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親友が密かに署名した婚前契約書  作者: 朧月 華


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第3話 「守るため」の罠


沙織の忠告は、私の心に深く響いた。蓮への愛は揺るぎないものだったけれど、連城家という巨大な存在と向き合う上で、私の無知と無防備さが、時に蓮自身をも傷つけるのではないかという恐れを抱き始めていた。母が命を懸けて築き上げたアークデザインを守りたいという思いは、私の中で何よりも優先されるべきものだった。もし私が守れなければ、天国の母に顔向けできない。そんな思いが、私の心を支配し始めていた。


数日後、沙織は私を再び呼び出した。カフェの個室は、他人の目に触れることのない、密やかな空間だった。窓の外を忙しなく行き交う人々のざわめきだけが、かろうじて聞こえてくる。彼女の手には、一冊の契約書が挟まれていた。上質で、まるで美術館の所蔵品のように厳かに製本された書類だった。表紙には何も書かれていないけれど、その厚みと重みが、尋常ではない重要性を物語っていた。


「美咲、あなたのために、具体的な提案があるの」


沙織の声は、いつになく真剣で、私の心を震わせた。彼女は、その契約書を私の前に静かに置いた。その動作一つにも、彼女の決意のようなものが感じられた。


「これは『婚前財産契約書』。私の叔父さんが、この分野で有名な離婚弁護士をしているのだけれど、彼に頼んで、美咲のために徹夜で作ってもらったのよ。連城家のようなところでは、公証役場での手続きだけでは、いざという時に効力が弱いケースも多い。だから、もっと効力があり、あなたの権利をしっかり守るための、特別なものよ」


沙織の叔父が弁護士であることは知っていた。彼女の言葉には、一片の疑いも挟む余地がないように思えた。私は書類に視線を落とした。そこに書かれた太字の見出しが、私の視界に飛び込んできた。


『婚姻期間中、および離婚時の財産分与に関する合意書』。


条項は、確かに私に有利な内容ばかりが並んでいた。特に、「万が一、夫である連城蓮の過失により離婚に至った場合、林美咲は蓮の個人資産の60%を分与される権利を有する」という一文は、美咲が経済的に不安定な立場に置かれることのないよう、完璧に保護されているように見えた。私の母が遺したアークデザインについても、私の個人財産として明確に記載されており、蓮の財産とははっきりと区別されていた。これなら、母の会社は守られる。そう思った。


私の心は、激しく揺れ動いた。蓮を信じていないわけではない。彼の私への愛情は、本物だと信じていた。しかし、沙織の言う通り、蓮の周囲には連城家という巨大な影がつきまとう。万が一、彼に何かあった時、私一人が取り残され、アークデザインまで奪われてしまうようなことになったら……。それは、母への裏切りに等しい。守りたい。私自身の心を守り、母の遺したものを守りたい。


「美咲、あなたは優しいから、きっと蓮さんを疑うことなんてできないでしょう? でもね、世の中にはあなたの想像をはるかに超えるような、冷酷な現実があるの。連城健太郎――蓮さんのご両親は、その典型的な人物よ。彼は連城グループをここまで築き上げるために、どれだけのものを犠牲にしてきたか。時には、家族の情すらも容赦なく切り捨てる。財産に関しては、特にそうよ。あなたが無防備でいたら、後でどんな目に遭うか分からない。私、見ていられなくて」


沙織の言葉は、私に蓮の父親、健太郎に関する冷徹な噂を思い出させた。彼は連城グループの総帥として、その手腕は評価されていたけれど、同時に私利私欲のためなら手段を選ばないという、恐ろしい評判も耳にしていた。その影が、蓮にまで及ぶのではないかという不安が、私の胸を締め付けた。私の純粋な愛が、連城家の冷酷な現実の前では、あまりにも無力に思えた。


「これは、蓮さんを信じないということじゃないのよ。逆よ。あなたが強く立つことで、蓮さんとの絆も守れる。そして何より、あなた自身と、お母様が残してくれた大切なアークデザインを守ることになるの。私には、あなたを守る義務がある。あなたのお母様にもそう誓ったもの」


沙織の言葉は、私の心を縛る罪悪感をゆっくりと解き放っていった。母にも誓った――その言葉が、私の最後の迷いを消し去った。沙織は、いつも私を支え、守ってくれた。彼女がそこまで言うのなら、これはきっと、私にとって最善の道なのだ。私は、蓮を裏切るのではない、私自身と母の遺産を守るための、大切な一歩なのだと、自分に言い聞かせた。


そして、私の手は、細かく震えながら、ペンを握りしめた。インクが書類の上を滑り、私のフルネーム、林美咲の名が、あの『婚前財産契約書』の上に記された。その瞬間、私の心には、安堵と、しかし拭いきれない重苦しい感情が混じり合っていた。知らなかった。この一筆が、私を、そして私を取り巻く全てを、恐ろしい運命の渦へと深く引きずり込むことになろうとは。


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