第4話 偽装された公証
契約書に署名した瞬間、私の心臓は不規則なリズムを刻んだ。指先にじんわりと残るペンの重みが、まるでこの行為の重さを物語っているようだった。蓮を愛している。その気持ちに一点の曇りもないのに、彼に内緒でこのような書類にサインしたことへの罪悪感が、じわじわと胸の奥に広がる。まるで、蓮の真っ直ぐな瞳を、自分が汚してしまったかのような錯覚に陥った。
「これで大丈夫よ、美咲」
沙織は、満足げに微笑んだ。その表情は、私を心から安堵させようとしているかのように見えたが、私の内側には、拭いきれない不安が残っていた。安堵と不安が、交互に私の心を支配する。
「でも、これを蓮さんに知られたら……。彼は、私を信じてくれなくなるかもしれません」
私が震える声で呟くと、沙織は小さく首を横に振った。彼女の瞳は、まるで先を見通すように鋭く光っていた。
「その心配はご無用よ。これも、あなたの身を守るための秘策なの」
沙織は、製本された契約書をそっと閉じ、テーブルに置いた。そのしなやかな指が、書類の表紙をゆっくりと撫でる。
「この契約書は、連城家のような巨大な組織が本気で潰しにかかれば、どこかに穴を見つけてくる可能性がある。連城健太郎は、どんな小さな綻びも見逃さない人間だわ。だからね、あえて正規の公証役場では手続きをしないの」
私の眉根が寄った。正規の公証手続きをしないとは、一体どういうことだろう? それでは、この契約書自体が無効になってしまうのではないか。沙織は、私の顔を真っ直ぐに見つめ、その瞳には、私には理解できない深い光が宿っていた。
「これは、蓮さんに『この契約書は、美咲が感情的になって作った、正規のものではない、無効なものだ』と思わせるためよ。彼に警戒心を抱かせず、いざという時に油断させる。それが、あなたの最大の『後手』になるわ。彼の父親である健太郎は、蓮さん自身の足元も信用していない。だから、蓮さんも、まさかあなたがそんな巧妙な罠を仕掛けるなんて、想像もできないでしょう?」
沙織の言葉は、まるで一枚のベールを剥がすように、私の思考を支配した。確かに、蓮がこの契約書を偽物だと信じていれば、私に何かあった時に、彼はこれを利用しようとはしないだろう。そして、それが私の本当の護身符になる。沙織の策は、一見すると無茶なように見えて、実は美咲の優しさや蓮への愛情を逆手に取る、非常に巧妙な罠であった。私の良心につけ込む、巧妙な毒だった。
「だからね、この契約書は、連城グループの弁護士が簡単に無効にできるような、路地裏の『判子屋』で『公証』を済ませておきましょう。それなら、いざという時に、蓮さんも疑わないでしょ? 『美咲は馬鹿だから、こんな偽物を作ったんだ』って、軽く見てくれるはずよ」
沙織の提案に、私の心は再びざわめいた。路地裏の判子屋で「公証」。それは、まるで詐欺師が行うような、いかがわしい行為ではないか。私には、あまりにも縁遠い、暗い世界のやり方だった。私の体が、本能的に拒絶反応を示そうとしている。しかし、沙織は私の手を握り、力強く言った。その手は、冷たいはずなのに、私の心を縛りつける鎖のように感じられた。
「美咲、これはあなたを守るための戦いよ。時には、少しだけ汚い手を使わないといけないこともある。でも、それは全て、あなたを守るためなの。信じてちょうだい」
その言葉に、私は抗うことができなかった。沙織の強い意思と、私への揺るぎない愛情(と私が信じていたもの)を前に、私はただ彼女に身を委ねるしかなかった。蓮への罪悪感と、母への忠誠心が、私の心を激しく引き裂く。私は、これが正しい選択であると、自分に言い聞かせ続けた。
翌日、沙織は私を、都心の裏通りにある、薄暗い路地へと案内した。高層ビル群の陰に隠れるように存在する、細く、湿っぽい路地。錆びた看板がかかった、古びた判子屋は、ひっそりと佇んでいた。埃をかぶったガラス窓の向こうには、乱雑に積まれたゴム印が並び、店内は独特のインクの匂いが充満していた。怪しげな雰囲気は、私の心を落ち着かせるどころか、さらに不安を煽った。まるで、この場所が、私の純粋な世界に開いた、小さな闇の入り口のように思えた。
無表情な店主が、沙織から受け取った書類に、無造作に公証印を捺す。その赤い印影は、まるで私の心を汚す血痕のように、鮮烈に目に焼き付いた。私は、その瞬間、自分が越えてはいけない一線を越えてしまったような感覚に囚われた。蓮への罪悪感が、鉛のように胃の腑に沈んだ。体中に冷たいものが走る。
偽装された公証を終え、沙織は満足げに契約書をバッグに収めた。私の心には、一時的な安堵と、しかし拭いきれない重苦しい感情が混じり合っていた。蓮に真実を話すべきではないか。このままでは、彼を欺いていることに変わりはない。そんな自責の念が、私の心を締め付ける。しかし、沙織の「美咲を守るため」という言葉が、まるで呪文のように私の思考を支配し、その声を押し殺した。私は、この秘密を墓場まで持っていくのだと、硬く心に誓った。
路地裏の薄暗闇から抜け出し、再び都会の喧騒の中に出た時、私の世界は、ほんの少しだけ、色褪せて見えた。眩しかった陽光も、以前のように輝いては見えない。私の手のひらには、まだ判子屋のインクの匂いが微かに残っているようだった。この、私と蓮の未来を守るはずの「偽りの契約書」が、後に私たち二人を奈落の底へ突き落とす、甘い毒薬となることなど、当時の私は知る由もなかった。私の、無垢な幸福は、この時、すでに音もなく崩れ始めていたのである。




