第9話 裏切りへの怒り
森本先生の弁護士事務所の冷たい空気が、私の体中に絡みついたまま、私は茫然自失として、夜の街を彷徨っていた。握りしめた手のひらには、まるで魂が抜けたかのように軽くなったバッグ。その中には、私の人生を、そして母が遺した全てを奪い去った、「株式無償贈与契約書」が横たわっている。
「美咲さん、これは根本的に、婚前契約書ではありません。これは、**株式無償贈与契約書**です」
森本先生のその言葉が、私の耳の奥で、まるで破れたレコードのように繰り返し響いていた。母が命懸けで築き上げた「アークデザイン」。私が心血を注いで守ろうとしてきた、母の魂そのもの。それが、私のたった一筆で、最愛の親友に奪われていたのだ。蓮の裏切りよりも、遥かに深く、残酷な真実が、私の心臓を抉り取った。
「嘘……沙織が、私を騙すはずがない……」
か細い声が、私の喉から絞り出された。信じたくなかった。沙織が、私を守ると言ってくれたではないか。あの温かい笑顔、私を気遣う言葉、あの全てが、嘘だったというのか。私の無垢な信頼は、どれほど愚かだったのだろう。
アスファルトの冷たさが足元から這い上がってくる。雨は上がったけれど、街全体が、まるで悲しみに沈んでいるかのように、しっとりと濡れていた。ガス灯の光が路面に反射し、私の涙で霞んだ視界には、全てが歪んで見えた。煌めくネオンサインも、行き交う人々の楽しげな笑い声も、私の心には一切届かない。全てが、私を嘲笑っているかのように響いた。世界から、私だけが切り離されたような、途方もない孤独感に襲われた。
足元が覚束ず、私はただ、当てもなく街を彷徨った。蓮と葉子の裏切りは、私に深い傷を負わせた。しかし、沙織の裏切りは、私の心の根底を揺るがした。家族と呼べる存在のいなかった私にとって、彼女は唯一、心を許せる肉親のような存在だったから。
(沙織……なぜ、こんなことを……)
あの古びた判子屋のインクの匂い、そして赤い公証印が、鮮烈なフラッシュバックのように何度も蘇る。沙織の優しい笑顔。彼女の「美咲を守るため」という言葉。あの言葉の全てが、まるで毒を塗られた刃のように、私の心臓を深く突き刺した。母が命を賭して私に託したアークデザインを、私は彼女の言葉を盲信することで、失ってしまった。
その瞬間、母の最期の言葉が、鮮明に脳裏に響き渡った。
「美咲……沙織を……信じるな……」
車椅子の母が、病室のベッドの上で、か細い声で私に告げた言葉。あの時、私は母が病のせいで意識が朦朧としているのだと、何の疑いもなく思っていた。まさか、それが、未来の私への、命がけの警告だったとは。
私は、その場に立ち尽くした。脳裏に母の苦しむ顔が浮かび、同時に自分の愚かさが、刃となって心を深く切り裂く。なぜ、私は母の言葉に耳を傾けなかったのだろう。なぜ、こんなにも世間知らずで、人を信じやすい、愚かな人間なのだろう。自分自身への怒りが、込み上げてきた。
絶望の淵。私は、この巨大な裏切りを前に、まるで掌サイズの無力な子供のように感じられた。蓮に裏切られ、沙織に騙され、母の遺産を奪われた。私は、全てを失った。このまま、私の人生は、真っ暗な奈落の底へと落ちていくのだろうか。
体中に冷たい震えが走る。込み上げてくる嗚咽を、必死で噛み殺した。誰かに助けを求めたい。しかし、誰に助けを求めればいいのか。私の周りには、もう誰も信頼できる人間がいない。深い孤独が、私の心を支配した。私は、この冷たい夜の街で、ただ一人、震え続けるしかなかった。
私の愛した蓮は、私を欺き、別の女性と深く愛し合っていた。そして、私を心から守ってくれると信じた親友は、私を巧妙な罠に陥れ、母の遺産を奪い去った。
私の、無垢な幸福は、音もなく、脆く、そして無残にも崩れ去っていた。その崩壊の音は、あまりにも静かで、あまりにも遅すぎたのだ。
しかし、その絶望の底で、私の中に、一つの強い感情が芽生え始めた。それは、全てを奪われた者だけが持つ、純粋な怒りだった。私をこんな目に遭わせた者たちへの、決して許すことのできない、復讐の感情。私は、もう泣かない。この怒りを、彼らへの報復へと変える。私は、この裏切りの真実を、私の手で暴き出すのだ。
私の足は、もはや彷徨うことをやめ、一つの目的地へと向かい始めていた。沙織のマンション。そこで、この裏切りの真実を、この目で確かめ、彼らに償わせるのだ。胸に宿った、冷たい炎が、私を突き動かしていた。