第5話 甘い蜜の終焉
連城蓮との結婚生活は、絵に描いたような幸福から幕を開けた。私たちは、都心を見下ろす高層マンションの最上階に、瀟洒な新居を構えた。窓からは、煌めく夜景がまるで宝石のように広がり、昼間は遠くの山々まで見渡せた。蓮は、仕事で多忙な中でも、私が好む花を欠かさず飾ってくれ、時には自ら腕を振るって得意なイタリアン料理を作ってくれた。食卓にはいつも、笑顔と温かい会話が満ち溢れていた。彼の隣で目覚める朝は、世界で一番甘い目覚めだった。彼の香りに包まれ、二度寝の誘惑に抗いきれないまま、柔らかなシーツの中で彼の胸に顔を埋める。そんな些細な瞬間の全てが、私にとってかけがえのない宝物だった。
しかし、この完璧な幸福の裏側には、常に一つの影がつきまとっていた。それは、沙織に言われるがまま署名した、あの『婚前財産契約書』の存在だった。私は蓮を心から愛していたし、彼を疑う気持ちなど微塵もなかった。しかし、沙織の「あなたと、お母様の会社を守るため」という言葉が、まるで呪文のように私の心を縛り付けていたのだ。蓮に秘密を抱えているという罪悪感は、時折、温かいコーヒーに落ちた一滴の墨のように、私の心に小さな黒い染みを作り、完璧なはずの幸福に微かな濁りを生んでいた。蓮が私の瞳を真っ直ぐに見つめるたび、私はその秘密が彼の澄んだ眼差しを曇らせるのではないかと恐れ、そっと視線を逸らした。
新婚生活が半年を過ぎた頃、私は母の遺した「アークデザイン」の経営に、本格的に力を入れ始めた。母が天才デザイナーであったことは間違いないが、経営者としては少々無頓着な面があった。私が継いでからは、市場の変化に対応するため、新しい技術の導入や、若手デザイナーの育成に奔走した。それは私にとって、亡き母の魂が込められた会社を守り抜くための、そして母の夢を未来へ繋ぐための、聖なる使命のようなものだった。蓮も、私の仕事に理解を示し、時には「頑張りすぎじゃないか」と優しく労ってくれた。
だが、努力とは裏腹に、アークデザインの経営は、徐々に暗礁に乗り上げ始めた。
発注していた素材の納品が突然遅れたり、長年取引のあった印刷会社から、一方的に契約を打ち切られたりすることが相次いだ。小さなトラブルが積み重なり、プロジェクトの進行は滞り、新たなデザインの発表もままならなくなった。まるで、見えない力によって、会社の活動が妨げられているかのようだった。
「林さん、この納期じゃ、さすがに間に合いませんよ。どうにかならないんですか?」
「美咲社長、うちの工場ではこれ以上の受注は……」
取引先からの催促や、工場からの断りの電話が鳴り響くたび、私の胸は締め付けられた。必死で原因を探ろうとするが、どのトラブルも「偶発的なもの」として片付けられ、具体的な悪意を掴むことができなかった。しかし、これほど立て続けに不運が重なることに、私は強い違和感を覚えていた。
「美咲、何か困っていることがあるのなら、私に相談してちょうだい」
そんな私の苦境を見かねたかのように、沙織が声をかけてくれた。彼女は、大手商社で頭角を現し、連城グループとのビジネスにも深く関わっていると聞いていた。その沙織が、アークデザインの経営状況にまで気を配ってくれていることに、私は深い感謝を覚えた。
「最近、どうも運に見放されているみたいで……。材料の納品が遅れたり、発注先から一方的に契約を切られたり。こんなこと、今まで一度もなかったのに」
私が正直に打ち明けると、沙織は眉をひそめ、真剣な表情で私の話を聞いた。彼女は、まるで連城グループの内部事情に精通しているかのように、鋭い視点で問題点を指摘した。
「それは偶然にしては出来すぎているわね。連城グループのような巨大な組織は、たとえ無関係なようでも、意図せずして周囲の小さな会社に影響を与えることがあるの。もしかしたら、あなたのアークデザインが、連城グループの、どこかの派閥の気に触れてしまったのかもしれないわ」
沙織の言葉は、私の心をざわつかせた。連城グループが、アークデザインのような小さな会社に目をつける理由など、全く思い当たらない。しかし、彼女の言う「見えない力」が、確かに私を苦しめているように感じられた。
「美咲、私にできることがあれば、何でも言ってちょうだい。私はあなたの親友だし、あなたのお母様にも恩がある。アークデザインは、あなたのお母様の魂が込められた大切な会社だもの。私があなたの力になるわ」
沙織はそう言って、優しく私の肩を抱き寄せた。その温かい腕と、頼りになる言葉に、私は再び安堵を覚えた。沙織がいてくれる。この困難も、きっと乗り越えられる。私の心は、沙織への絶対的な信頼で満たされていった。
しかし、その沙織の慈愛に満ちた笑顔の裏で、連城グループの巨大な影が、アークデザインと、そして私自身に、ゆっくりと深く、その暗い爪を忍び寄せていたことなど、当時の私は知る由もなかったのだ。甘い蜜に酔いしれていた私の視界は、あまりにも狭すぎた。あの契約書が、ただの「後手」ではなく、「罠」として機能し始めていることにも、私は気づかないまま、深淵へと誘われていたのである。




