第8話 弁護士との面談と衝撃の真実
ホテルを後にした私は、その足で弁護士事務所へと向かった。雨はいつの間にか止み、夜空にはぼんやりと月が浮かんでいたけれど、私の心には一切の光が差さなかった。予約もなしに突然訪れた私に、秘書は驚きを隠せない様子だったが、私のただならぬ雰囲気に気付いたのか、すぐに担当弁護士である森本先生に取り次いでくれた。
森本先生は、冷静で経験豊富なベテラン弁護士だ。私を見ても、表情一つ変えずに、ただ椅子を勧めた。「林さん、どうなさいましたか。何か大変なことがあったようですね」彼の穏やかな声が、かえって私の感情を刺激した。私は、震える声で、蓮と葉子の関係、そしてホテルで目撃した全てを、涙ながらに語った。
森本先生は、私の言葉を遮ることなく、じっと耳を傾けてくれた。そして、私が差し出した不倫の証拠写真を一枚一枚、ゆっくりと確認した。そのプロフェッショナルな視線は、感情的な私とは異なり、冷静に事実だけを捉えていた。
「なるほど、これだけ証拠があれば、立証は可能です。離婚と慰謝料の請求、どちらも進められるでしょう」
彼の言葉に、私の心に僅かな安堵が広がった。これで、蓮と葉子に、私の受けた苦しみを償わせることができる。私は、バッグの中から、あの日沙織に言われるがまま署名した『婚前財産契約書』を取り出した。少し黄ばみ始めたその書類は、私の手の中で、ひどく重く感じられた。
「先生、こちらが婚前契約書です。沙織が、万が一のためにと叔父さんに作ってもらったもので……蓮には内緒なので、このことは彼に伏せておいてください」
私は震える声で告げ、書類を森本先生に手渡した。この契約書があれば、私は蓮から60%の財産分与を受けられる。それが、私の唯一の救いだった。この汚れた結婚から、少しでも有利な条件で解放されたい。
森本先生は、私から契約書を受け取ると、眼鏡を押し上げ、一枚一枚、丁寧に書類に目を通し始めた。彼の表情は、先ほどまでの冷静さを保っていたが、数ページを読み進めたところで、彼の眉間に深い皺が刻まれた。そして、その顔色は、まるで血の気が引いたかのように、真っ青になったのだ。
「林さん、これは……」
森本先生の声は、かすかに震えていた。彼は、私を真っ直ぐに見つめ、信じられないものを見たかのような、衝撃と困惑の表情を浮かべていた。
「林さん、これは根本的に、婚前契約書ではありません。これは、株式無償贈与契約書です」
その言葉が、私の耳に届いた瞬間、私の頭の中は真っ白になった。株式無償贈与契約書? そんなはずはない。沙織が、私を、アークデザインを守るために作ってくれたはずだ。私の手から、力が抜け落ちていく。
「あなた、この契約書に署名したその日に、お母様が遺された『アークデザイン』の全株式を、親友の蘇沙織さんに無償で贈与してしまっています!」
森本先生の声が、私の鼓膜を突き破る。私の脳裏に、あの古びた判子屋のインクの匂い、そして赤い公証印が、鮮烈なフラッシュバックのように蘇った。沙織の優しい笑顔。彼女の「美咲を守るため」という言葉。あの言葉の全てが、まるで毒を塗られた刃のように、私の心臓を深く突き刺した。
母が命を懸けて守り抜いた、アークデザイン。私の魂が宿る、母の遺産。それが、私のたった一筆で、親友に奪われていたのだ。信じていた沙織に、私はまんまと騙されていた。蓮の裏切りよりも、遥かに深く、残酷な真実だった。
私の視界は、瞬く間に絶望の闇に覆われた。息ができない。喉からは、声にならない悲鳴が込み上げてくる。沙織、あなた、私を……。
あの時、薄紅色の花びらが舞う桜並木の下で誓った、蓮との永遠の愛。そして、沙織が差し出した、私を守るための「甘い毒薬」。私の無垢な幸福は、音もなく、脆く、そして無残にも崩れ去っていた。その崩壊の音は、あまりにも静かで、あまりにも遅すぎたのだ。