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親友が密かに署名した婚前契約書  作者: 朧月 華


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第36話 葛藤する美咲の心

沙織の提案は、あまりにも魅力的で、そして同時に、あまりにも危険な毒のように、私の心に深く染み渡った。健太郎という共通の敵を倒し、母の遺志である「星核スターコア」技術の平和利用を実現する。そして、私がアークデザインを取り戻し、沙織が連城グループの新しい総帥となり、二度と健太郎のような悪魔が現れないように、この巨大な企業を立て直す。それは、私にとって、まさに夢のような未来図だった。


しかし、私の心には、拭いきれない疑念が渦巻いていた。沙織は、私を騙し、母の会社を奪い取ろうとした女だ。彼女の口から語られた過去の悲劇、母親の復讐という動機は、確かに私の心を揺さぶった。彼女もまた、健太郎という悪意の犠牲者であったという事実に、憐憫の情を抱いたのも事実だ。だが、その裏に隠された、彼女自身の強大な野心と、私を駒として利用しようとする冷徹な計算が、私の心に警鐘を鳴らし続けていた。


(沙織は、本当に健太郎を排除することだけで満足するのだろうか……)


私の脳裏には、沙織がワイングラスを揺らし、私を嘲笑っていたあの冷酷な表情が、鮮明に蘇る。彼女は、私を騙すことに、何の躊躇もなかった。彼女の「私たちは同じ種類の人間だ」という言葉も、私には、どこか不気味に響いた。私と彼女は、確かに連城家の陰謀に巻き込まれ、傷つけられた。だが、私たちが同じ種類の人間だとは、どうしても思えなかった。私の根底にあるのは、母への愛と、その遺志を守りたいという純粋な願いだった。沙織の瞳に燃えていたのは、それとは異なる、もっと強烈で、もっと支配的な、燃え盛るような野心の炎だった。


書斎の重苦しい空気の中、蓮は未だ顔を覆い、深い震えを続けている。彼もまた、健太郎と沙織の裏切りによって、全てを打ち砕かれたように見えた。しかし、私の視線は、彼の一挙手一投足を、無意識のうちに追っていた。彼の震えは、本当に絶望からくるものなのか。それとも、別の何かを隠しているのか。彼の母も健太郎に殺されたという沙織の告白に、蓮は深く苦しんでいた。しかし、彼の心の奥底に、私にはまだ理解できない、暗い光が宿っているような、漠然とした違和感が残っていた。


私は、沙織の同盟提案への返事を保留した。


「沙織、あなた自身の言葉で、健太郎さんの悪行は暴かれたわ。そして、あなたが私を騙し、母の会社を奪おうとしたことも。私は、この全てを整理する時間が必要よ。連城グループという巨大な組織を、あなたと共同で運営することの、リスクとメリットを、慎重に検討したい」


私の言葉に、沙織の瞳に一瞬、不満の色が浮かんだ。しかし、すぐに彼女はそれを隠し、優雅な笑みを浮かべた。


「ええ、もちろんよ、美咲。無理強いはしないわ。でも、時間はあまりないわよ。健太郎さんが逮捕されたとはいえ、連城グループは巨大な組織。空白期間が長引けば、何が起こるか分からない。連城グループの空白を狙う輩は、いくらでもいるもの。このままでは、健太郎さんの残党が、あなたやアークデザインに危害を加えてくる可能性もゼロではないわ」


沙織の言葉は、私への忠告でありながら、同時に、私を同盟へと誘い込む巧妙な脅しでもあった。私は、その言葉に、わずかな焦燥感を覚えた。確かに、このまま何もしなければ、私もアークデザインも、再び危険に晒される可能性がある。しかし、沙織の言葉に安易に乗ることは、もっと大きな危険を招くかもしれない。


書斎を出た後も、私の心は休まることがなかった。蓮は、沙織の言葉にも反応せず、ただ虚ろな目で私を見つめていた。その瞳の奥に、かつて見えたあの深い孤独は、もはや影を潜め、何か別の、私にはまだ理解できない光が宿っているように見えた。彼は、本当に全ての真実を知らなかったのか。それとも、まだ何かを隠しているのか。


私は、この盤面を、私自身の目で、そして私自身の知性で、読み解かなければならないと強く感じていた。


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