第29話 健太郎の登場と威圧感
沙織の告白は、私の心の奥底に複雑な感情の嵐を巻き起こしていた。彼女は私を裏切った悪女であり、母の死に関わった共犯者である。しかし、同時に彼女もまた、健太郎という冷酷な存在に利用され、母親を奪われた被害者でもあった。目の前で泣き崩れる蓮の姿も、私の中で、彼への憎悪と憐憫が混じり合った、形容しがたい感情を生み出していた。この盤上に並べられた駒たちの全てが、深い傷と、歪んだ運命を背負っている。誰を信じ、誰を疑えばいいのか、私の心は激しく混乱していた。
その時だった。
重厚な書斎の扉が、ゆっくりと、しかし有無を言わせぬ音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、連城グループ総帥、連城健太郎だった。彼の顔には、疲労の色が深く刻まれている。しかし、その瞳には、私の知るどんな人間も持ち合わせないほどの、底知れない冷酷さと、研ぎ澄まされた計算が宿っていた。まるで、私たちが繰り広げた感情的な対立など、取るに足らない茶番だとでも言うかのように、彼は静かに、しかし威圧的に部屋に入ってきた。
彼の視線は、まず、床に座り込み、顔を覆って震える蓮を一瞥した。その瞳に宿るのは、愛情などではなく、侮蔑と、そして明確な失望だった。次に、私と沙織を交互に見る。沙織は、健太郎の姿を見ると、一瞬にして顔色を変えた。彼女の瞳に、再び恐怖の色が戻る。健太郎の存在は、沙織の野心をも、一瞬にして萎縮させるほどの絶対的な威圧感を持っていた。
「随分と、騒がしいな。私の書斎で、何を茶番を演じている」
健太郎の声は、低く、しかし部屋の隅々にまで響き渡るような、絶対的な力を持っていた。彼の言葉には、私たちが話していた内容を全て聞いている、という明確な響きがあった。沙織が私に語った秘密、蓮の不倫、母たちの死の真相……その全てを、彼は知っていたのだ。
沙織は、健太郎の言葉に、ぐっと唇を噛み締めた。その瞳に、一瞬、激しい怒りが灯るが、すぐに恐怖と諦めに取って代わられた。蓮は、健太郎の姿を見ると、さらに体を震わせ、小さく嗚咽を漏らした。彼がどれほど父親を恐れているか、私には痛いほど伝わってきた。
健太郎は、ゆっくりと部屋の中央へと歩みを進めた。彼の足取りは、老齢を感じさせないほど、力強く、そして確固たるものだった。そして、彼は私の目の前に立ち止まった。その冷たい視線が、私を貫く。
「林美咲、君が、私の息子と、私の隠し子の間で、少々面白い真実を引き出してくれたようだな。だが、君の浅はかな正義感など、この連城家では何の役にも立たない」
彼の言葉は、私への侮蔑に満ちていた。しかし、その瞳の奥には、私への警戒と、そして僅かな好奇心が混じり合っているようにも見えた。彼は、私がただの無力な令嬢ではないと、もう気づいている。
「そして、蘇沙織。お前もだ」
健太郎の声が、沙織に厳しく向けられた。
「私の計画の駒として、よく働いてくれた。だが、所詮はお前の母親と同じ。野心が過ぎ、視野が狭い。お前が私を出し抜けるとでも思ったか?」
健太郎の言葉は、沙織の心を深く抉った。彼女の顔から、再び血の気が失われていく。健太郎の掌の上で、自分がいかに無力な存在であったか。その事実を、彼女は今、まざまざと見せつけられていた。
この書斎は、まるで健太郎という絶対的な支配者が君臨する、巨大なチェス盤だった。私たちは皆、彼の意のままに動かされる、ただの駒に過ぎなかったのだ。私の心に、新たな絶望と、しかし同時に、この男の底知れない闇への、強い好奇心が芽生え始めていた。




