミュニケーションを取れないミーシャは、この世界の価値観に照らし合わせれば『女らしくない』という評価を受ける。
しかし、男子校出身&父子家庭というコンボで女性に免疫が無いのも合わさって、ウーノは女の涙に極めて弱かった。おまけにミーシャは美少女だ。
この時点で、恋愛経験どころか身近に女性のいない人生を送って来たウーノは、ミーシャが気になる異性になってしまっていた。
女性が泣いていたら、その涙を拭わなくてはならない。父譲譲りの若干昭和が入った男女観を持っている彼は、そう結論付けた。
キモイと思われないかな?距離を取られたりしないかな?いや、この世界は男の方が恋愛市場では有利、大丈夫なはず。
不安に思いながらもこの世界の常識を当てにして、ウーノはミーシャの目じりに指を添わせ、零れそうになっていた涙をそっと拭った。
「俺から見れば、ミーシャさんは魅力的な女性だよ」
「そ、そんな訳ありません……そ、それに、私は臆病で口下手なうえに、貧乳ですし……」
この世界の女性の胸の大きさの価値観は、元の世界と相違ない。元の世界の男で言えば、筋肉かチ〇長だろうか。
大きい方が好き、と言う意見が主流だが、小さい方が好きな派閥もそれなりに存在する。しかし、女の世界ではデカいとそれだけで一目置かれる。異性へのアピールもあるが、同性間での格付け要素が強い。
ともかく、魔物を倒せる力は合っても臆病で貧乳、自分はダメな女だ。そう自覚しているミーシャは、自分に言い聞かせるようにウーノの言葉を否定した。
しかし、その否定の言葉の声音は、男性に顔を触られるという経験に上ずっていた。
そしてその声のトーンを聞いて、ウーノは一つの確信を得た。あ、この子、俺と同じタイプだ。異性との交流経験が少なすぎて、ちょっとしたボディタッチで舞い上がっちゃうタイプだ、と。
異性への免疫が無いウーノは涙一つでミーシャに好意を持ったが、それはミーシャにしても同じことだった。
嫌がられない保証がされたウーノは、さらに勇気を出してミーシャの手を取ると、顔を近づけて語りかけた。
「本当だよ。口達者な人より、ミーシャさんみたいな大人しい、いや落ち着いた女性の方が、一緒に居て安心する。それに、ミーシャさんは臆病者なんかじゃないよ。確かに俺が初めて見かけたときは、ちょっと魔物相手に腰が引けてたけど。でも、俺が噛みつかれたら直ぐに魔物を倒して助けてくれたじゃないか。『勇敢さは恐れないことじゃない。恐れを越えることだ』、って誰かも言ってたし。ミーシャさんは恐れを乗り越えて、俺を助けてくれたんだから、臆病者なんかじゃないさ」
自分のコンプレックスを受け入れ、あるいは否定してくれる。しかもパンツ一丁でシーツに包まっただけの男性が。
それは、恋愛弱者のミーシャには刺激が強すぎた。
「あう、あう……」
「それに、ミーシャさんは胸の大きさ何て気にならないくらい、すごく、その……か、可愛いよ」
女性の容姿をほめた経験のないウーノは、緊張しながらなんとか言葉を言い切った。
「はうっ……」
頭の上から湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしたミーシャは、何かしらうめきながら、言葉にならない言葉をつぶやくばかりだ。
セクハラと思われてない!それどころか照れさせている!女性へのボディタッチや容姿を褒めることがアウトではないと確信を得られたウーノは、ミーシャの手を握ったまま椅子を立ち一歩、歩み寄った。ミーシャの前髪をずらして、そのきれいな顔をもっとよく見たい、そんな動機から。
しかし彼は、今の自分の服装を忘れていた。
パンイチにシーツに包まっただけ。そして両手はミーシャの手を握っているので、立ち上がるとシーツははだけて落ちる。
そして、座った状態で照れて下を向いたミーシャには、必然的にウーノの股間が見えた。パンツで隠されただけの股間が。
これだけでもだいぶ悪かったのだが、それ以上に最悪だったのが、ウーノの下半身が元気百倍だったことだ。
彼の名誉のため擁護しておくと、命の危機にさらされた結果、犬にかまれた時点から既に硬くなっていた。初めて握った異性の手の柔らかさに興奮し、特定の部位が大きく膨張したわけでは無い。
とはいえそこが膨らんでいるのは事実。女らしくない、価値がないはずの自分に優しくしてくれる、初めての男性。それがパンツに巨大なテントを張って自分に近づいてきたら。それはもう、誘ってるも同然であった。
ミーシャの脳内では、緊急会議が開催された。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「これは噂に聞く、ユーワク、というやつです!」「ゲキエロマッチョボディだし慣れてる人ですよ!」「間違いありません!」
「早まらないでください!ウーノさんのゾウさんが、とんでもなくエレファントなだけの可能性もあります!」「勘違いです!」「自分の価値を過大評価しないで!」
「でもでも、ただエレファントなだけの場合、ズボンの横とか下に形ができるって聞きました!あの形状は垂直!三角!大山脈!あれはボッキです!」「あの筋肉量、女にモテモテ!遊び慣れてる人だと思うし大丈夫ですって!」「安心して!」
「だ、だけど、もしも勘違いだったら、どうするんですか!」「取り返しがつかない!」「せっかく親しくなれそうな男性なのに!」
「……いいですか?据え膳食わねば女の恥。それは、私たちが恥をかく、というわけではありません。据え膳を用意してくれた人、つまりユーワクしてくれたウーノさんに、恥をかかせるという、男性に恥をかかせるという恥が女の最大の恥なのです。これ以上ためらうのは、ウーノさんに失礼です!」「あの割れた腹筋を見れば明らか!誘ってますよこれは!」「押し倒しましょう!」
「……そうですか?そうかもしれないです」「確かにこれで勘違いだったら、むしろウーノさんが悪いですね」「これを逃した、一生処女で死ぬかも」
「やっちゃいましょうよ!」「ガチムチドスケベ!」「やったれやったれ!」
「良し、ゴーゴー!」「なんとでもなります!」「ベッドベッド!」
Ураааааааа!!!!
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
この世界では、男性の筋肉はセックスアピールの一つ。元の世界でデカパイデカケツ、マッチョボディはダイナマイトボディに相当する。
ウーノの筋肉は、ミーシャから見てドエロイ存在。それ持ち主が股間を膨らませていたら。
沸騰寸前だったミーシャの理性は、水蒸気爆発を起こして砕け散った。
「ミーシャさん……うお!?ミーシャさん!?」
ウーノがミーシャの髪を掻き上げようとした瞬間、彼女の長い黒髪がユラッと揺れた。彼女はウーノの腕をつかんで自分の座っていたベッドの上に投げ飛ばす。
彼の体はベッドに着地する寸前で、風のクッションのようなものに受け止められた。ポスンという着地音と共に、ミーシャの体臭か、甘い香りが彼の鼻を刺激した。
突然のことに目を白黒させたウーノの上に、ミーシャが馬乗りになった。
「……嫌だったら、ちゃんと抵抗してくださいね」
「み、ミーシャさん?ちょっと離して……力つよ!?」
ウーノがミーシャの拘束を外そうと手を添えたが、想定外の力強さにびくともしなかった。
「ふふ、鍛えても、それしか力が出ないなんて、可愛いですね。でもこんなに弱い抵抗なら、同意があるということでいいですね……ウーノさんが、ウーノさんが悪いんですからね……?」
「オーケイ、俺が悪かった、ごめん。だから一回落ち着こうか」
「あんなの、見せておいて……もう、遅いです」
そう呟くミーシャの眼光に、ウーノは見覚えがあった。自分が未成年飲酒する原因となった、新歓コンパで新入生の女子にやたらと酒を勧める、上級生の男のそれと同じだったのだ。
ああ、なるほど?
ウーノは理解した。
不思議な気分だった。命の危機をきっかけに、女性の前でずっと股間を膨らませていたのに。体はそれを、求めていたはずなのに。いざ暴力的な獣欲を向けられると、股間はヒュッと縮みあがってしまう。マイナス×マイナスはプラスと言うか。二度目の命の危機に、カチコチアチアチだった相棒は今ではフンニャリヒエヒエとして、脳に操縦権を返上してしまっていた。
そう、彼は理解していなかった。
恋愛市場の力関係は、選ぶ側と、選ばれる側だけではない。捕食者と被捕食者という側面も、持っているのだと。
この世界では、売春婦ではなく売春夫がいる。そして、強姦ではなく強漢が存在するのだと。
選ぶ側に立ったのだから、女性にモテるのは簡単だ、なんて都合のいい側面だけではない。
苛烈で下劣な性欲を、一方的に暴力的に叩きつけられるという、怖ろしい面も存在しているのだ。
魔法による身体強化。それによる、男女の絶対的な力の差。抵抗を一切許さない力の前に、ほとんど裸の彼の中にあったのは、性欲ではない。恐怖だ。
逆レも抜けるな!以前はそんな風にエロ漫画トークを、男子校の中でしていた。しかし実際に力づくで押さえつけられ、身動きを取ることを許されない、抵抗したらひどい目にあわされるかもしれない、そんな危機的状況に置かれて、ウーノは恐怖した。
性欲だけなら、喜べた。暴力だけなら、抗えた。
しかし二つが融合した獣欲を前にすると、喜べず、さりとて奮起して抗うことも出来ず。
初めて自分が『被害者』になる、という危機に直面して、彼の股間は寒中水泳をした時のように縮み上がっていた。
ミーシャはパンツを脱がそうと見た先で、すっかり小さなお子様象さんに変わってしまったウーノの股間を見ると、瞳に涙をためてクシャリと顔を歪ませた。
「……なんで、縮んでるんですか?さっき、私が魅力的と言ったのは……嘘だったんですか?私を、騙していたんですか?嘘つきの口は……塞がないと」
ミーシャの奇麗な水色の瞳は、今では深く暗い水底のようなドロリとした色に変わっていた。完全にハイライトが消えてらっしゃる。
そんな彼女の手が、肩から外れてウーノの首筋をツーッと撫で上げ、そして唇へと動いた。
唇に人差し指が触れた時、彼はミーシャの髪が、フワリと浮き上がったのを見た。
ウーノは本能的に叫んだ。
「……初めてだから、優しくしてほしいな!!」
しばしの沈黙の後、浮き上がっていた黒髪は、力を失って元の位置に収まった。
「……嘘つき……どうせ、嘘です。あんな思わせぶりな態度取っておいて、こんなイヤラシイ体して初めてなわけ……無いです」
しかしまだ信用は得られていないようで、ミーシャの目は据わったままだった。
「いや、本当に本当なのよ。マジで、俺童貞だから。ほら、女の子だと、処女だと血が出るとかあるじゃん、あれの童貞バージョンってさ、ないかな?俺詳しく無くて」
「……童貞のあそこは、味がしないって聞いたことがあります。女性経験があると、ちょっと苦いって」
「うん、俺自分の舐めたことないから知らないけど、多分苦くないから。でも一ついいかな、そっち舐める前に、キスしてくれない?俺ファーストキスだから、初めてはプレーンが良いんだ」
ファーストキス。その言葉を聞いたミーシャの瞳から、少し闇が薄らいだ。今は台風の後の海くらいの濁り具合である。澄み切ったマリンブルーまであと少しだ。
「わ、私も……ファーストキス、なので……下手でも、笑わないで、ください、ね?」
「ホント?やった、ミーシャちゃんの始めてをもらえるなんて、嬉しいな!」
最後の一押し。ウーノがヤケクソ気味に言うと、ミーシャは柔らかく微笑んだ。
鬼女ではない、美少女の微笑みだ。
「ふふ、もらうのは、私の方、です……」
ウーノが想像したとおり、ミーシャの唇は柔らかかった。




